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2010年12月

2010年12月24日 (金)

雑草句録:立ち話

2010/12/24

雑草句録:立ち話

■年賀状投函の道立ち話

他愛のないことだが、気持がゆったりしている時の立ち話もなんとなくいい気分になる。年賀状投函に行くときか帰りかはすっかり忘れた。誰にあったのかも忘れたが。

追記:今までは年賀状ソフトを使用し賀状作成したが、最近はよりローテク化を進めている。文面はワードで作成。図をいれるのはどうするのか?色々試行錯誤。ワードもはがき印刷に対応しているので何とかなる。住所録の管理が問題。現在はエクセルで管理。印字は旧式のレーザビームプリンター。トナー確保が課題。勿論黒の単色。宛名面は手書き。高や崎など異字体に気付く。文面には時々消息等を書き込む。一年がかりの超スローコミュニケーションだ。ゆとりをもって、年賀状作りも楽しみたいと思うが...。最終目標は年賀状ゼロ。それまではボケ防止のつもりで頑張る以外になさそうだ。 

2010年12月23日 (木)

雑草句録:火燃し番

2010/12/23

雑草句録:火燃し番

■餅つきの番を外され火燃し番

暮れの餅つきは我が家の恒例行事である。何家族か集まってみんなで餅をついて持ち帰った。父親が餅つきの現役から引退した後は正月を迎える準備等を餅つきの時にしていた。餅つき当番は子供や孫へと引き継がれた。ある時、父はもう餅つきも大変だからと言って子供達に餅つき機をかってやった。各自餅をつけるようにという気配りであったようだ。餅つきという行事に関してはいつか書いたことがある(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2008/12/post-732d.html)。この行事は年一回だけであるが何とか続けている。餅米をふかすのも、つくのも屋外である。かつての父親と同じような役をしているが、縄飾り等は作り方も教えられずに自己流の物を作っている。一時は稲藁も相当古い物を使った事がある。稲作をしていないので材料の手配が大変だ。今年は昨年の貰い物を使う予定だ。稲藁を手でなって縄にして、折った半紙と松葉と金柑の実を縄に挿して飾りとしている。半紙は切り方が解らないので、単に紙片を折るだけであり、白という象徴的な使い方。
ともかく身近にあるもので飾るところにゆかしさがあるのだと思う。

2010年12月22日 (水)

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(6)

2010/12/22

昨日は国定忠次没後160年の命日という事で自分なりにこの年月の重みを考えた。寿命が80や90歳は当たり前という時代になっても人間その日暮らししかできないように感じている。しかし、よくよく歴史をたどると、ある歴史事象が起こるのにも、親、その親と二代や三代まで遡る因縁があるようだ。国定忠次というイメージもそういう歴史の流れの中で現在も生きているのではないか。今朝の上毛新聞の一面に前小寺群馬県知事死去の記事が載り、まさかと思った。国定忠次の死を振り返っているその日の出来事なのだ。死といえば、高山彦九郎は47歳の時(寛政5年/1793)自刃しており、その覚悟の重さを感じる。

以下本題。

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(6)

○「親子の絆を切々と」の章

歌人須永義夫は彦九郎の子供達(幼い末子を除く)の以下の歌を掲げ、「上の三人はそれぞれ歌を記して父を慰めている。」と記している。

■しぐれして濡れにぞぬれし紅葉ばの 訪ふ人もなしあはれ世の中  せい(12歳)
■喪屋に居て越すへを見ればあはれさに 涙こぼるるおくつきのまへ  さと(10歳)
■待つといふその言の葉のちぎりもて 千代もかはらぬ敷島の友  義助(8歳)

かっこの中の年齢は彦九郎の祖母の服喪が終わる年のもので、「これらの歌にはそれぞれ子の立場から父を見つめる眼が働いている。せいは年長だけに彦九郎の志を入れ難い『世の中』にまで言及しているのが注目される」と著者は記す。

「敷島の道」は狭義には和歌の道で、義助の歌では「敷島の友」を学問の友ととり、「その大切な勉学の友をひたぶるに待つ歌である。」と解説している。これらの歌の出典や詠まれた場面については具体的に記されていないが、十歳前後の年齢でこれほどの歌を詠んだことに驚嘆する。しかし、彦九郎が三年の喪に服したという事は、この三年間は子供達と一緒に過ごしたのであり、子供達の勉学や人格形成という点では非常に貴重な期間であったと思われる。彦九郎の喪屋での行動は対社会的な面が多かったかも知れないが、家庭での夕食の団欒時等、子供達に歌の手ほどきをしたり、自分の理想を語ったりしていたかもしれないとつい想像してしまう。

せいの歌を自分なりに解釈してみたい。その前にさとの歌を理解する必要がある。父彦九郎とさと自身の位置関係である。「越すへ」とはこちらのあたり即ちせいの方へ、喪屋にいる彦九郎が視線を投げかけているその父の姿をみるとあわれさに涙がこぼれる。さとはどこにいるのだろうか。先祖代々の墓の前にいるようだ。彦九郎が喪屋から呆然と墓所に視線を投げかけて喪に服している様は子供ながらに、さとの涙を誘った。彦九郎が祖母を崇める姿勢がさとにも強烈に伝わっていたと理解できるだろう。しぐれしてとは雨が降ったり止んだりして天気が落ち着かない様を表し、紅葉ばは濡れにぬれてしまった。従って、その美しい紅葉ばを見るために訪問する人さえいない。しかし、視点を変えると時雨れるには涙をこぼして泣く意味もあり、紅葉は血の涙にも例えられる。そうすると、せいは紅葉ばにたとえて、父を訪問する人もいないような世の中を心底からつれないものと嘆いてその気持ちを歌で表現したととれる。喪に服しているので弔問に訪れた人は多かったようだ。それなのに、訪ふ人もなしと詠むのは彦九郎の志に共鳴して訪れる人もないと著者の指摘に通じる。従って、せいも父彦九郎の境遇を直情的な表現ではなく自然の姿に託して泣いているのである。せいとさとは異母姉妹である。その二人が同じように父の境遇に涙している。彦九郎は自分の娘達には気を許してなにか本当の事を言い残していたのではないかと思えてしまう。そうなると、義助の歌も単に待っているととらずに、ずっと昔から変わらない大和心を持つ同志が現れるのを待っているととれるのかもしれない。

「だがこれらの親子の絆もはかなかった。」と著者は記す。詳細の事情は記されていないが彦九郎と妻子との別離が訪れた。妻子は生家や親類に託される。著者はその原因に内縁という浅さと兄専蔵の迫害を挙げる。高山彦九郎は家族を不幸な目に遭わせて自分勝手な行動をしたので評価できないという人の話を聞いた事がある。公私、忠孝等人倫規範とバランスをとる事は難しい。親子の場合でも極限に至れば親子の縁を切るということもあり得る。見方を変えれば親子の縁を切っても命を落とすよりましである。共倒れは最悪の事態になる。彦九郎が一人行動を起こそうとする時妻子を生家や親類に託した意味を考えてしまう。

2010年12月21日 (火)

雑草句録:忠治忌(没後160年)

2010/12/21

雑草句録:忠治忌(没後160年)

本日は国定忠治没後160年の命日である。偉人の生誕は祝い・感謝すべき大義名分がある。その偉人がいなければ、後世はその恩恵を受けられない。国定忠治の場合はどうなのか。後世は国定忠治から何を受けたのだろうか。意見や議論は分かれる。現代はその議論さえ報道等で加熱して短絡的なムードに流れる。それでは死に様はどうなのだろうか。我々凡人にはまねの出来ない死に様ではないかと思う。今年は裁判員制度が初めて実施された記念すべき年でもある。刑事裁判は証拠に基づき罪を明らかにして刑を定めることが中心になると思うが、時代や裁判制度は異なるが、もし裁判員が国定忠治を裁くとしたらどのような判断になるのであろうか。

国定忠次について記録した歴史資料は意外に少ないようだ。信頼できる基本資料として幕府の高級役人であった羽倉外記が書いた赤城録(せきじょうろく)がある。群馬県立図書館にそのコピーがあった。しかし、漢文で書かれており手に負えない。その後、調べてみると佐波郡東村の村史の第四編「国定忠治関係資料」に原文と書き下ろし文が収録されているのが分かった。それによると、国定忠次は八月二十四日に逮捕され、十二月十六日に監獄に送られた。処刑の前夜と当日の様子を赤城録の読み下し部分から引用する。

「忠治曰く、関下壁氏うん?芳烈、口に称(たた)ふ。願くは一椀を吃(きつ)し、微酔即ち寝ん。明日法場に赴きまた一椀を吃して曰く、本州の酒を飲み、本州の土と為る、快(こころよ)き哉。既にして酌更へてまた一椀を斥(しりぞ)けて曰く、刑に臨み沈酔するは死を畏るる者の事なり、と。再び飲まず寝たり。鎗を執る者、鷺歩の斉(ひとし)く進む霜鍔鏗爾(そうがくこうじ)として面前に叉す。忠治、き?然として監刑者に謝して曰く、此の行、多荷、各位心に費す。槍手鉤声、槍を引き旋して左肋を刺せば、鋒右肋に出づる数尺。右はまた之の如し。左右互に刺す凡そ十四、始めて瞑(めい)す。時に四十一。後五日、宇右衛門斬られ、清五郎流され、お町お徳幽閉され、清松先に監内に死す。」

旧佐波郡東村が村史の中に相当の紙数をさいて「国定忠治関係資料」という編をたてて関係資料を記録に残している事は何を意味しているのであろうか。その資料の中では「国定忠次」ではなく「国定忠治」として扱う旨書かれていた。「国定忠治関係資料」は村の正史としての扱いではなく、関係資料としてであるが、村の歴史から抹殺できない、抹殺すべきでないという意識と行動の現れであるように思われる。その東村も平成の市町村合併で消滅してしまった。

■忠治忌や意見割れども墓朽ちず

2010年12月20日 (月)

雑草句録:節電

20210/12/20

雑草句録:節電

■節電や暖房切れば雨も漏る

古くなった家の雨漏りを補修するのも大変で、そのタイミングも重要。家のメンテナンスも人間と同じで定期的に行えば安心して長く使える。その家を建てた施主が元気ならば業者との関係もあるので修理も頼みやすいだろう。しかし、施主が亡くなってしまい、ちょっとした補修を誰に頼むかと考えるだけでもついつい悩んでしまう。

追記:昨日の天気:氷点下の温度になった。

TAVE= 4.1
TMAX= 8.8
TMIN= -1.5
DIFF= 10.3
WMAX= 4
SUNS= 8.8
RAIN= 0

2010年12月19日 (日)

国定忠治生誕200年(没後160年):国定忠次の処刑

2010/12/19

国定忠治生誕200年(没後160年):国定忠次の処刑

上毛新聞で国定忠次関連の連載が始まった。やはり、国定忠次には人を引きつけるオーラがあるようだ。人間は何事も白黒をつけたがる。しかし、白黒のだけの世界は真実を完全に表しているのか、表すことができるのか。0(ゼロ)と1の間に中間の値があるようなアナログの世界住むことによりにわれわれ人間の気持ちも和むのではないか。国定忠次という人物も自分の意識の中では曖昧な存在ではある。しかし、何かの機会に国定忠次が意識の上がってくる。それを再度、思い出してみようと自分のブログ記事を検索してみた。

国定忠治生誕200年:http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2008/10/post-a263.html

雑草句録:羅漢業:http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2010/11/post-c60f.html

戦時中の病人:http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2009/07/post-6a65.html

栴檀の花:http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2009/04/post-f074.html

古墳盗掘の昔話:http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2008/12/post-3972.html

八幡沼開鑿と川端宇兵衛翁:http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2008/11/post-d6f7.html

先月頃、ある人が国定忠次生誕200年イベントに関する新聞記事のコピーを持ってきてくれた。それを興味深く読んだ。イベントも大々的にやるとなるとその手当が大変である。評価の定まらない人物を中心にしたイベントとなると尚更であろう。実は、上植木水利組合が主催した「川端宇兵衛 生誕200年記念講演」も国定忠次生誕二百年と無縁ではなかった。国定忠次という人物を参照することにより地域の歴史を振り返る事ができた(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/wp06b.html)。国定忠次の磔刑の様子は高橋敏著の本を読んで脳裏に焼き付いていた。この磔の刑で、誰もが思い出すのはイエス・キリストの事であろう。現役時代に、出張先訪問の空き時間にたまたま入った書店で遠藤周作の文庫本を買った。書名はもう忘れている。その中に処刑具としての十字架についての記述があったと思う。十字架上にはりつけられ、力が尽きて身体が緩むと、身体の重みを受けて受刑者の身体を更に痛める仕掛けがあったと記していたと思う。十字架とは受刑者が完全に命が尽きるまで受刑者を苛む装置でもあったという事をあの遠藤周作氏が書いていたので今も忘れることができない。遠藤周作氏は十字架の重さをそれとなく教えてくれたのだろうか。国定忠次磔の様子を高橋敏氏の本で読んだ時も感銘を受けた。国定忠次が処刑されたのは嘉永3(1850)年12月21日である。もうじき命日となる。今年は国定忠次生誕二百年であると共に没後160年であり、国定忠次生誕200年と共に没後160年を振り返るのも意義あることであろう。

2010年12月18日 (土)

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(5)。20101218。

2010/12/18

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(5)

○「親子の絆を切々と」の章

著者は「彦九郎は生涯正妻を持たなかったが、三十二歳の時に太田大島の天野嘉右衛門の娘しもとの間に長女せいが生まれている。」と述べ、それに続けて隣村藤阿久の名主加村太兵衛の娘さきとの間に次女さと、長男義助、三女りよをもうけたと述べている。高山彦九郎記念館の資料「高山彦九郎親族一覧表(http://www5.wind.ne.jp/hikokuro/sinzokuitiran.htm)」によれば、しもを正妻、さきを後妻・妾と記している。
著者は、「彦九郎はただ一人の男子である義助に孔子に孝道の書、孝経を読めと奨めている。その時の歌は

■忘るなよ親につかふるその道の 教へにのこす古へのふみ

である。孝の道こそが忠の道に通う大道であるという彦九郎の思想がそこにあったのである。」と述べている。義助八歳の時である。孝経とは知らずに「身体髪膚これを父母に受く」と小学生の頃教えられた事を記したことがある(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2010/02/post-05a8.html)。「身体髪膚これを父母に受く。あえて毀傷せざるは孝の始めなり。身を立て道を行ひ、名を後世に揚げ、以て父母を顕はすは、孝の終りなり。」と徳目を並べると、確かに高山彦九郎の行動の源泉が見えてくるように感じる。たとえ、彦九郎がこの歌を示して、八歳の義助に孝道を教えたとしても、その本当の意味が分かるには余りにも若すぎるように感じてしまう。彦九郎の自刃が四十七歳の時で、義助は十四歳の筈だ。義助は彦九郎の残した歌や書き物から父の姿を学んでいったのではないか。前記、高山彦九郎親族一覧表」によれば、義助は「寛政6年(1794)6月21日、剣持長蔵とともに久留米に行き、遍照院で彦九郎の法要を行う。享和3(1803)6月、再び久留米の彦九郎墓を訪ねる。山田郡桐生新宿(桐生市)常見善五郎へ入り婿。孫の石九郎に高山家を再興させる。 」とあり、孝を自ら実践したように見える。

追記:昨日は又悲惨な通り魔事件があった。「あえて毀傷せざるは孝の始めなり。」という一行を改めて思う。人間関係が余りにも希薄になってしまった現代も気になる。昨日の天気。通常最低気温になるのは早朝である。昨日のアメダスデータでは6時に0.9℃を記録した。未だ氷点下にはならなかったが、一面降霜で白くなり、畑のポリ桶には数㎜の結氷があった。いよいよ本格的な冬の到来である。本日の最高気温の予測も10℃以下。防寒対策が必要だ。

追記(2020/04/24):ランキング3位に入っている。実は当サイトからのアクセスも加算されている様子。いつ頃の記事か分かるようタイトルに投稿期日を追加。ついでに高山彦九郎像もここに追加。



原ファイル名=「IOB_2020_TAKAYAMA_HIKOKUROU_高山彦九郎=2_2_20200424.jpg」
IOB=IMAGES ON Beloved Ones

■朝仕事靴下二枚霜氷

TAVE= 4.6
TMAX= 9.9
TMIN= 0.9
DIFF= 9
WMAX= 5
SUNS= 9.3
RAIN= 0

2010年12月17日 (金)

雑草句録:故障

2010/12/17

雑草句録:故障

■故障したこたつの足を足でけり

故障したこたつもちゃぶ台程度には利用が出来る。この句が出来た状況も忘れたが、じゃまな炬燵につまずいて足で蹴り飛ばしたのかもしれない。出しっぱなしにしているだれかに当たったようでもある。ともかく痛い思いをしたのは自分だったようだ。

追記:昨日は曇りで冬型の寒い一日となった。屋外で身体を動かす仕事をした。今朝の気温は昨日よりも更に1℃ほど低くなっている。先日、書店でぺんてるの低粘度油性ボールペンを探したが商品名を忘れていた。代わりに三菱のJETSTREAMという低粘度油性ボールペンを購入して使ってみた。今朝の室温はかなり低くなったが、従来のボールペン(寒いときは息をかけて使った)より滑りはよい。一般品よりかなり高い値付けになっていた。別の店では三菱とぺんてるの両方があった。値段は同じ。次回はぺんてるを試してみたい。
昨日の天気。

TAVE= 3.7
TMAX= 5.5
TMIN= 1.8
DIFF= 3.7
WMAX= 3
SUNS= 0.5
RAIN= 0

2010年12月16日 (木)

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(4)

2010/12/16

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(4)

○「喪屋で歌作りに没頭」の章
ここには、七首の歌が挙げられている。そのうちの三首を引用する。
■くちはつる身はあだし野の露なるを はかなきものとたれも知らずや
■いろ鳥の声も哀れに墓原を かなたこなたとなき渡りける
■打ちつれて渡る雁がね雨雲を つばさにかけて声かすかなり

著者は「彦九郎は十九歳の時生母繁を失い、二十二歳の時に父正教が死去している。その後は祖母りんが一家の中心になっていたが、天明六年八月二十四日に、気丈で賢明であったりんも八十八歳の長寿を全うして亡くなった。この祖母の死に悲嘆のあまり彦九郎は三年の喪に服することになる。」と述べる。「彦九郎という人は衝動的な行為が多く奇行の人とも考えられているが、この喪屋での生活も異常であった。」と喪屋での生活と彦九郎の精神世界の関係に言及している。三年間も長期の喪に服するだけでも異常とみえるかもしれない。彦九郎は歌人としても優れた才能に恵まれていたとの事で、彦九郎の歌の世界を覗くと、その精神は世俗の些事や評価を超えた所を飛翔していたように見える。高山彦九郎記念館資料によると、墓前日記が 天明7年(1787 )41 歳の時に書かれている。47歳で自刃しているので、祖母の三年間の服喪期間は彦九郎の後半の人生のありかたを決めた充電期間のように感じる。そういう眼で歌を読み直すと、俗人には見えたり、聞こえたりしない自然や社会の摂理に耳を傾け、この服喪期間に重大な決心をしたように感じられる。祖母の孝養というプラスと売名というマイナスの両方の評価があったようだ。三年間の服喪を幕府が佳賞する段階で売名行為と誣告され、実兄専蔵との不和が深まり、江戸に登ったがそのまま江戸に留まり新しい活動を始めた。儒教では父母が死んだとき「三年の喪」に服するという。祖母の死に対して「三年の喪」に服したという事は高山彦九郎にとって特別な意味があったと理解して良いと思う。やはり、高山彦九郎においては生母以上の精神的な位置を祖母が占めていたのかもしれない。

追記1:「三年の喪」は儒教の儀礼とされているようだ。調べてみると、「シリーズ儒教・性愛・志怪1~4(http://www.geocities.jp/jukyosikai/kazoku2/tyosen.html)」における「孝における死と再生」において、「 儒教礼典に依拠する親のための喪は、「足掛け」三年で、実質二十七か月(時代によって二十五か月)である。、まるまる三年ではないとしてもそう短いとはいえない。ところが三年の喪は子の孝心の表現である。孝心やみがたく、三年という規定の喪の期日があけても喪服を脱ぐことをせずにさらに服喪を続けるといった者が時折あったらしいのである。特に三年の喪が自覚的な孝の実践形式としての慣習的定着の途上にあった後漢時代、とりわけその末期にその傾向があったらしい。この時期、さまざまな「過礼」現象、すなわち定められた基準を超過して礼を実践する傾向があったことが知られている。定めの期日を越えた喪服実践のほかにも、親の死に遭ったのが幼少時で孝の自覚をもった服喪ができなかったために、成人後あらためて喪に服す、というようなことも行なわれたという。曹操の敵対者として有名な河北の軍閥袁紹はこれを実践している。それらはおおむね皆手厚い孝心の表明として社会で称賛されたのである。ともあれ規定の三年を越えた服喪という点では、趙宣はその最も極端な例であった。」と述べられている。彦九郎の場合、儒教礼典の親に対する以上の扱いを祖母に対して行っているので、確かに世間からは目立ってしまうだろう。それも、儒教の本家ではなく、日本のつい最近の事である。しかし、祖母にたいする孝心は父や祖父に対する孝心にも通じたと思える。いわば、「三年の喪」に服したという事は、原理主義者として、原理・原則に立ち返って反省、行動する事も時と場合によっては必要だと示しているようでもある。それほど、現実が哀れな姿になっていたのだろうから。

追記2:「高山彦九郎の実像」の「高山彦九郎年表」を見ると、宝暦11(1761)に「伊勢崎の松本晩翠の塾に通う。」とある。高山彦九郎と伊勢崎の接点は更に調査が必要だ。

2010年12月15日 (水)

雑草句録:わらぼっち

2010/12/15

陳皮茶

朝起きたら水を一杯飲んでとかみさんに言われる。冬は発汗も少なくなり身体も水を要求しなくなりついつい水分摂取量が減少するようだ。寒いと排尿も増える。老化して水分不足に気付かなくなり、水分欠乏になると色々な障害が現れてくるようだ。朝一番に冷たい水を飲んで気分を転換するという健康法もあるようだ。寒すぎるとそれも気が引ける。

そこで、最近始めたのが夜明けの麦茶。これをすすりながら、身体のエンジンをかける。それとなく、食卓に目を向けるとミカンの皮が転がっている。これを麦茶のやかんに放り込む。ふんわりと蜜柑の香りがしてきた。蜜柑皮だけで作ったお茶を陳皮茶というらしいので、これは陳皮麦茶。それならばと、生ゴミになりそうなサツマイモの尻尾もやかんに投げ込んだ。今度はうっすらと甘みも付いた。陳皮甘藷麦茶である。「やかん」と入力して変換すると「薬缶」とでる。改めて辞書にあたると薬缶とは元々薬を煎じるのに使われたようだ。ともかく、このようにだし汁にすると口を動かさずに済むのでながら仕事には向く。今朝はしなびた金柑に切れ目を入れてやかんに投入した金柑麦茶で机に向かった。農薬は使っていないのでその点は安心だ。

以下本題

雑草句録:わらぼっち

■かじかんでミカンにかけるわらぼっち

ミカン苗は霜等の寒さに弱い。成木になれば何とか越冬は出来る。常緑樹と落葉樹の寒さに対する戦略の差であろう。落葉樹の葉が本格的に活動しているのは一年の半分余りにすぎない。一度、越冬用に苗にレジ袋に穴をあけてかぶせた事があった。結果は大失敗であった。袋の内外の空気の流れと防寒作用は相反する。穴は少な目が良いだろうと思っていたが、内部が結露したのかほとんどの苗を枯らしてしまった。その点、わらぼっちやカンレイシャは通気性があって良いようだ。

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    刃物という視点で多くの事例が取り上げられている。刃のある道具の理解にも役立つ。類書が少なく貴重な一冊。「すべり変形が切断の原理」という考え方で説明している。
  • 沼田 真   : 植物たちの生( 1972年 岩波新書(青版 833))
    「ご要望にお応えしてアンコール復刊(1988年岩波新書50年記念復刊) 地球生態系の中で自然を見直す」(腰巻きのフレーズ)。植物の知恵と戦略に人類は勝てるのか。
  • 出町 誠: 14_NHK趣味の園芸:よく分かる栽培12ヶ月  カキ(NHK出版2007年)
    初心者向け柿栽培参考書(新版)。旧版と比較すると楽しい。
  • 中村三夫: 13_NHK趣味の園芸:作業12ヶ月  カキ(NHK出版1996年)
    初心者向け柿栽培参考書(旧版)。新版と比較すると楽しい。
  • 山科正平: 12_細胞を読む   電子顕微鏡で見る生命の姿
    細胞はどんな部品からできているのか。そんな疑問に答えてくれる一冊。何事も形を見るのが第一歩。μからÅオーダーの世界で、細胞をメスで解剖するように、電子顕微鏡というメスで解剖して見せてくれるので興味が尽きない。
  • 柳田充弘: 11_細胞から生命が見える
    著者の専門は分子生物学、細胞生物学。普段生物を考えても細胞レベルで止まってしまう。その細胞の中で色々な分子が働いている。細胞こそ生命の基礎だが、その細胞の中の動きを知るのに最適な一冊。疑問の発端はなぜ発根剤が効くのかということ。薬剤が細胞膜を通過して細胞内で分子と分子が作用するイメージができた。本書でできた細胞のイメージは小さな無数の穴が空いた水分が充満したヨーヨーのようなもの。そのヨーヨーの中に分子部品が詰まっている。細胞自体もタライの中のヨーヨーのように浮かんでいる。細胞図面の空白部は真空でなく水分だ。細胞の内外に水がないと細胞は生きられない。水が生命のゆりかごだ!
  • 野口悠紀雄: 10_ホームページにオフィスを作る(2001年 光文社)
    ITが輝いた時代の作品。HPの活用法は参考になる。参考:url=http://www.noguchi.co.jp/(野口悠紀雄 ONLINE)
  • 小池洋男 編著: 09_果樹の接ぎ木・さし木・とり木(農文協:2007/3/31第1刷)
    やや専門的であるが、実務専門化が分担執筆しており、その場で役に立つ一冊。
  • ノーバート・ウィーナー(鎮目恭夫訳): 08_サイバネティックスはいかにして生まれたか(みすず書房1956)
    情報と通信という現代社会に不可欠の基礎的な学問を作った著者の自伝とそれを通した科学史
  • 沼田 真(編): 07_雑草の科学(研成社1979)
    雑草を多面的に解説し防除の基礎も述べる

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MEMO 海外の博物館・美術館

  • https://www.artic.edu/collection?place_ids=Japan&page=6
  • 項目のタイトル2
    POST IT :ブログ画面への張り紙に使える。
  • TYPE LIST事始め
    2010/8/4:MEMO等の表示に使える。 農作業で気になる自戒の言葉 ■畑の石ころはいつまで経ってもても石ころ(早く拾って片づけよという意味か)。 ■同じ石を二度拾うな(やってみると難しい)。 ■手ぶらで歩くな。 ■三つ先のことを読め。 ■適当な観察。 ■空を見よ(気分転換、休憩、天気を読む、腰曲がり防止)