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2012年2月

2012年2月29日 (水)

技術 回顧と展望:日本の産業劣化に経営者の品質劣化は無関係か?

2012/2/29(水)
昨日は晴れ。用事で外出。本日は4年に一度の閏年の日。いとしき人の命日でもある。冥福を祈る。用事が済んでからタウンウォチング。電気店のカタログで最近のテレビの待機電力を調べると0.1W程度であった。待機電力の低減はかなり進んでいるようだ。表示がブラウン管から液晶に代わり、SW投入から画像が出るまでの時間が短縮しているのも関係しているだろう。テレビの価格も低下している。テレビ自体のデジタル化が進み、基本機能が中心の普及機は、自作パソコン感覚で部品の寄せ集めで作れるようになり、参入障壁が下がって、価格競争が熾烈になっているのも価格低下の一因らしい。週刊誌を立ち読み。日本の家電メーカーの業績が悪化しているが、復活に関しては厳しい見方をしていた。数日前、エルピーダメモリーが会社更生法適用申請というニュースを上毛新聞で読んだ。半導体は産業のコメ、ネジ、釘と言われてきたが、ついに来る物が来たと感じた。日本の産業は土台から揺らいでいるのではないか。経営者がその土台を正視せず後ろ向きな対応をしてきた付けが今になって現れてきたように感じる。

2012/2/28(火)の天気

TAVE= 2.2
TMAX= 6.9 最高気温(℃)  7.1  13:30
TMIN= -1.9 最低気温(℃)  -2.5  06:33
DIFF= 8.8
WMAX= 4.1 最大瞬間風速(m/s)  8.5(西南西)  04:25
SUNS= 9.3
RAIN= 0

技術 回顧と展望:日本の産業劣化に経営者の品質劣化は無関係か?

日本の半導体業界で飯を食ってきて、日欧の半導体業界では、体質の違いがある事を思い出した。日本では、半導体事業は、企業の部品供給源として、企業の中で生み育てられてきた。いわば企業内事業が中心で、半導体専門企業は極少ない。一方、欧米では、特に米国では、半導体のみで生きるという明確な目的を持った半導体専門企業が多数を占める。米国の総合企業も、色々な事情で、半導体事業を、売却、分社化等で体内から切り離している例が多い。いずれにしろ、米国では半導体事業が経営戦略という面で、市場、業界や企業経営に密着していた。技術進歩が早いだけではなく、経済の動きに即応する経営力がもとめられたのである。いわば、半導体事業は常在戦場が現実であるリスクもリターンも大きなビジネスであったと思う。

ロイター日本は、「エルピーダが会社更生法の適用申請へ、「日の丸半導体」が破たん;url=http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPTYE81Q03W20120227(2012年 02月 27日 17:19 JST)」というタイトルで、「[東京 27日 ロイター] 経営再建中のエルピーダメモリ(6665.T: 株価, ニュース, レポート)は27日に会社更生法の適用を申請する方針を固めた。同社幹部など複数の関係者がロイターに語った。 同社の坂本幸雄社長が午後6時半に記者会見する予定。東京商工リサーチによると、同社の2011年末の連結ベースの負債総額は約4818億円。日本の半導体事業の復活をかけて国の全面支援を受けた「日の丸半導体」会社は生き残りの道を描ききれなかった。
 半導体メモリーのDRAM市場で世界3位のエルピーダは、リーマン・ショックで経営が悪化した2009年6月に産業活力再生特別措置法(産活法)の適用第1号となり、日本政策投資銀行を通じて優先株による300億円の公的資金の出資を受けた。しかし、半導体市況の低迷に伴う価格下落、急激な円高で業績が再び悪化。11年4―12月期の連結純損益が989億円の赤字(前年同期は102億円の黒字)となるなど、財務体質が一段と悪化していた。 産活法適用の期限が3月末に迫る中、再認定を得るための条件の1つとされた他社との業務提携を結ぶため、DRAM世界4位の米マイクロン・テクノロジー(MU.O: 株価, 企業情報, レポート)との資本・業務提携も模索していたが、結実する見通しが立たないことから、法的整理の元での再生を決断したとみられる。」と報じた。

上記ロイターの記事で『「日の丸半導体」が破たん』という象徴的タイトルは、ロイターだから書けたようにも見える。その背後には米国半導体の生き残りがあるだろう。記事末尾にには:(ロイターニュース 白木真紀 布施太郎;編集 山川薫)とクレジットがある。

「 IT用語辞典バイナリ > IT企業家列伝 >
坂本幸雄とは」は、「坂本幸雄;url=http://biography.sophia-it.com/content_jp_venture/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E5%B9%B8%E9%9B%84」というタイトルで、「坂本幸雄
読み方:さかもとゆきお

坂本幸雄とは、エルピーダメモリ株式会社の代表取締役社長・最高経営責任者(CEO)である。半導体産業界で経営難にあえぐ数社の再建を成功させ、その手腕から「半導体業界の救世主」とあだ名される人物である。1947年9月3日生、群馬県前橋市生まれ。 1970年に日本体育大学体育学部を卒業した坂本幸雄は、半導体メーカーの日本テキサス・インスツルメンツ(TI)社へ入社した。体育会系で、半導体に関する知識もなく、倉庫係として資材の出入庫を始めたという。しかし20年の勤務を経たころには、坂本幸雄は取締役を務めるまでになっていた。その陰には、在庫を把握する能力や、持ち前の体力、判断の決定に至るまでの迅速さといった坂本幸雄の特長がある。坂本幸雄はTIで副社長までを歴任した後、神戸製鋼所に移って半導体本部長に就任した。そして2000年には日本ファウンドリー(現・UMC Japan)社長へと就任している。」と紹介されている。

日本の半導体事業、特に電子機器のねじ、釘に相当するメモリーやデジタル半導体が斜陽化する中で、エルピーダメモリ社長の活躍に注目していた。自分が現役時代では、半導体業界では、どちらかと言えば無名だったように感じる。エルピーダメモリの社長になるのも、あえて火中の栗を拾うという気持があったのではないか。世界における熾烈な半導体戦争で、日本の最終戦争を指揮する武将の姿を同氏に重ねた人が多かったのではないか。言い換えれば、同氏以外日本の最終戦争を指揮する経営者がいなかったのではないか。日本の経営者はお家の大将で満足だったのか。

エルピーダメモリ株式会社は、「会社更生手続開始の申立てに関するお知らせ;url=http://www.elpida.com/pdfs/pr/2012-02-27j.pdf(平成24年2月27日)」というタイトルで、「当社は、平成24年2月27日開催の取締役会において、会社更生手続開始の申立てを行うことを決議し、東京地方裁判所にその申立てを行いました。同申立ては、同日受理され、直ちに、同裁判所より弁済禁止等の保全処分命令、強制執行等に係る包括的禁止命令、及び監督命令兼調査命令が発令されましたので、下記のとおりお知らせいたします。なお、同時に連結子会社である秋田エルピーダメモリ株式会社についても、会社更生手続開始の申立てを行っておりますが、こちらにつきましては、別途「当社子会社の会社更生手続開始申立てに関するお知らせ及び債権の回収不能に関するお知らせ」をご参照ください。
本件申立てによって、債権者の皆様をはじめ、これまでご支援とご協力を頂きました関係各位に多大なるご迷惑をお掛けする事態となりましたことにつき、誠に申し訳なく、心よりお詫び申し上げます。
今後は、東京地方裁判所及び同裁判所から監督委員兼調査委員に選任された土岐敦司弁護士の監督の下、役職員一丸となって会社の事業の再建に尽力して参る所存ですので、何卒ご理解とご支援を賜りますようお願い申し上げます。」と報じた。

エルピーダメモリの末路は、まさに「刀折れ矢尽きる」の状況のように思われるが、法令に従った会社更正が行われるという点では公正な処置ではないかと思う。債務超過に対する処置も、国家のルールが定めているのである。新しい体制で、国の産業の基礎を担う企業として復活する事を願うばかりだ。

「エルピーダメモリ;。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%A1%E3%83%A2%E3%83%AA。」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。(最終更新 2012年2月28日 (火) 13:41)(http://ja.wikipedia.org/)の一部引用=「シェア推移 [編集]:
1999年(平成11年)6月の日立製作所と日本電気による合弁会社設立発表当時、DRAM世界市場でのシェアは日本電気が約11%、日立製作所が約6%であった。その後業績低迷が続き、現社長が就任した2002年(平成14年)には4%代まで落ち込むことになる。東証一部に上場した2004年(平成16年)には6%まで上昇し、2006年(平成18年)は10.2%と合併以前の日本電気の水準まで持ち直してきている。 2008年(平成20年)になると、韓国・サムスン電子、ハイニックス半導体に次ぐ14.2%(ガートナー調べ)のシェアを占めている[5]。 2009年(平成21年)の第3四半期はサムスン電子(35.6%)、ハイニックス半導体(21.6%)に次ぐ16.8%のシェアであったが、第4四半期には、サムスン電子(31.7%)、ハイニックス半導体(21.6%)に次ぐ19.4%とシェアを上げた[6]。」。

韓国では半導体産業を国策として優遇している。上記ロイター記事は「日の丸半導体」と述べているが、日本国、日本の産業界はエルピーダメモリの事態をどのように見ているのだろう。もう少し、産業の土台部分を正視する必要はないだろうか。

2012年2月28日 (火)

雑木の歌:時の流れに身を任せ

2012/2/28(火)
昨日は晴れ。寒さが戻ってきた。今朝5時のAMEDAS伊勢崎の気温は-1.8℃。室温は3.9℃だ。昨日も宅内作業。思うように仕事が進まない。久しぶりにME機を使う。大昔のLBPを使うためだ。電源プラグを挿すと待機状態になっているので、パソコンと同じ集合SWで、使うときだけ電源を入れている。待機電力の節電のためだが、東京電力福島原発事故の影響で始めた節電だ。WEBで調べると類似機種のスタンバイ時電力は平均約 3Wとあった。試しに計算すると年間で26280Wの電力になる。馬鹿に出来ない量だ。梅の蕾がふくらんできた。父が玄関先に置いた盆栽鉢から根を地面に下ろして逞しく生きている。その梅の木に数年前に枝垂れ梅と紅梅を接木した。台木と合わせて3種類の花が咲く。枝が混んでいたのでかなり強く剪定した。枝垂れ梅は原木を枯らしてしまった。その子孫が別の親木に居候して細々と生きているのだから何となくいじらしさを感じる。

2012/2/27(月)の天気

TAVE= 2.3
TMAX= 6.1 最高気温(℃)  7.0  12:45
TMIN= -0.4 最低気温(℃)  -0.6  22:51
DIFF= 6.5
WMAX= 8.3 最大瞬間風速(m/s)  16.2(北北西)  16:24
SUNS= 10.7
RAIN= 0

雑木の歌:時の流れに身を任せ

○如月の 午後の日向は 心地よく 蟻も群がる 段ボール箱
○大地震 起こる前兆 見てみたい あの日の前の ブログを開く
○あの世でも 時計の向きは 同じ向き 嘘も本当も この世と同じ
○迷走の 時もそのまま 過ぎて行く 水に流すな 不埒な言葉
○万物の 命愛おし 生きしもの 預かる命 しかと伝えよ

2012年2月27日 (月)

愛しき古里:地域の小字名「火生石」の意味と由来は?20120227。

2012/2/27(月)
昨日は曇り。日ざしが無く寒い日だった。やはり寒暖の変化が身体にこたえる。昨日の農事会合は無事終了したようだ。そろそろ、スギ花粉が飛ぶ季節だ。「環境省花粉観測システム(愛称:はなこさん):url=http://kafun.taiki.go.jp/GraphWeek.aspx?MstCode=51010100&AreaCode=03」によると群馬県の飛散は未だ少ない。今年は飛散量が少な目ということなので何も対策していない。アレルギー体質も加齢で変わる事があるのか。WEBで「火生石」について調べた。夜、知人が来宅雑談。

2012/2/26(日)の天気

TAVE= 4.1  
TMAX= 8.5 最高気温(℃)  8.9  12:19
TMIN= 1.9 最低気温(℃)  1.7  03:41
DIFF= 6.6  
WMAX= 8.4 最大瞬間風速(m/s)  15.5(西北西)  20:19
SUNS= 0.8  
RAIN= 0  


愛しき古里:地域の小字名「火生石」の意味と由来は?

ある時、郷土史家の星野正明氏から、地域の小字名「火生石」を調査しているという話を聞いた。地名の中に、地域の歴史が刻まれている。そういう歴史家の関心から、地域の小字名「火生石」の調査を続けているが、まだ決定的な結論に到っていないようだ。自分も、その話が頭の隅に残っていた。たまたま、ある地域の歴史の本のコピーを拾い読みしていたら、「火生石」という漢字に「へっけし」とふりがながついているのに遭遇した。先日、その話を同氏に話したら、それは新発見だが、その書名は分かるかと聞かれた。記事のみ分かれば良いと書誌関係の記事はコピーしていなかった。

昨日は、寒さがぶり返し寒かったので、宅内で「火生石」のWEB情報を調べた。そうすると同氏が書いている殖蓮歴史散歩(殖蓮公民館だより)に出合った。「殖蓮公民館だより」には、「殖蓮歴史散歩;http://www.city.isesaki.lg.jp/data/kouminkan/uehasu-k/h23/0801.pdf(発 行 日 平成23年8月1日)」というタイトルで、「東側の土地を舞台、西の土地を光仙坊と呼び、両側が台地でその間の少し低くなっている傾斜地形を利用した七基の須恵器を焼く登り窯跡が発掘されました。平坦地にこの種の遺跡は珍しく、貴重な発見でした。また、この清水の湧く低地域は小字名を火生石(ひいきいし)と呼んでいるのですが意味は不明です。同じ字を用いて同じように呼ばれている場所が新潟県柏崎市と渋川市の樽地区にあることが分かりました。実際に現地を訪ねてみたところ、そちらでもわからないという状況です。さて、どんな結論に達するのでしょうか。とても興味深い話題です。さて、火生石ですが、ひいけいし(火埋石)、ひっけいし(引返し)、ひけしいし(火消石)など似ている言葉を探してみては、その名の由来を考えています。何か意見がある方は教えてください。」と報じた。

「火生石(へっけし)」が書かれていた本の見出しは「大正13年旱害のこと」とあり、その記事の中に「植付不能の土地は『「火生石(へっけし)」』の5反6畝19歩。」とある。
「NOSAIデータバンク(大正2年~15年(1913-1926)) - NOSAIぐんま ....。http://www.nosai-gunma.or.jp/databank/sai-2.htm。」によれば、「大正13年:6~8月 ;干害;利根郡および平坦部において、植付不能田1,000町、用水不足田2,000町、34万石の減収(上毛新聞)」とあり、旱害の事実は本の記事と一致する。従って、「火生石(へっけし)」という田圃の名前が大正13年までは確定していたと考えられる。

ところが、「火生石」が何を意味しているかも難解である。WEB上に、「火生石集落地名;url=http://blog.goo.ne.jp/isao-takabatake/e/21cb2306c9bb279b0ceb3129d19966e6(2007-05-21 22:32:52 |)」というタイトルで、「寺泊郷本~島崎方面に向かう途中、火生石の集落の標識。そのまま読むと、火が生れる石もしかすると火打ち石でも出るのか。図書館の資料で調べてみよう。もし名前の由来等お分かりの方是非教えてください」という記事があった。やはり珍しい地名は関心がある人の目を引くようだ。更に調査を進めると「新潟県三島郡寺泊町大字田頭字火生石という地名も見つけた。古い地名は合併等で消えているのだろう。

「火生石」について、「富奥郷土史http://tiikijiten.jp/~digibook/tomioku_kyoudo/」の「第十七章 村人の生活」の中に、「火熱、電熱 食生活上不可欠の火は、その発火用具が昔は火打ち石と火打ち金だったので容易でなかった。だから火種は毎日絶やすことが出来ず、夜寝る時、いろりの真ん中にもみ殻と堅木の木片を埋め、その上に火生石(ひけしな)という平らな石をのせ、その上に火ばしを交差して置いた。また、たくまいのたくもんば(薪置場)に引火するのを防ぐために、たくまいむしろをかけて置いた。翌朝一番先に起きた嫁は、この埋ずみ火の火種で火をおこし、ご飯やおかずを炊いた。ぼんやりしていて火種を切らすと大変、箱(マスを用いた)に灰を入れて隣へ火種をもらいに行かなければならない。たびたび続くと「間ぬけな嫁」として姑の茶話の好材料になった。
 明治中頃、つけ木と称する長さ十㌢に幅五㌢ほどの薄い板の先に、硫黄を塗ったものが使われた。これは縦に細く割って火種につけると、燃えた硫黄から板に移り、たき木に火がつけられた。マッチが出来たのはそのあとで、はやつけんと呼ばれたのは早いつけ木の意である。これで種火の用はなくなり大助かりだった。当村は平地で山林はなくたき木はほとんど使われず、燃料はわらが主であった。」と記されている。明治の頃の火の大切さを良く伝えている記録だと思う。

「だから火種は毎日絶やすことが出来ず、夜寝る時、いろりの真ん中にもみ殻と堅木の木片を埋め、その上に火生石(ひけしな)という平らな石をのせ、その上に火ばしを交差して置いた。」という部分は「火生石」を解明する手がかりになる。

因みに、富奥郷土史でその地域を、「わが村「とみおく」は、加賀百万石の城下町金沢市の南西約三・五㌔、松任市より東南約一㌔鶴来町より北に約二・五㌔の地点に位置し、現在の石川郡平担地
の中で最も東よりにある。南東の空に霊峰白山の雄姿、その東方に舟岡山から獅子吼高原のなだらかな山なみ、丸い盆を伏せたような倉ヶ嶽、高尾山、大乗寺の小高い山を望み、その真ん中にひときわ高い医王山の麗姿を見る静かなたたずまいの純農村地帯である。」と記述している。

また、「ふらり道草―南丹今昔―(ブログ)」は、「「12月の寛ぎ」 〈3〉;url=http://blog.livedoor.jp/michikusa2007/archives/2011-12.html#20111219(2011年12月19日)」というタイトルで、「来し方を思ひて独り故郷の人住まぬ家(や)に囲炉裏火を焚く    北原由夫
 それでも、囲炉裏の火を囲み、四方山話に興じて暖を取る家族の輪がありました。それぞれの顔を白い火影がゆらゆらと照らします。 面が白くなる愉しさ。それが互いの存在を喜び合う顔であることから、「面白い」と言う言葉が生まれたそうです。 かつての日本中の団欒の火であった囲炉裏。炊事・暖房・照明など火の持つ機能を全て備えた家族の中心であり、「炉を囲む所」と言う意味があります。 火床(ひどこ・ほど)・火城(ひじろ・)・地炉(じろ・ゆるり)などとも呼びます。北陸では居中(いんなか)・家中(えんなか)、九州では居城・火所の他に居端(いばた)とも呼ぶとか。
 厳密に言えば、囲炉裏には土間囲炉裏と座敷囲炉裏がありますが、どちらにも火口箱(ほくちばこ)・付木(つけぎ)・火箸・火吹竹などが置いてありました。 五徳(もしくは三徳)も置いてありました。横座(主人の場所)・嬶座(かかざ・主婦の場所)・客座などがあって、子供は空いている場所に座ったものです。 自在鉤に吊るされた鉄鍋(または鉄瓶)が一日中ことこと音を立て、粗朶(そだ)の燃える煙がゆるやかに梁(はり)を伝わって屋根裏の煙出(けむだ)しへ、と昇って行きました。
  寝る前には、翌朝の火種にする火生木(ひいけぎ)を灰に埋めるのは主婦の役目でした。囲炉裏は、まさに火床だったのです。 今では廃れてしまった囲炉裏。都会住まいや若い方など、囲炉裏を知らない方も居られるでしょう。 口丹波の京北町では、1軒だけ保存している旧家があるとか。その内に訪れたい、と思っているのですが・・・。」と報じた。

上記ブログ記事は、「囲炉裏火」を入口に、火の大切なことを書いている。この記事で「翌朝の火種にする火生木(ひいけぎ)」が「火生」を理解する参考になると思った。

火生石(ひけしな)は、火を消すなという意味もありそうだ。それを逆の方角から見れば、火を生かす、火種を保存する事と同義になるだろう。「火生石」も「火生木」も火種を保存する手段となる資材・原料だろう。

以上をまとめると、火種を保存するには材料に「もみ殻と堅木の木片」を使い、その上に平たい石を乗せたという方法が浮かんでくる。「もみ殻と堅木の木片」はやや燃えにくい燃料だ。やはり、燃料の燃焼が早いと前日の火は翌日までもたないで消えてしまう。その燃料の上に平たい石を乗せるのは、燃料に空気が入りすぎるのを制限する・即ち燃焼のスピードを遅くするための方法だろう。燃料を燃え尽きさせて火を消しても、石を強く押しつけて火を消しても火種は保存できない。火種を保存する方法にもコツがあったというのが、引用した記事から結論できるだろう。

それでは、「火生石」という名前の田圃と小字名の結びつきはあるのか。「火生石」という名前の田圃の場所は特定できていないが、粕川流域に近いと推定している。河床を探せば「火生石」に使えそうな石が採取できた場所かも知れない。ともかく、昔は毎日火を使っているのだから、一家に一個以上の「火生石」は不可欠だったろう。「火生石」という地名も当たり前に現地では通用していたのだろう。「火生石」という地名の呼び方は、「ひいきいし⇒ひいけいし⇒へっけし」となまったものと推定できる。今後、同好の仲間と更に調査検討するのも面白いと思う。

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追記(2015/2/27):「愛しき古里:地域の小字名「火生石」の意味と由来は?」の記事がランキング10位に入った。ランキング入りは初めてだと思う。奇しくもこの記事を書いた日付が2012年2月27日 (月)だった。Googleでキーワード「火生石」を検索すると、約 182,000 件 (0.22 秒) と表示されるが、最後に「288 件」と表示された。"火生石"とフレーズ検索すると、約 1,300 件 (0.14 秒) と出る。WEB上の"火生石"に関する情報もそれほど多くない。三年前は、推論として書いたが、その後の進展はない。昔は、田畑に名前が付いていたようで、地域の人は名前で大体の場所は分かったようだ。農業をしている2~3人の古老に"火生石"という名前の田畑について聞いたが、記憶にないようだ。

WIKIPEDIA「小字。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%AD%97)」

"火生石"という小字の西隣が光仙房、東隣が舞台という小字名である。この周辺は、上武道、北関東自動車道、工業団地等の開発のため発掘が行われている。その結果によると、この周辺は石器時代から今日まで人が住んだ証拠となる遺物や遺跡が発掘されている。自分の記憶では、発掘に興味を持つまで、これらの小字名は知らなかった。多分、その地域の人々の記憶からも小字名は消えていったのではないか。

追記(2019/08/05):タイトルに投稿期日を追加。
ランキング=6位

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2012年2月26日 (日)

愛しき古里:萩原朔太郎が見た故郷の風景は?20120226。

2012/2/26(日)
昨日はAM昼前は雨。その後曇り。農事会合を欠席してかみさんと電車で外出。振り返ると、かみさんと電車に乗った記憶は余り無い。自動車の生活にどっぷりつかってきた。自動車だと、どうしても運転手と同乗者の会話も断片的になり、想像力も働かない。かみさんは車窓から上州の山川を眺めて喜んでいた。

2012/2/25(土)の天気

TAVE= 6.2  
TMAX= 9 最高気温(℃)  9.1  15:10
TMIN= 2.8 最低気温(℃)  2.4  09:20
DIFF= 6.2  
WMAX= 6.9 最大瞬間風速(m/s)  12.9(北西)  22:29
SUNS= 0  
RAIN= 7.5  



愛しき古里:萩原朔太郎が見た故郷の風景は?20120226。

上り列車で、右手に見えていた赤城山は前橋を過ぎるとやがて左手に見えてきた。かみさんが赤城山が見えるというので一瞬方向感覚を疑った。確かに赤城山だ。前橋から高崎までの間で線路が急カーブしているのは地図では理解しているつもりだが電車の車窓からそれを眺めるのも新しい発見だ。そういえば、萩原朔太郎が郷里前橋に帰る時も同じような風景を見たのだろうとかみさんと話した。「わが故郷に歸れる日」という詩の断片は二人とも覚えていた。依然読みかじった印象から、あの詩は故郷に帰りたいという気持と帰りたくない気持の葛藤が、前橋に近づくにつれて高まってようだと言った。もう一度「帰郷」という詩を読み直した。

以下は青空文庫からの引用:
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青空文庫の「氷島 萩原朔太郎」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/4869_14066.htmlにある「帰郷」。

歸郷

昭和四年の冬、妻と離別し二兒を抱へて故郷に歸る

わが故郷に歸れる日
汽車は烈風の中を突き行けり。
ひとり車窓に目醒むれば
汽笛は闇に吠え叫び
火焔(ほのほ)は平野を明るくせり。
まだ上州の山は見えずや。
夜汽車の仄暗き車燈の影に
母なき子供等は眠り泣き
ひそかに皆わが憂愁を探(さぐ)れるなり。
鳴呼また都を逃れ來て
何所(いづこ)の家郷に行かむとするぞ。
過去は寂寥の谷に連なり
未來は絶望の岸に向へり。
砂礫(されき)のごとき人生かな!
われ既に勇氣おとろへ
暗憺として長(とこし)なへに生きるに倦みたり。
いかんぞ故郷に獨り歸り
さびしくまた利根川の岸に立たんや。
汽車は曠野を走り行き
自然の荒寥たる意志の彼岸に
人の憤怒(いきどほり)を烈しくせり。

「詩篇小解」に「歸郷  昭和四年。妻は二兒を殘して家を去り、杳として行方を知らず。我れ獨り後に殘り、蹌踉として父の居る上州の故郷に歸る。上野發七時十分、小山行高崎※(「廴+囘」、第4水準2-12-11≒廻)り。夜汽車の暗爾たる車燈の影に、長女は疲れて眠り、次女は醒めて夢に歔欷す。聲最も悲しく、わが心すべて斷腸せり。既にして家に歸れば、父の病とみに重く、萬景悉く蕭條たり。」とある。

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今回、青空文庫で「詩篇小解」を読んだが、詩と現実の間を理解する参考になると思った。萩原朔太郎が「まだ上州の山は見えずや。」と詠み込んだのは赤城山だろう。上野發七時十分、小山行高崎廻の汽車に乗ったのだから、前橋に近づいた頃は、もう陽は完全に落ちて暗いだろう。また烈風と言えば上州の冬の空っ風を連想する。昭和四年頃は鉄道沿線の人家も少なく、冬枯れの関東平野が広がっていただろう。「まだ上州の山は見えずや。」とは、すでにこころの中には故郷の山川のイメージが浮かび上がっているのだろう。この詩は故郷の山川や夜汽車に詩人の真情を託している。現実は帰らざるを得ない故郷。希望は故郷からの逃避。そこにはエンジンの気化させたガソリンの圧縮・爆発という工程が連想される。その炸裂を受け止めたエンジンのシリンダーーが故郷の風景だろう。萩原朔太郎の心に刻まれた故郷の風景がなければこの詩は生まれなかったに違いない。

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追記(2014/4/18): 「愛しき古里:萩原朔太郎が見た故郷の風景は?(2012/2/26(日))。」がランキング10位に入った。人間、古里に向かいたいという求心力とそこから脱出したいという遠心力の二つが常に働いているのではないか。

サイト内でキーワード「萩原朔太郎 俳句」を検索(https://www.google.com/?hl=ja#hl=ja&q=%E8%90%A9%E5%8E%9F%E6%9C%94%E5%A4%AA%E9%83%8E%E3%80%80%E4%BF%B3%E5%8F%A5%E3%80%80site:http:%2F%2Faf06.kazelog.jp%2Fitoshikimono%2F)。

「読みかじりの記(ツルよ 飛んでおくれ):青空文庫で萩原朔太郎「氷島」を読む(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2013/06/post-32cf.html)。(2013年6月25日(火))」

WIKIPEDIA「萩原朔太郎。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%A9%E5%8E%9F%E6%9C%94%E5%A4%AA%E9%83%8E)」

「読みかじりの記(老人モード):「老年と人生(萩原朔太郎著)」を青空文庫で読む。(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2013/02/post-fd68.html)。(2013年2月22日 (金))」

今日、青空文庫で萩原朔太郎の作品を自由に読める。余り有名で無い作品の中にも面白い作品がある。

サイト内でキーワード「富田倫生」を検索(https://www.google.com/?hl=ja#hl=ja&q=%E5%AF%8C%E7%94%B0%E5%80%AB%E7%94%9F%E3%80%80site:http:%2F%2Faf06.kazelog.jp%2Fitoshikimono%2F)。

青空文庫で著作権が切れた作品や著作権を主張しない作品が読めるようになったのは、その推進者富田倫生氏(昨年死去)の貢献も大きいと思う。

WIKIPEDIA「富田倫生。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E7%94%B0%E5%80%AB%E7%94%9F)」

TPP交渉でアメリカは著作権の有効期間延長を主張しているとの事だ。余りにも著作権が長い場合、後続の著作物が生まれる可能性がどんどん少なくなるのではないか。ともかく青空文庫で萩原朔太郎を読めるのはありがたい事だ。

追記(2014/4/29):
現在この記事がランキング6位に入った。本日の記事「半端道楽:写真で俳句る:華蔵寺公園遊園地のメリーゴーラウンド(この遊具 長寿の訳は どこにある。)(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2014/04/post-69c6.html)。(2014年4月29日(火) )」が、萩原朔太郎の詩に飛ぶ。「大東京の雜鬧」の「雜鬧」は何と読む?音読みでは「鬧(どう)」。Googleでキーワード「雜鬧 意味」を検索(https://www.google.com/?hl=ja#hl=ja&q=%E9%9B%9C%E9%AC%A7+%E6%84%8F%E5%91%B3)。。どうやら、「ざっ‐とう〔‐タフ|‐タウ〕【雑踏/雑×沓/雑×鬧】」らしい。


追記(2014/6/16):
本記事は依然ランキング5位に入っている。最近、読んだ地域誌によると、かつてJR国定駅前に、国定忠治の碑を作る動きがあり、萩原朔太郎の詩の引用を検討したが、同意がえられず、小野忠孝(詩人。児童文学者)の詩が採用されたと知った。

WIKIPEDIA「おのちゅうこう(小野忠孝)。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%81%AE%E3%81%A1%E3%82%85%E3%81%86%E3%81%93%E3%81%86)」

以下にその画像を示す。

Iob_kunisadacyuujinohionocyuukou_20
青空文庫の萩原朔太郎作品収録サイト内のキーワード検索をするには、<>の中にキーワードを入れてクリック。

Googleによる「青空文庫内にある萩原朔太郎作品のキーワード(一例:<俳句 蕪村>)」検索。

Google検索は、全文検索で、複数のキーワードで検索できるメリットがある。萩原朔太郎が見た情景を知る手がかりになると思う。<国定忠治>ではヒットしない。旧字の<國定忠治>ならヒットする。<國定>でもヒットする。

YOUTUBEでキーワード「富田倫生」を検索(https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%AF%8C%E7%94%B0%E5%80%AB%E7%94%9F)。

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追記(2023/03/23):タイトルの後に投稿年月日を追加。本日のランキングは8位。10年以上前の記事だがまだ読者がいるようだ。読者に感謝。

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2012年2月25日 (土)

技術 回顧と展望:WIN XPは永遠に不滅?

2012/2/25(土)
昨日は晴れ。天気も良く気温も上がり屋外活動もやりやすくなった。残念だが、宅内で資料整理やパソコン作業をした。色々なファイルを開いて、エクセル操作をしているとフリーズしてしまった。ME機ではフリーズが日常的に起こったので、XP機ではかなり安定している。再起動すると正常に立ち上がり作業を続行できた。

2012/2/24(金)の天気

TAVE= 9.8
TMAX= 14.7 最高気温(℃)  14.8  15:00
TMIN= 6.7 最低気温(℃)  6.7  05:02
DIFF= 8
WMAX= 7.5 最大瞬間風速(m/s)  15.6(北西)  20:40
SUNS= 10
RAIN= 0

技術 回顧と展望:WIN XPは永遠に不滅?

マイクロソフトは、「Windows(R) XP Home Editionのサポート提供期間を2014年4月まで延長 ~ユーザーからの要望や市場の状況を考慮し、延長を決定~;url=http://www.microsoft.com/japan/presspass/detail.aspx?newsid=2947(2007 年 1 月 25 日 (Japan))」というタイトルで、「マイクロソフト株式会社(本社:東京都渋谷区)は、マイクロソフト製品のサポート提供期間や内容をまとめた「マイクロソフト サポートライフサイクルポリシー」( http://support.microsoft.com/lifecycle/ )に基づくMicrosoft(R) Windows XP Home EditionならびにWindows XP Media Center Editionのサポート(注)の提供期間について、ユーザーからの要望や市場の状況を考慮し、今般2014年4月までサポートを提供することを決定しました。 日本市場では、Windows XP Home Editionのユーザー数が非常に多いことから、サポート提供期間の延長に対する要望が高まっていました。今般、マイクロソフトでは、このユーザーからの要望を重視し、当初の予定に加え、さらに5年間の延長サポートを提供することを決定しました。同時に、同じくコンシューマ向けWindows XPのエディションであるWindows XP Media Center Editionに対しても同期間延長サポートを提供します。」と報じている。

マイクロソフトが「サポート提供期間の延長に対する要望」に対応した姿勢は評価できるだろう。その裏にはWIN XPを切れない事情があったとは思うが。とりあえず、我が家のXP機も2014年4月は何とかもたせたい。昔、会社時代に時代の動きの速さをDOG YEARでたとえた事を思い出した。パソコンの寿命は更に短い。それなのに、OSのWIN XPが10年以上生き延びるのは驚異的なのかも知れない。WIN XPが消えた後の世界に何が来るのか。マイクロソフトは予定調和的にばっさりと切り捨てるのか。マイクロソフトは常にアップルを意識しているだろう。良きライバルであったS.Jobsは黄泉の国へ行った。パソコンの姿も変わりつつある。一層のことWIN XPをフリーソフトにしてくれると有り難い。そうすれば、サードパーティがサポートを続行するだろう。マイクロソフトは次なるビジネスモデルに専念する。WIN XPをフリーソフトにするだけでマイクロソフトは膨大なビジネスチャンスを開拓出来るのではないか。その先はWIN とLINUXのファイナルバトルになるのか。

WINとLINUXが接近すると、今度はLINUXにしようと考えたりもしている。ともかく、われわれ老人達が、呆け防止と趣味と実益を求めて活動するときにパソコンも大切な機材だ。聞くところによれば、そのパソコンのテキストに百均本を使うとの事だ。老人の安全運転には旧型パソコンで十分だ。数千円で旧型パソコンが使えればその意義は大きい。シャープがパソコンのソースコード等を公開したという記憶もある。WINパソコンのソフトとハードの遺産は膨大である。それらが継続して使えれば、マイクロソフトの名前も永遠に残るのではないか。

2012年2月24日 (金)

文化と文明雑感:心の古里華蔵寺公園

2012/2/24(金)
昨日は雨後、午後の後半より晴れ。夜は風が強くゴウゴウと音がした。用事で外出。しばし、華蔵寺公園を散策。北側の子供広場には大きな、クワガタやカブトムシをかたどった遊具が出来ていた。これら昆虫の実物の大きさが数センチ。遊具の大きさは数メートル。ざっと百倍のスケール変換を体験できるのだ。子供達はこのような風景を記憶に刷り込んで行くのだろうか。夜会議。農事の件で数軒まわる。TPPどころか足元が揺らいでいる。農事組合も終戦後地域農民相互の助け合いの必要から生まれている。昔は地域住民は、仕事や地域生活の面でも、隣近所、親戚、友人等々色々な関係を通して人々は結ばれていた。それがまさに人間の絆であった。人間の絆の中には、どろどろしたもの、不条理、理不尽な面もある。そいう面は、村八分等という言葉に残っていたのだろう。火事、葬式等の必要最小限の付き合いは絶たなかった。今は、火事も葬式も業者任せ。それと共にあの忌まわしい人間の絆も白々しいものになってしまったように感じる。

2012/2/23(木)の天気

TAVE= 7.8
TMAX= 12.4 最高気温(℃)  12.9  16:40
TMIN= 4.6 最低気温(℃)  4.5  09:45
DIFF= 7.8
WMAX= 7 最大瞬間風速(m/s)  15.6(北西)  20:40
SUNS= 1.9
RAIN= 9.5

文化と文明雑感:心の古里華蔵寺公園

春は名のみの季節だが、雨が降り公園の樹木も一息ついたように見えた。落葉樹が葉を落としているので公園にある色々な碑等も、探しやすい。小高い丘を登る途中には点々と石碑が並んでいる。聞くところによれば、華蔵寺の山腹に並べられた石碑は聖地霊場巡礼コースを模したものだとか。小高い丘の頂上は滑り台の発進場所だ。それにもかかわらず、三橋美智也が歌った、「松風さわぐ 丘の上 古城よ独り 何偲ぶ~」という歌(高橋掬太郎 作詞、細川潤一 作曲)の風景が思い出される。ここは、華蔵寺裏山古墳の頂上のようだ。古墳とはまさに古代人が永遠の眠りのために建立した墳墓だ。古墳の頂上から四方八方を見ると地域の山河が手に取るように見渡せる。これは古墳造営時点の空想だが、今は視界を遮る物が多く、太古の景観を眺める事は不可能だ。しかし、観覧車に乗るとそれが可能になる。群馬県は古墳の宝庫だ。とくに伊勢崎には古墳が多いようだ。その古墳時代まで含めて、東国日本というイメージにのせて群馬県を発信しようという動きがあるようだ。大変結構な事だ。そのためには、自分たちがその価値を知らなければならない。
華蔵寺裏山古墳はほとんど無名だが今こそ、市民が知ってもらいたい古墳の一つだろう。公園としての整備は進んでいるが、歴史的な文化財としての整備も必要ではないか。せめて、華蔵寺裏山古墳を解説した看板程度は欲しい。更に、南面にまわると、色々な碑や銅像がある。ここは、その碑や銅像を建てた人々の思いが、風化して、まさに古城の風景そのままだ。心の支えを失ったような光景だ。そこでひときわ目立つのが「金井 烏洲」の碑だ。それを書いたのが渋沢栄一。碑文の内容をぜひ知りたく思った。

2012年2月23日 (木)

技術 回顧と展望:Googleのトップ画面に「ハインリヒ ヘルツ 生誕 155 周年」と出た!

2012/2/23(木)
昨日は晴れ。暖かい天気だった。宅内で整理。庭に出てみると万年青の赤い実が無い!。実は落ちていないが、実が付いていた跡が残っていた。鳥が食べてしまったようだ。秋から冬、春へと、鳥は柿⇒ピラカンサ⇒ミカン等と食べ進んでいるようだ。ナンテンの実は遅くまで残っている。いよいよ食べ物が無くなると野菜を食べ始める。食べる場所は止まって羽を休める枝等を選ぶようだ。

2012/2/22(水)の天気

TAVE= 7.0
TMAX= 11.5 最高気温(℃)  12.1  14:32
TMIN= 2.1 最低気温(℃)  1.3  06:29
DIFF= 9.4
WMAX= 4.6 最大瞬間風速(m/s)  9.4(東南東)  16:06
SUNS= 9.3
RAIN= 0

技術 回顧と展望:Googleのトップ画面に「ハインリヒ ヘルツ 生誕 155 周年」と出た!

Googleのトップ画面は簡潔だ。その時々に合わせた画像が表示されている。2012/2/22(水)の画面にはオシロスコープの疑似正弦波のような画像が流れていた。そこにカーソルを合わせると「ハインリヒ ヘルツ 生誕 155 周年」と表示された。ついでに、その画面をクリックするとGoogleで「ハインリヒ ヘルツ」を検索し、WIKIPEDIAの「ハインリヒ・ヘルツ - Wikipedia」が第一位に検索された。遊び心があるニクイ仕掛けである。何と誕生日その日の事だ。

「ハインリヒ・ヘルツ;。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%84。(最終更新 2012年2月22日 (水) 09:08 )」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に「ハインリヒ・ルドルフ・ヘルツ(Heinrich Rudolf Hertz, 1857年2月22日 - 1894年1月1日)は、ドイツの物理学者。マックスウェルの電磁気理論をさらに明確化し発展させた。1888年に電磁波の放射の存在を、それを生成・検出する機械の構築によって初めて実証した。」とある。

WIKIPEDIAの「前半生 [編集]:ドイツのハンブルクで、裕福な文化的階級の家に生まれた。父は弁護士としてハンブルクの顧問を歴任し、後に政治家となった。母は医者の娘だった。3歳年下の弟と妹がいた[1]。 学校においては、アラビア語とサンスクリット語の語学と同じように、科学への適性も見せた。ドイツのドレスデン、ミュンヘン、ベルリン市で科学と工学を学んだ。キルヒホッフとヘルムホルツの指導学生として、1880年にベルリン大学にて博士号を取得。その後もヘルムホルツの下に研究生として残った。 1883年、キール大学(ドイツ語版)の理論物理の講師となった。1885年には、カールスルーエ大学の教授となり、そこで電磁波を発見した。」にも興味がある。

「キルヒホッフ」の法則は電気回路の基礎方程式としてお世話になった。マックスウェルの方程式は有名だったが理解できなかった。それを導くときには色々梯子があったが、最終的にはその梯子を外して美しい方程式にしたと講義の中での話を思い出す。ヘルツはマックスウェルの予言を実証したわけだが、WIKIPEDIAの記事のように、今日ほど電磁波が使われるとは予想できなかったのは無理もないだろう。しかし、昔のラジオ少年が鉱石ラジオを作り、理工学に目覚めた例は多いだろう。自分にとってもヘルツは恩人だ。

ヘルツに名をとった周波数の単位はWIKIPEDIAによれば、「サイクル毎秒(サイクル)は、1960年に国際度量衡総会が制定したSIには採用されず、同じ量を表すヘルツ (Hz) を使うようになった。 日本の計量法では、1995年9月30日まで使用が認められていた。単位名は「サイクル又はサイクル毎秒」、単位記号は「c、?又はc/s」だった。 サイクル毎分 (c/min, cpm)、サイクル毎時 (c/h, cph) も使われる。SIに対応する単位はなく、換算が必要である。文脈によってはこれらも単にサイクルと呼ばれることもある。」とある。

青少年時代は周波数の単位はサイクルを使い、社会人になってからはヘルツを使った。所で、今から155年前は、安政(あんせい)4年(西暦1857年)になる。日本で電気と言えばエレキテル。「エレキテル;。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AC%E3%82%AD%E3%83%86%E3%83%AB。(最終更新 2012年1月20日 (金) 10:00)」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に「概要 [編集]:オランダで発明され、宮廷での見世物や医療器具として用いられていた。日本へは江戸時代に持ち込まれ、1751年(宝暦1)ごろオランダ人が幕府に献上したとの文献がある。後の1765年(明和2)に後藤利春の『紅毛談(おらんだばなし)』で紹介され、それを読んだ平賀源内が長崎滞在中の1770年(明和7)に破損したエレキテルを古道具屋、あるいはオランダ通詞の西善三郎から入手し、工人の弥七らとともに1776年(安永5)に江戸で模造製作に成功した。」とある。日本にエレキテルが伝わった頃からほぼ100年後にヘルツが生まれた訳だ。

当地では1864年元治元年に八幡沼開鑿が完工している。国定忠次が処刑されたのが1850年、嘉永3年である。江戸末期の日本の科学水準と当時の西洋科学の水準の差を考えてしまう。八幡沼開鑿にどのような技術が使われたかほとんど分かっていないらしい。ともかく日本にも、平賀源内のような変人?がいたから、科学への関心が途切れなかったのではないかと思う。

Googleのトップ画面の「ハインリヒ ヘルツ 生誕 155 周年」から色々な連想ができた。とりあえず、この画面の作者に拍手。遂に日本の稼働中の原発は2基のみとなった。関西の交流電力周波数60ヘルツと関東の50ヘルツの壁は依然険しい。交流発電機関西1888年、関東1893年導入。何と120年ほどこの周波数の壁は続いている。脱原発を進めるためには、日本中の発電機を連結した巨大なスマートグリッドを実現し、システムの安定化、効率化、電力の低価格化を進める必要がある。その第一歩は周波数の壁の突破だだろう。

2012年2月22日 (水)

老人の寝言:東京大学の秋入学は議論は結構、実行は尚結構だが実現性は?

2012/2/22(水)
昨日は晴れ。穏やかな晴天。春の兆しを感じた。苗灌水。ブラブラと散策。あちこちに福寿草が咲き出した。小さな株が多いのでやがて雑草の陰になってしまうだろう。株分けで増やしたいと思うが。ネコヤナギの蕾が衣を脱ぎ捨ててほぼ全部銀白になっていた。親株は枯れて、挿し木した子株が畑の隅で生き延びている。まだ開花はしていない。新しいモグラ塚が数個できていた。柿を入れていた段ボール箱に蟻が群がっていた。いよいよ生物も春モードの活動を開始。

2012/2/21(火)の天気

TAVE= 6.5
TMAX= 13.6 最高気温(℃)  14.2  15:05
TMIN= -0.8 最低気温(℃)  -1.6  01:55
DIFF= 14.4
WMAX= 4.6 最大瞬間風速(m/s)  8.3(北西)  16:33
SUNS= 9.9
RAIN= 0



老人の寝言:東京大学の秋入学は議論は結構、実行は尚結構だが実現性は?

もう、大学の事などどうでも良い年齢になった。東京大学といえば学園紛争を思い出す。更に、「とめてくれるなおっかさん 背中の銀杏が泣いている 男東大どこへ行く」というコピーも思い出した。東京大学の総長も戦後の昭和時代の終わり頃までは、社会に向けて何らかの発言をしていたように記憶している。なにか、総長としての見識や東京大学の存在意義の認識がそういう行動の深層にあったのだろうと思う。平成の時代に入って東京大学の姿がかすんで見えるように感じる。

「東京大学の秋入学議論」が盛んだが、何か唐突の感じも受ける。あの学園紛争時代ならインパクトがあったろう。「やっておくれよおとっつぁん  背中の銀杏を青くする  男東大まっしぐら」。東京大学も、はや半世紀近く前から黄葉期を迎えていたのではないか。学園紛争もその反動だったかもしれないが、背中の銀杏を背負って今まできてしまったのではないのか。背中の銀杏の黄葉を青葉にするのは大賛成だ。

「東京大学の秋入学議論」の根拠は、海外からの優秀な人材を集めるため、海外と入学時期を同じにすることらしい。不思議なのは、東京大学にはそれ以外の魅力が無いのだろうかという事。魅力があれば障害を排してでも人が集まるのが人間社会の公理ではないか。それは東京大学の入学競争率にも如実に現れているのではないか。小手先より中味の充実が最初ではないか。

東京大学資料(url=http://www.u-tokyo.ac.jp/stu04/e08_02_j.html)によると、学部、大学院、研究所研究生の総数は、28,798人。内、外国人留学生数は2,913人である。大まかに10%が外国人留学生数になる。秋入学にして外国人留学生数が倍増しても国内学生数に比べれば微々たる比率ではなかろうか。それよりも、東京大学が現在の外国人留学生数を倍増させる程度のコンテンツを提供できる実力があるのか。留学を可能にするのはコンテンツだけではない。世界有数の高い生活費、為替交換レートの高さ、日本語という世界ではマイナーな言語等々現実的な障害は多々ある。

よくよく考えると、「東京大学の秋入学議論」も平成のショック療法で終わるのではないか。すでに、有数の外国の大学ではインターネットの講義もあるようだ。当然テキストもコミュニケーションも英語。主力をインターネットで、残りは現地の大学で短期間の集中講義を受ければ単位が取れるようだと負けるのは目に見えているだろう。外国の留学生候補から見れば、東京大学にとって、これらの有数の外国の大学がライバルになるのだろうが、議論は内向き過ぎるように見える。やるからにはもっと革新的な手法があるのではないか。

大学院生は総数14,386名、内、外国人は2,655人。それに対して学部の外国人留学生数は246人に過ぎない。圧倒的多数の外国留学生は大学院生なのだ。先ず、国内の影響を緩和するためには、大学院だけを秋入学にする方法もあるだろう。大学院生の外国留学生比率は18%だ。本気で秋入学をやる気なら大学院から始めれば良いのだろう。極論すれば、東京大学は大学院大学のみとして、優秀な講師陣を世界から集めれば門前市をなして、世界から優秀な学生が集まるだろう。唐突に始まった「秋入学議論」は冬の花火、島国日本のコップの中の議論で終わりそうだが、日本にそんな空論を労する時間はあるのだろうか。

「400 Free Online Courses from Top Universities =。http://www.openculture.com/freeonlinecourses

このサイトはGoogleによる「STANFORD UNIVERSITY INTERNET LECTURE」の英文検索で第2位のヒット。欧米の有名大学が名前を連ねている。「STANFORD」に「UC Berkeley」等を入れると更に続々と情報が出てくる。YouTubeを使った講義も実現している。

CNETは、「UC Berkeley first to post full lectures to YouTube;Read more: http://news.cnet.com/8301-10784_3-9790452-7.html#ixzz1n3af7j1b
;url=http://news.cnet.com/8301-10784_3-9790452-7.html(October 3, 2007 10:18 AM PDT)」というタイトルで、「YouTube is now an important teaching tool at UC Berkeley. The school announced on Wednesday that it has begun posting entire course lectures on the Web's No.1 video-sharing site. Berkeley officials claimed in a statement that the university is the first to make full course lectures available on YouTube. The school said that over 300 hours of videotaped courses will be available at youtube.com/ucberkeley. Berkeley said it will continue to expand the offering. The topics of study found on YouTube included chemistry, physics, biology and even a lecture on search-engine technology given in 2005 by Google cofounder Sergey Brin. "UC Berkeley on YouTube will provide a public window into university life, academics, events and athletics, which will build on our rich tradition of open educational content for the larger community," said Christina Maslach, UC Berkeley's vice provost for undergraduate education in a statement.Read more: http://news.cnet.com/8301-10784_3-9790452-7.html#ixzz1n3b9mhjj」と報じている。

この記事には目から鱗であった。この記事は大学の使命にも言及している。大学の使命は知の独占なのか開かれた知の普及なのか。

2012年2月21日 (火)

老人の寝言:我が家の夜間電力

2012/2/21(火)
昨日は晴れ。朝の寒さが身に沁みる。滑り止め付きの軍手をはめてキーを打っている。日付の20が30になっていた。ミスタッチだろう。従姉妹夫婦がキウイフルーツの剪定をしてくれた。徒長枝が伸び放題になっているの見かねて手伝ったくれた。子メダカを入れたプラ容器が、破損(多分バックした自動車が当たった)しているので、水ごとベビーバスに移した。このベビーバスは子供達が使った物だ。子供の頃を思い出せるよう残して置いた。これを容器代わりにして水を張って、苗の根を浸けて置けば、一時保管に便利だった。今度はメダカ用になったので、キリで水抜き穴を数個開けた。別棟の使用中止の電気温水器が漏水していた。

夜間電力の契約は止めて、電気系統は通電していないが、水系統の処理がしてなかった。今年の冬の寒さで、配管の凍結から亀裂が生じたようだ。幸い電気温水器の配管入り口にバルブがあったので、閉にしたら漏水は止まった。漏水を発見したのもかみさん。そういえば、ここ数日水道の水圧が下がっていたと後になって気付いたとぽろり。早期発見は難しい。

2012/2/20(月)の天気

TAVE= 3.4
TMAX= 10.6 最高気温(℃)  10.9  13:41
TMIN= -3.9 最低気温(℃)  -4.2  02:53
DIFF= 14.5
WMAX= 4.2 最大瞬間風速(m/s)  7.0(東南東)  15:52
SUNS= 10.5
RAIN= 0


老人の寝言:我が家の夜間電力

汗をかく農家で風呂は不可欠。当地区では終戦後、共同風呂が三ヶ所あったとの事だ。電気風呂で近代的だった。昔話によく共同風呂が出てくる。その後は各家の内風呂に代わった。毎日風呂を沸かすのは大変なので、風呂をもらいに行ったり来たりという風習もあった。そのころ風呂を沸かすのは子供の仕事。両手にバケツを下げて風呂に水を入れ、薪を燃やして風呂を沸かした。駄賃に五円とか十円程度をもらった。今思えば、これも労働の評価だったのかもしれない。祖母はただで動くのは風ぐらいだと常々言っていた。その後太陽熱利用の温水器が入った。自家水道を入れたので可能になった。その後に、深夜電力利用の電気温水器に代わった。便利さと安全さがその理由だろう。深夜電力利用は電力需給の平準化という、電力事業の根幹に関わっていた訳だ。電力需要の固定部分を原子力発電が受け持つというシステムができあがっていた。最近はオール電化の話をほとんど聞かない。電気料金が高くなれば電力使用にブレーキがかかるのか。悩ましい問題はこれから現実になる。

2012年2月20日 (月)

老人の寝言:県庁所在地前橋市はどこに向かう

2012/2/20(月)
昨日は晴れ。二十四節気の雨水だった。雪氷が解け水が温む季節。風は少ないが寒さは依然厳しい。用事で町内該当宅を回る。久しぶりだ、まあ上がれやと言われて油を売る。愚痴、世話話に花が咲く。そんな調子で夕食時にようやく仕事が終わった。昼前、仲間と上毛新聞の取材対応。夕食時、前橋市長選の当確がTVの字幕に出たとかみさんの声。

2012/2/19(日)の天気

TAVE= 1.3
TMAX= 7.3 最高気温(℃)  8.4  14:33
TMIN= -3.7 最低気温(℃)  -4.1  02:32
DIFF= 11
WMAX= 3.4 最大瞬間風速(m/s)  6.8(西南西)  11:23
SUNS= 10
RAIN= 0

老人の寝言:県庁所在地前橋市はどこに向かう

昨年、用事で前橋市内を歩いて、前橋の中心市街地の凋落感を感じた。しかし、ゆっくり歩いてみれば、至る所に歴史や地域の特徴が見えるのも事実だ。少子高齢化社会が現実となって、町に賑わいを取り戻す云々という議論も空論になってしまうのではないかと思うこともある。前橋市も合併で都市部から山間部までを擁する広域自治体になった。前橋市が群馬県のモデル都市を目指すなら、先ず、都市部から山間部までが調和する施策を優先すべきではないか。市街地の凋落も資本の原理で、ビジネス的に立地の魅力が減少して企業が郊外に出たという要因が多いだろう。市街と郊外だけでも各種の行政格差が生じる。持続可能な社会とは一局集中を排してネットワーク型分散社会が望ましいのではないか。それを証明したのが東北関東大震災時の通信インフラの相違だ。携帯電話は中継局の被害でその機能が十分発揮できなかった。インターネットでは多重の情報経路を確保できる通信方式であり、通信機能は回線が生きていれば確保できた。今回の前橋市長選ではごみ処理工場の新設統合も論争になった。災害や事故時に施設の一局集中がいかに脆弱であるかを東日本大震災が教えてくれた。このような教訓は都市機能の安全確保には忘れてはならないだろう。合併を契機に、伊勢崎市は定住自立圏共生ビジョンを策定して実施に移した。この施策は、正に少子高齢化社会の到来に備え、中心市街地と周辺地域との有機的な機能強化を目指すものだろう。前橋市が県庁所在市というだけで存在感を保てる時代は終わっているのだろう。前橋市はどこに向かうに注目したい。その第一歩は分散した票の意志を統合し、向かうべき方向に果敢に進むことだろう。

以下は前橋市選管発表:

Maebashi_sicyou_120219

検索サイト

NANDA?⇒物臭検索

  • ラベル(タイトル):最初は何も分からない
    なんだこりゃ?作成当時の記憶

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やさしい科学・SCIENCE

  • 日経サイエンスのウェブページ
    「日経サイエンス」とは:「日経サイエンス誌は,1845年に創刊された長い歴史と伝統を持つ米国の科学雑誌「SCIENTIFIC AMERICAN」の日本版で,世界の最先端の科学技術動向を日本の読者に届けています。」
  • SCIENCE IS FUN in the Lab of Shakhashiri
    University of Wisconsin-Madison Chemistry Professor Bassam Z. Shakhashiri のサイト

みかん栽培関係情報

ISESAKI  有情2

ISESAKI  有情1

嗚呼 伊勢崎 非情

BOOKS

  • 橋本 英文: 刃物雑学事典 図解・刃物のすべて(1986年 株式会社 講談社 ブルーバックス B-659)
    刃物という視点で多くの事例が取り上げられている。刃のある道具の理解にも役立つ。類書が少なく貴重な一冊。「すべり変形が切断の原理」という考え方で説明している。
  • 沼田 真   : 植物たちの生( 1972年 岩波新書(青版 833))
    「ご要望にお応えしてアンコール復刊(1988年岩波新書50年記念復刊) 地球生態系の中で自然を見直す」(腰巻きのフレーズ)。植物の知恵と戦略に人類は勝てるのか。
  • 出町 誠: 14_NHK趣味の園芸:よく分かる栽培12ヶ月  カキ(NHK出版2007年)
    初心者向け柿栽培参考書(新版)。旧版と比較すると楽しい。
  • 中村三夫: 13_NHK趣味の園芸:作業12ヶ月  カキ(NHK出版1996年)
    初心者向け柿栽培参考書(旧版)。新版と比較すると楽しい。
  • 山科正平: 12_細胞を読む   電子顕微鏡で見る生命の姿
    細胞はどんな部品からできているのか。そんな疑問に答えてくれる一冊。何事も形を見るのが第一歩。μからÅオーダーの世界で、細胞をメスで解剖するように、電子顕微鏡というメスで解剖して見せてくれるので興味が尽きない。
  • 柳田充弘: 11_細胞から生命が見える
    著者の専門は分子生物学、細胞生物学。普段生物を考えても細胞レベルで止まってしまう。その細胞の中で色々な分子が働いている。細胞こそ生命の基礎だが、その細胞の中の動きを知るのに最適な一冊。疑問の発端はなぜ発根剤が効くのかということ。薬剤が細胞膜を通過して細胞内で分子と分子が作用するイメージができた。本書でできた細胞のイメージは小さな無数の穴が空いた水分が充満したヨーヨーのようなもの。そのヨーヨーの中に分子部品が詰まっている。細胞自体もタライの中のヨーヨーのように浮かんでいる。細胞図面の空白部は真空でなく水分だ。細胞の内外に水がないと細胞は生きられない。水が生命のゆりかごだ!
  • 野口悠紀雄: 10_ホームページにオフィスを作る(2001年 光文社)
    ITが輝いた時代の作品。HPの活用法は参考になる。参考:url=http://www.noguchi.co.jp/(野口悠紀雄 ONLINE)
  • 小池洋男 編著: 09_果樹の接ぎ木・さし木・とり木(農文協:2007/3/31第1刷)
    やや専門的であるが、実務専門化が分担執筆しており、その場で役に立つ一冊。
  • ノーバート・ウィーナー(鎮目恭夫訳): 08_サイバネティックスはいかにして生まれたか(みすず書房1956)
    情報と通信という現代社会に不可欠の基礎的な学問を作った著者の自伝とそれを通した科学史
  • 沼田 真(編): 07_雑草の科学(研成社1979)
    雑草を多面的に解説し防除の基礎も述べる

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MEMO 海外の博物館・美術館

  • https://www.artic.edu/collection?place_ids=Japan&page=6
  • 項目のタイトル2
    POST IT :ブログ画面への張り紙に使える。
  • TYPE LIST事始め
    2010/8/4:MEMO等の表示に使える。 農作業で気になる自戒の言葉 ■畑の石ころはいつまで経ってもても石ころ(早く拾って片づけよという意味か)。 ■同じ石を二度拾うな(やってみると難しい)。 ■手ぶらで歩くな。 ■三つ先のことを読め。 ■適当な観察。 ■空を見よ(気分転換、休憩、天気を読む、腰曲がり防止)