2012/3/22(木)
昨日は晴れ。風が強くスギ花粉が飛んだようだ。ポット苗の除草と灌水。ようやく一巡。マスクをせずに屋外作業をしたので、眼が痒くなり、くしゃみが出た。花粉症の症状だ。蕗の薹が出ていた。一握り収穫。煮込みうどんの上にほぐした蕗の薹をばらまいて食べる。独特な苦みに春を感じる。この苦みは外敵から花を守るためなのかと思う。
2012/3/21(水)の天気
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5.9 |
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10.5 |
最高気温(℃) 11.1 14:55 |
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最低気温(℃) 1.2 06:12 |
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心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(5)
楫取素彦は初代群馬県令を経て、大正元年(1912年)8月14日没(享年83歳)。吉田松陰の夢も明治維新として実現された。吉田松陰は高山彦九郎と同様、生きてその志は果たせなかったが、高山彦九郎生地の群馬県令在職中に、皇太后の群馬県行啓があり、感無量の境地にあったのかも知れない。「御蔭松の碑」に記された群馬縣令楫取素彦という文字には、この「御蔭松の碑」は楫取素彦や吉田松陰の気持を御蔭松に託した後世へのメッセージであると語っているように感じられた。「御蔭松」こそ、「松陰」の名前を密かに盛り込んでいるのではないかと謎のように思われるのだ。楫取素彦がそれ以外の理由でそこに碑を建てる理由があったのか。御蔭松こそ松陰のシンボルに見えるのだ。現在では、高山彦九郎、吉田松陰、楫取素彦も、既に過去の人物になってしまい、ほとんど脚光を浴びていない。
楫取素彦の名がある石碑(DSC=2012/3/6)
上毛新聞ニュースは、「;url=http://www.raijin.com/news/a/2012/01/22/news02.htm(更新日時: 2012年1月22日(日) AM 07:11)」というタイトルで、「本県近代化の礎を築きながら、県民にあまり知られていない初代群馬県令、楫取素彦(かとり・もとひこ、1829~1912年)。今年が没後100年となるのを記念して功績を再評価し、顕彰する動きが活発化している。県民有志が近く「楫取素彦顕彰会」を立ち上げ、胸像や足跡を記した顕彰板設置に向けて活動開始。出身地の山口県萩市と友好都市提携している前橋市は、市制施行120周年の一環としてパネル展を計画している。
楫取は1876(明治9)年に成立した第2次群馬県の初代県令。養蚕・製糸業振興に尽力し、小学校就学率を向上させるなどで本県を全国有数の教育県に押し上げた。廃娼(はいしょう)運動に力を入れたことでも知られている。 こうした功績をより多くの県民に知ってもらおうと有志が顕彰会を発足し、県庁北西の高浜公園に新年度、功績を紹介する顕彰板を建てるほか、胸像を造る募金活動を始める。将来は県庁前や臨江閣など目立つ場所に碑を移設することも検討する。 前橋市は萩市と2002年に友好都市となり、今年で10周年。萩市が9~10月にパネル展を開いた後、前橋市も11月に資料展示を予定している。 前橋市は楫取について「前橋への県庁移転を決定付け、その後の市の発展に大きな影響を与えた。市民にもっと知ってほしい」と期待。萩市は「吉田松陰、高杉晋作に比べると楫取の知名度は低い。前橋市とともに再評価する機運を盛り上げたい」としている。 県議会は新年度、議会棟展示ホールを移設するのに伴い、廃娼運動を推し進めた2代目議長、湯浅治郎とともに楫取の資料も展示する方向で調整している。 楫取に詳しい中村紀雄県議は、楫取の妻の寿(ひさ)と、寿の死後に妻となった美和子がともに楫取と親交が深かった吉田松陰の妹だったことに着目。「松陰と楫取の2人にスポットを当てる企画展などを開けば、観光や地域振興につながるのではないか」と期待する。 県立歴史博物館の学芸員、手島仁さんは「楫取は生涯の中で県令時代が最も輝いていた。功績は語り継がれるべき」と話している。」と報じた。
楫取素彦とゆかりの深い山口県では、昨年の百回忌を迎えて顕彰の動きがあったようだが、群馬県では、最近ようやく、その動きが出てきた段階のようだ。
「幕末掃苔屋」サイトで、加藤健太郎氏は、「楫取素彦夫妻の墓―山口県防府市桑山大楽寺墓地―http://kawachisoutai.chu.jp/tanboko2.html」というタイトルで、以下のように書いている。楫取素彦夫妻や関係者の墓参拝を通して、貴重な見解を述べている。掃苔という活動は、墓の持つ歴史性・人物性・メッセージ性を除去しては成立しないだろうと感じた。以前、歴史人物に興味を持つ人の後について、墓巡りした経験があるが、それに傾倒しなければ長続きはしないと思った。
以下上記よりの引用
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「楫取は確かに歴史上の人物ではあるが、我々と歴史の仲介役であると思う。なぜなら、生前の吉田松陰と親密な交流があったことはもとより、松陰の文章が他人の良き教訓となるからと、松陰が生きているうちから世に紹介しようとしたことによる。松陰没後もその遺墨が翻刻されるや序文や解説文を送り、顕彰に余念がなかった。松陰の実兄杉民治と提携して、群馬県令という職務の合間にそのような活動を積極的に行ったのである。これが実に松陰と我々を繋ぐ梯子役になっているという意味で、筆者は楫取を歴史の仲介役と称しているのである。 楫取は激動の幕末にあって、元号が慶応ともなると、松陰のみならず、義弟である久坂玄瑞、実兄松島剛蔵や従兄弟の玉木彦助が戦争や内乱などで相次いで亡くなることに、何処か置き去りにされた観があった。それは次の詩によって心情が読み取れる。
うとまれて物のかずにもあらぬ身を
うとまぬ人は君ならで誰ぞ
これは「物のかず」の部分が南北朝時代南朝方の楠木正行の詩に
かへらじとかねて思へば梓弓
なき数に入る名をぞとどむる
とあるのによく似ている。幕末に相当もてはやされた楠木正成の影響を楫取も例外でなく受けていたように筆者には思われる。 長州藩の尊王攘夷派として決して派手ではないが、楫取も自宅に幽閉される憂き目に遭った。その時、禍を畏れて親類縁者も見舞いをはばかる中にあって、楫取の心が折れなかったのは、妻ヒサの母、即ち松陰の母による「うとまぬ」励ましのおかげであった。そしてその傍らには松陰の講義を親身に聞いていた妹の妻としての支えがあったのである。妻ヒサは、残念ながら明治一四年(1881)一月一三日、帰らぬ人となった。彼女の生涯は、楫取自身が青山霊園の墓碑に「君」として事績を刻んでいる。その後、楫取は松陰の三妹で久坂玄瑞未亡人の文(美和子と改名)を後妻に迎えたことは、松陰一家と楫取の一体感をよく示している。
楫取は、群馬県令を十数年の長きにわたり勤め、教育や生糸を中心とした産業振興に尽くし、同県の発展の基礎を築いた。その後元老院議官、貴族院議員、宮中顧問官などを歴任し、大正元年(1912)八月一四日、八四歳の天寿を全うしたのである。ちなみに生年は文政一二年三月一五日(1829・4・18)である。」
*********************************************以上引用終わり
上記の加藤健太郎氏の記事を読むと渋川市の御蔭松とそこにある楫取素彦の石碑の謎が少し解けてくるように感じる。同氏は「楫取は確かに歴史上の人物ではあるが、我々と歴史の仲介役であると思う。」と述べている。また、「松陰の実兄杉民治と提携して、群馬県令という職務の合間にそのような活動を積極的に行ったのである。これが実に松陰と我々を繋ぐ梯子役になっているという意味で、筆者は楫取を歴史の仲介役と称しているのである。」とも述べている。渋川市の「御蔭松」と「御蔭松の碑」は、吉田松陰の蔭(かげ:影響、関わり等の総称として)を背負って、日本の近代化に身を投じてきた楫取素彦が、吉田松陰の志を顕彰しようとしているのではないかと感じる。楫取素彦が群馬県で活躍したのが50歳前後で、時代の舵取り役として、最も充実した仕事ができた年齢であったように思われる。そういう意味で、渋川市の「御蔭松」と「御蔭松の碑」は、吉田松陰と強く・太い絆で結ばれ、吉田松陰の志を密かに背負って、日本の近代化に邁進した楫取素彦自身が直接関与して、吉田松陰を顕彰した貴重な歴史資産ではなかと思われる。碑文の全文が読めないのが残念だ。
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追記(2014/2/16): 記事=「心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(5)」が当ブログのランキングに入ったので関連記事を追記しておく。
「0017_「楫取素彦」関係記事(目次)(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/0017_KATORI_MOTOHIKO_KIJI_MOKUJI.html)。」 関連記事へのリンク。
サイト内でキーワード「高山彦九郎OR吉田松陰OR楫取素彦」を検索(https://www.google.com/?hl=ja#hl=ja&q=%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%BD%A6%E4%B9%9D%E9%83%8EOR%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%BE%E9%99%B0OR%E6%A5%AB%E5%8F%96%E7%B4%A0%E5%BD%A6+site%3Ahttp%3A%2F%2Faf06.kazelog.jp%2Fitoshikimono%2F)。
追記2(2014/3/17):
現在ランキング:上位8位。
関連記事(御蔭松とその碑の画像は)は下記に掲載。
「半端道楽:写真で俳句る:渋川の御蔭松には深い謎が?(畏くも 松陰語る 御蔭松。)(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2014/03/post-ed95.html)。(2014年3月16日(日))」
追記3(2014/3/18):
現在ランキング:上位6位。
関連記事(御蔭松とその碑、書き出した碑文は)は下記に掲載。
「心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(7)(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2014/03/post-9850.html)。(2014年3月18日(火) )」
追記(2014/10/2):本記事がランキング10位に入った。NHK大河ドラマ「花燃ゆ」効果なのか。前人気も上昇中のようだ。しかし、よく考えると、受信料を取って公共の電波を使って、大金をかけた娯楽番組を流すのも、勿体ないように感じる。ともかく、一時のフィーバーで歴史が洗い流されるような事態にならないよう願うばかりだ。
WIKIPEDIA「花燃ゆ。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E7%87%83%E3%82%86)」。
自分が、「高山彦九郎」を知ったのは、偶然に高山彦九郎記念館を訪問した事による。ここで、「高山彦九郎の実像 維新を呼んだ 旅の思想家」という冊子を購入した。没後200年を記念して編集されたようだ。
太田市立 高山彦九郎記念館のホームページ:http://www5.wind.ne.jp/hikokuro/
その中に、「(高山)彦九郎 歌と生涯」須永 義夫(歌人)という記事を見付けた。須永義夫氏が主催していた短歌会に母が通っていたので、同氏の歌集が数冊あった。そこで、高山彦九郎の歌を鑑賞してみようという気持ちになった。
サイト内でキーワード「高山彦九郎 歌と生涯」を検索(https://www.google.com/?hl=ja#hl=ja&q=%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%BD%A6%E4%B9%9D%E9%83%8E%E3%80%80%E6%AD%8C%E3%81%A8%E7%94%9F%E6%B6%AF%E3%80%80site:http:%2F%2Faf06.kazelog.jp%2Fitoshikimono%2F)。
サイト内でキーワード「高山彦九郎 AND 吉田松陰 AND 楫取素彦」を検索(https://www.google.com/?hl=ja#hl=ja&q=%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%BD%A6%E4%B9%9D%E9%83%8E%E3%80%80AND%E3%80%80%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%BE%E9%99%B0%E3%80%80AND%E3%80%80%E6%A5%AB%E5%8F%96%E7%B4%A0%E5%BD%A6%E3%80%80+site%3Ahttp%3A%2F%2Faf06.kazelog.jp%2Fitoshikimono%2F)。
これも、偶然だが、楫取素彦の名前が刻まれた記念碑に遭遇した。殖蓮史談会の会長は、高山彦九郎の通った道を探索した事があったそうだ。戦前は、高山彦九郎は地域の偉人として顕彰されたが、戦後は一転して、疎んじられているようだ。
色々な縁で、高山彦九郎、吉田松陰、楫取素彦の関係を調べているが、そこで遭遇した謎が、「御蔭松の碑」ではあった。最近、「楫取素彦伝 -耕堂楫取素彦男爵伝記-」が発行された。この中に、「御蔭松の碑」の碑文も掲載されている。煥乎堂で購入したがまだツンドク状態である。
以下に「御蔭松の碑」の表面に書かれた和歌を上記伝記より以下に引用しておく。崩し文字なので全く読めなかった歌だ。
「芝中ノ松ノヤドリニ千代カケテ残ルハ君ガ御蔭ナリケリ」。
追記(2014/10/3):「御蔭松の碑」周辺MAPを追加。
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