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2012年3月

2012年3月31日 (土)

縮伐カット&トライ/果樹を楽しむ:屋根の上に乗り出したナツメの幹を中間で切る

2012/3/31(土)
昨日は曇り午後から晴れ。穏やかな好天になった。期末処理。苗堀上げ。助っ人がきたのでナツメ(棗)の木の縮伐を手伝って貰う。新聞の集金員が来た。桜はいつ咲くかと立ち話。今、山茱萸の花が咲いていると話したが当人はさっぱりわからない。”庭の山茱萸の実の熟す時~”という歌を思い出すが、ひえつき節は”庭の山椒(さんしゅ)の木 鳴る鈴かけて ヨーオー ホイ 鈴の鳴るときゃ 出ておじゃれヨ”との事。田端義夫の「島育ち」歌詞に「赤い蘇鉄の~実も熟れるころ~」とあるらしい。どうも記憶が混線しているようだ。我が家の山茱萸の原木は台風で倒れて枯れたが、ヒコバエで育った二代目が畑の隅で花を咲かせている。あの、山茱萸の赤い実を見ると乙女の可憐さが思い出されるが、WEB情報では、「庭の山茱萸」は、実は「庭の山椒」という説があるらしい。庭に植えるのが庭木。ひえつき節が恋歌とすれば、トゲもあり、実が地味で、味も似合わない庭の山椒の木に鈴をかけるのも無粋に思える。「庭の山茱萸」なら納得。

2012/3/30(金)の天気

TAVE= 12.4
TMAX= 19.3 最高気温(℃)  20.1  15:17
TMIN= 5.9 最低気温(℃)  5.5  06:02
DIFF= 13.4
WMAX= 3.4 最大瞬間風速(m/s)   6.9(東南東)  14:36
SUNS= 6.3
RAIN= 0


Q

縮伐カット&トライ/果樹を楽しむ:屋根の上に乗り出したナツメの幹を中間で切る

なぜ、ナツメの苗を植えたのかと振り返ると、ナツメソウセキという名前の連想から。高校時代夏目漱石の小説を読んだが全然面白くなかった。ナツメの実物も見たことがなかった。それならばという安易な気持で植えた。アンズも同じような動機で植えた。何か小説に出てきた果樹のようだが、こちらは全く思い出せない。最近、かなり実を付けるが、食べるとパサパサとした甘みのないリンゴのようで、味見程度に食べるだけ。樹勢は直立性で高木になる。台風で屋根側に乗り出したように傾いた。屋根に、実や葉が落ちる。倒れると屋根を壊す。根元から切るのも忍びない。仕方ないので、少しだけ枝を残して、幹の中程で切ることにした。

切る部分が、大きい脚立が届くあたり。下手に切ると屋根に上部の幹が落下する。一人で切るのは困難。ロープで屋根側への転倒を防ぎながら切った。助っ人にはロープ引きを手伝って貰った。幹の上部を斜めと直角に切り、倒す方角を決める。それから幹の下部を周状に切り進める。倒すときは、一、二とロープを軽く引いて、弾みをつけて、三回目に思い切り引いて倒す。一回目は、全く倒れる気配なし。更に少し切り進める。二回目はミッシと音がしたが、又も倒れる気配なし。更に、切り進めて三回目にようやく、ドカッと音がして倒れた。幹が倒れても届かない所から二人で引っ張った。作業に一時間ほどかかった。

このような作業に力学の知識が役立つ。切る部分が支点となる。重心はかなり高い所にある。ロープをかける所は、重心より更に高くしなければ十分力がかからない。ロープを引いて弾みをつけるのはブランコと同じで、運動量を蓄える。最後に、ソーレヨイショと気合いを掛けるのは幹の振動位置に力の位相を合わせるため。こちらは振動論の応用だ。共同作業はかけ声と仕事の同期が不可欠。なんとか無事に縮伐ができた。適度の緊張と、注意、計画も必要だ。一応頭の中でシミュレーションをした。無理、ムラに危険が潜む。安全第一に作業をしたい。助っ人と二人で作業したのも万一の場合を考えたので。枯れるか、実が生るかは今後の楽しみ。

2012年3月30日 (金)

雑木の歌:花粉にひやり

2012/3/30(金)
昨日は穏やかな晴天。用事外出。その後ポット苗の灌水。昼食は某百均店で買ったクッキー(表示:クラッカーサンド/チョコクリーム)。産地表示はベトナムであった。カロリー表示もあり、全部食べると数百Kカロリー。産地を調べるとブルガリアというのもあった。色々外国産の食料が並ぶのも驚異か幸運か。最近は百均店への食品の進出がめざましい。銀だこ特製の天かすというのも並んでいた。有名企業も百均マーケットを無視できないようだ。百均店と言う名前が似つかわしくなくなって来た。その扱う商品を覗くと品種の数で圧倒される。商品企画をする立場になってその商品を観察すると興味はつきない。スーパーコンビニショップと名付けたい位だ。

2012/3/29(木)の天気

TAVE= 11.2
TMAX= 18.9 最高気温(℃)  19.4  15:27
TMIN= 3.8 最低気温(℃)  3.5  04:00
DIFF= 15.1
WMAX= 6.3 最大瞬間風速(m/s)   0.0(北西)  02:41
SUNS= 11.7
RAIN= 0

Q
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昨年は、福島原発事故の放射性物質飛散と花粉の飛散の時期が重なり、マスクを着用する機会が多かった。試しに杉の実を煮出した、杉の実茶も飲んだ。昨年はスギ花粉の当たり年だったが、花粉症に悩んだ記憶は残っていない。これは杉の実茶の効果なのか、マスクを着用の効果なのか。放射性物質飛散のほうがよほど怖かったようだ。花粉症といえばスギ花粉が抗原となり発症する。人体の方にスギ花粉の影響を防ぐ抗体のでき方でその症状が変わる。広義の抗原抗体反応で、本来身体を守る作用が過剰になり、自分で苦しむ結果となる。WIKIPEDIAの「花粉症」記事は、「4 その他の原因: 4.1 遺伝要因 、4.2 環境要因、 4.2.1 自動車排気ガスによる大気汚染の関与、4.2.2 自動車排気ガス以外の浮遊物質の関与、4.2.3 寄生虫感染の減少、4.2.4 都市化の影響、4.3 栄養要因」を揚げている。花粉症の真の原因解明には疫学的な研究が必要なようだ。かつて、有吉佐和子『複合汚染』という本が話題になった。花粉症も、原因が無ければ、結果も生じないという自然の大原則を信じるとすれば、花粉症はスギ花粉等の各種花粉と排気ガス等に含まれる各種化学物質が人体に複合的に作用して起こる、複合的環境病的症状と言えるのかもしれない。花粉症が病気になる限界はどこにあるなのか。

雑木の歌:花粉にひやり

■マスク掛け サングラス掛け 店に入る 白い視線に 後で冷や汗
■眼科医は 瞳孔開き 診察後 花粉症薬 処方を尋ねる
■昨年は 貰った薬 使わずに 何とか済んだ 今年も頑張る
■副作用 免疫薬の ステロイド 悩んだ末に 使わぬ決断
■通院の 光のどけき 春の陽も 瞳孔開けば 眼が眩む夏

2012年3月29日 (木)

読みかじりの記:「経営者の条件」 大沢武志 著 (2004年 株式会社 岩波書店)

2012/3/29(木)
昨日は晴れ時々曇り。風が強かった。用事外出。日時を間違えて用事は空振りに終わった。それならばと、目的をサイクリングに変えてしばらくフラフラ乗り回す。店頭にとめた自転車が二度転倒していた。最初はいたずらかと思ったが、二度目は突風かと考え直した。最近、チベット旅行者矢島保治郎が話題になり、墓もあるよと聞いていたので、どこにあるのだろうと気になっていた。写真を見て、頂部が球状になっているのを覚えていた。もしやと自転車を止めて近づいてみると、それが矢島保治郎の墓であった。想定外の収穫ではあった。

2012/3/28(水)の天気

TAVE= 8.1
TMAX= 16 最高気温(℃)  16.6  13:26
TMIN= 2 最低気温(℃)  1.7  05:41
DIFF= 14
WMAX= 8.3 最大瞬間風速(m/s)   16.0(北北西)  15:08
SUNS= 5.6
RAIN= 0

Q
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読みかじりの記:「経営者の条件」 大沢武志 著 (2004年 株式会社 岩波書店)

経営者を一般のサラリーマンから見れば殿上人のようで、余り強い興味は持っていない。本書を手にしたのは、日本の経営が何か元気を失っているように感じてきたことに一因がある。会社の従業員の姿はなかなか、見えないが、会社や経営者はそれなりに、社会的な存在でもあり、何となく見られたり比較されたりしている存在だろう。本書のカバーに雪印や三菱とう名門企業が、不祥事という言葉と一緒に出てくる。本書が書かれた背景に、会社がかかわる不祥事があったのも事実だろう。著者自身もリクルートの役員を経験しているようで、その体験も本書を書かせる動機でもあったことが、後書きに述べられている。

現在、かつての名門企業が不調に陥り、その再起が可能なのか、企業には寿命があり、社会的な役割の果たせない企業は、自滅か解体を辿るべきか、それとも公金を注ぎ込んででも、再生させるべきなのか、企業存立の問題さえ浮かび上がってきているのが最近の様相だ。ともかく、多彩な企業活動の司令塔が経営者であり、経営者の社会的な責任も重要になってきた。経営も政治と同じように結果責任という部分もあるが、経営には基本的なルールがあるので、そのルールを外さないで如何に目的を達成するかとうのが、経営論、経営者論の醍醐味ではないかと思われる。

しかし、その経営者が、最近では世間から余り注目を集めていない。WIKIPEDIAの「日本の高額納税者公示制度」によると、「日本では1947年から2005年まで導入された。当初の制度の目的は「高額所得者の所得金額を公示することにより、第三者のチェックによる脱税牽制効果を狙う」ことであった。初期の頃はこの目的の効果を高める為に、情報提供者に対して報償金を脱税発見額に応じて支払う「第三者通報制度」も導入されていた。しかし、第三者通報制度は、通報の動機が怨恨や報復によるものが多いなどの指摘があって1954年に廃止された。公示制度では収入額を公示していたが、1983年度からは納税額を公示するようになった。」とある。日本の高額所得者は、世間に気兼ねなくその高額所得の恩恵を謳歌できるようになったようだ。経営者の所得とその企業で働く労働者の所得は逆転する事はまずないだろう。「高額納税者公示制度」の廃止により、経営者と労働者の意識にどのような変化が生じているのか興味がある問題だろう。経営者にとっても、労働者にとても、所得と労働は共通した関心事項だろう。それを相互に確認をする手だてが無くなった。倫理観という、高度な自己規定も経営者には必要だろうが、所得と労働という労使共通の評価尺度の存在は経営そのものの位置を同定する上でも重要だろう。

経営者の姿が社会から見えなくなっている事が気になっている。見えなければ興味も湧かない、うわさもできない、人物評価などさらに不可能だ。本書にも「ノブレス・オブリージュ」等の記事があるが、これも経営者だけでなく、社会の上層に立つ人物が社会に向かう心構えともとれる。つまるところ個人の規範意識になるだろう。社会現象的には経営者個人の規範意識すら崩壊しているようにみえる時世だ。ともかく、不祥事が起きた会社やその会社の経営者を語るのはうんざりだ。語るにも”ヨイショ”だけでは面白みもない。その点、司馬遷の史記のような「経営者列伝」のような書き方の方が読ませるのではないか。良いとこ取りだけしていたら何事も薄っぺらになってしまう。

実は、本書を手にした、別の理由として、日本の電力企業の経営者の身の振り方が気になっているいるのだ。電力業界もこれから激動の時代を迎えるだろう。どのような経営者が現れるのか。どのような経営者が望ましいのか。現在の経営者は忍者の如く、その姿も外からは見えにくい。経営者として、経営を傾けさせて、それを立ち直らせることができないのは最大の不覚と言えるだろう。

JCASTニュースは、「JAL植木新社長は「片岡千恵蔵」の息子 「飛行機を飛ばすという仕事が唯一の自慢だった」;url=http://www.j-cast.com/2012/01/17119092.html?p=all(2012/1/17 17:06 )」というタイトルで、「日本航空(jal20+ 件)は2012年1月17日、臨時取締役会を開き、植木義晴専務執行役員(59)を社長20+ 件に昇格させる人事を発表した。大西賢社長(56)は会長に、稲盛和夫会長(79)は名誉会長に就任する。新人事は、12年2月に開かれる臨時株主総会後の取締役会で正式決定する。 植木氏は1975年に航空大学校を卒業し、JALに入社。35年間にわたってパイロット畑を歩み、経営破たん直後の10年2月に執行役員運航本部長に就任。会長の稲盛氏が提唱した部門別採算制度を推進した。jal20+ 件社長にパイロット出身者が就任するのは初めて。~稲盛氏は13年1月で名誉会長と取締役を退任:   稲盛会長は、会長就任から丸3年が経つ13年1月で名誉会長と取締役を退任することを明言。この時期の社長20+ 件交代になった理由について、   「航空事業は、私のような外部の者では難しい。生え抜きの人で経営してもらうことが大事。早いかもしれないが、新しいjal20+ 件の執行体制をスムーズに運営できるように、1年間の助走期間を設けられるようにした」と説明した。」と報じた。

本書の「企業倫理に対峙する経営者」の項は参考になった。特に『「メンター」の存在』の部分。経営者の心の師は求めて得られる者でもないだろう。運命的な出会いかもしれない。その師と弟子は、お互いに心のアンテナを磨き、交流のチャンスが訪れるのを待っているのかも知れない。「メンター」についてはS.Jobsの伝記にも出てきた。創業者である経営者の間では「メンター」という同志愛的な絆が生まれるのかもしれない。企業内の潰し合いや出世競争という経営環境では「メンター」に出合う機会も少ないのではないか。その点上記の記事は再生中のJALに吹いた新しい風のように感じる。上記、JCASTニュースをもう一度読み直すと、稲盛和夫会長の出処進退の姿も浮かんでくる。経営再建には、ニッサン流もあればJAL流もある。ともかく沈没しつつある企業を浮上させるには、コスト的に身軽になるのも基本的な条件だが、それを可能にする条件を作り出す手腕が必要なのだろう。これは経営者のリーダーシップという便宜的な言葉では言い尽くせないようだ。経営者には全人格的な素質・能力・経験等の全ての要因が問われるのではないか。

本書をよみかじって、いつの間にか良い経営者、悪い経営者云々と考えていた。第5章は「経営者能力をどうはかる」。経営能力をズタズタに要素に分解して、それからあるべき経営者像を描き出してもヒューマノイドの空しさを感じるだけだ。経営者を選べない、作れない、評価できないという状況では名経営者は生まれてこないと諦めるべきか。経営者を広義にとれば、企業経営者だけではなく、各界の実権保有者、指導者とも重なる。これらの人物像にも経営者としての役割が求められている。経営者にはなろうとしてもなれるものでもない。今日は、経営者が余りにも内向きになりすぎ、萎縮し、事なかれ主義に徹してしまっているのではないか。実は、これは虚像かもしれない。大多数の中小企業のおちゃん的経営者は、生身を不況にさらしつつも、健全な精神を失っていないと思う。

経営の語源を調べたら以下のブログに出合った。長塚建築設計事務所ブログ((株)ナガツカ 代表取締役(1958年創業、2002年より世代交代し二代目社長))に、「経営とは?;http://jqa.cocolog-nifty.com/koga/2005/07/post_d8da.html#more(2005年7月 4日 (月))」というタイトルで、「語源「経」と「営」 「経之営之=これを経しこれを営す」 紀元前八世紀、周の国の詩人が、「祖先文王が霊台という祭壇を築いて、建国のシンボルとしたことを追想して霊台を経始し、これを経しこれを営す。庶民これをおさめ、日ならずして成る」と謳っているらしい。土木工事や建築を始める際、まず経と営という作業を行ったというのである。〔詩経・大雅・霊台〕~ 直線の区画を切るのを経といい、外がわをとり巻く区画をつけるのを営という。併せて、荒地を開拓して畑をくぎるのを「経営」といい、転じて、仕事を切り盛りするのを「経営」という。~」とある。

上記は抜粋だが、経営を語源に遡って理解する事も参考になる。WEB英英辞書(http://dictionary.reference.com/browse/manage?s=t)で「manage」を調べると「man?age
   [man-ij] Show IPA verb, -aged, -ag?ing.
verb (used with object)
1.to bring about or succeed in accomplishing, sometimes despite difficulty or hardship: She managed to see the governor. How does she manage it on such a small income?
2.to take charge or care of: to manage my investments.
3.to dominate or influence (a person) by tact, flattery, or artifice: He manages the child with exemplary skill.
4.to handle, direct, govern, or control in action or use: She managed the boat efficiently.
5.to wield (a weapon, tool, etc.). 」とある。

難しい課題をなんとかやりくりして完成させたり、成功させるという基本的な意味が「manage」にある。「management」は「manage」の名詞だから、「manage」する事と明快である。どうも、日本人は、言葉も貰い物という事で、目先の目的に間に合えば良しとする風潮があるようだ。しかし、本当の経営者は、常にその初心を忘れずに、日々の問題、今後起こるかも知れない問題に立ち向かっているのではないか。3.11三大災害に際して、日本の国家経営者や超優良企業の経営者のふがいなさをなげいて昨年読みかじったのが以下の本。

「読みかじりの記:帝王学 「貞観政要」の読み方 山本七平 著 (1983年 日本経済新聞社)http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2011/07/1983-5736.html」の記事を再読してみた。『帝王学 「貞観政要」の読み方』が書かれたのも、「経営者の条件」が書かれたのも、社会的な著しい不祥事が背景にある。古いが、『帝王学 「貞観政要」の読み方』の迫力を再認識。

追記(20141/13):
サイト内でキーワード「読みかじりの記」を検索(https://www.google.com/?hl=ja#hl=ja&q=%E8%AA%AD%E3%81%BF%E3%81%8B%E3%81%98%E3%82%8A%E3%81%AE%E8%A8%98%E3%80%80site:http:%2F%2Faf06.kazelog.jp%2Fitoshikimono%2F)。

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2012年3月28日 (水)

老人の寝言:今まで驚くべき計画的隠蔽工作はなかったか。福島原発事故の一年後。

2012/3/28(水)
昨日は晴れ。穏やかな晴天。青空が見える。以前の台風で屋根の上まで傾いたナツメの木の縮伐を始めた。うまく作業をしないと屋根を壊す。方法を考えながら途中まで作業。三月中頃からだろうか、早朝ケンケンとけたたましく鳥が鳴いている。人が活動を始める時刻になると鳴き止む。かみさんと近所で飼っているクジャクだろうとかと話題になった。鳴いている時に外に出たら、方角が違う。どうも雉らしい。人家が並ぶ場所で雉が鳴くのも今までなかったように思う。山野が住み難くなったのか。郊外が住み易くなったのか。NHKのニュースで福島原発2号機のファイバースコープ調査画像が放映された。原子炉に注水された水は高濃度放射能汚染水となって炉外に流出していたことになるが、いままで報道はその真相を伝えたのか。

2012/3/27(火)の天気

TAVE= 8.1
TMAX= 15.3 最高気温(℃)  15.8  15:04
TMIN= 1.2 最低気温(℃)  1.0  05:09
DIFF= 14.1
WMAX= 4.7 最大瞬間風速(m/s)   9.3(東南東)  16:52
SUNS= 11.8
RAIN= 0

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老人の寝言:今まで驚くべき計画的隠蔽工作はなかったか。福島原発事故の一年後。

2012年3月27日 (火)の記事「老人の寝言:昨年の今頃は放射能汚染水が心配だったが、問題は更に大きくなっていないか」で、放射能汚染水の保管危機の問題を考えた。当局はステップ1の冷温停止が実現して、ステップ2に入ると実績を誇示して見せた。ところが、最近の2号機のファイバースコープによる、炉内調査で、格納容器の水位はわずか60センチに過ぎないと、新聞各紙が報じている。以下、は、日本経済新聞が報じた内容だ。

日本経済新聞は、「福島2号機の格納容器、水位わずか60センチ
内視鏡で確認 注入水の大半漏出か ;url=http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C93819595E0E4E2E08B8DE0E4E2E1E0E2E3E09F9FEAE2E2E2(2012/3/26 20:37)」というタイトルで、「東京電力は26日、福島第1原子力発電所2号機の原子炉格納容器内に工業用内視鏡を入れ、格納容器にたまった冷却水を初めてカメラで撮影したと発表した。水面は容器の底から約60センチメートルの位置にあった。水深は当初4メートル以下とされたが、大きく下回った。27日には内部の放射線量を測る。 炉心溶融を起こした1~3号機の中で線量が低い2号機から調べたが、それでも注いだ水のほぼすべてが漏れ出る損傷があるとみられる。廃炉作業では格納容器に水をためて放射線を遮蔽する計画で、作業の難しさが改めて浮き彫りになった。 東電は水温がセ氏48.5~50.0度だったことから「格納容器底部に落ちた燃料は水につかって冷却できている」(松本純一原子力・立地本部長代理)としている。水漏れは圧力抑制室やそこに続く配管が損傷している可能性が高いという。」と報じた。

原子炉には、毎時数立米の注水が行われている。日量にすれば100立米前後にはなるだろう。水温は風呂の温度より少し高い程度なので、蒸発する水量は少ないだろう。そうすると、注入した水のほとんどが、格納容器外部に流出している事になる。当然、この流出した水は、原子炉の炉心を洗うように流れるだろうから高濃度放射能汚染水という事になるだろう。ところで、昨年9月の以下の「地下水3万5千トン流入」という記事が思い出される。建屋への地下水流入の原因は建屋のコンクリート壁に地震による亀裂が入ったからというもっともらしい理由が並んでいる。、

asahi.comは、「福島第一原発、建屋に地下水3万5千トン流入;url=http://www.asahi.com/national/update/0921/TKY201109210686.html(2011年9月22日0時50分)」というタイトルで、「東京電力福島第一原発で、敷地内の建屋などにこれまでに流れ込んだ地下水の累積は約3万5千トンと見積もられることがわかった。大雨のシーズンを迎え、地下水の流入を抑えながら汚染水があふれ出すのも防ぐ微妙な水の管理が必要になる。 東電が汚染水を浄化して注水する循環注水冷却を始めた6月末時点で、1~4号機の建屋と集中廃棄物処理施設の高濃度汚染水の量は約12万1千トンだった。3カ月間の浄化処理の後、本来なら約6万トンに減るはずだったが、実際には約9万8千トンが残っている。 東電はその差から、外から供給した冷却水を差し引いた約3万5千トンの大半は、建屋の亀裂などを通じて流入した地下水とみる。1日あたりの流入量は200~500トンという。 」と報じた。

上記の記事を書いた記者はどんな記者感覚で取材したのだろうか。素人ながら、たとえ、地震により亀裂が入った建屋のコンクリート壁から、地下水が入ってきても、地下水自体は、地下への放射性物質の拡散がないかぎり、きれいな水の筈だと思わなかったのか。恐るべき事に、上記記事の水量はすべて「高濃度汚染」として計算されているように見えるのだ。そうして、各原発に注入された一日分の水量を目の子で計算すると 100立米程度X4基分で数百立米程度になる。トン数でいえば、まさに上記の記事の日量数百トンと符合するのだ。格納容器に亀裂が入って、冷却水がジャジャ漏れになっていることを想定して、巧妙なトリックが仕込まれているような情報開示がされたように思われるのだ。流入したのと流入させたのは正反対だ。

3.11三大災害から一年を経て、各方面で検証作業が進められている。しかし、新しい事実が公表されるのは意識的に遅らされているようにも感じる。こんな状況なのだから、検証は毎年行い、毎年年次報告を出し、廃炉後も検証作業を続けて本当の事実は記録に残すべきではないか。単なる区切りをつけるだけの形式的な検証では将来の事態に何の役にも立たないのではなかろうか。福島原発事故は津波による全電源喪失が直接的な原因とされているが、老朽化による耐震能力の低下が基本的に存在するという専門家の意見がある。このような基本的な信頼性問題を真摯に検証することが求められているのではないか。当局は、M9.0の巨大地震でも、原子炉は止まったと胸を張り、津波さえなければという恨み節を通そうとしているようだが、原子炉システムの耐震能力が高ければ、あるいは福島原発事故は避けられていた可能性も否定できない。未だ、地震発生から1~3日間程の分秒レベルの動きは正確に捉えられていないブラックボックスの状態にある。原発の水素爆発事故も格納容器からの大量の水素漏れが原因だろう。その原因を更に突き詰めれば格納容器の破損に繋がることは科学的な必然に近いのではないか。この仮説が正しければ、上記日本経済新聞の内容とも辻褄があってくるのである。

もう一つ、奇妙な大きな謎がある。M9.0の地震で、原子炉は全て停止した。それなのに、原子炉建屋の基礎部分になる、コンクリート壁の亀裂で、日量数百トンの浸水があると伝えられているが、それほど原子炉建屋が脆弱なものかという疑問、というよりは疑惑である。原子炉の経年劣化はすべての原子炉にやがて訪れる末期症状である。この事実を隠蔽して、全ての原発事故原因を津波に押しつけようとするのは明かな意識的な隠蔽工作ではないか。

「福島第一原子力発電所;。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E7%AC%AC%E4%B8%80%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E7%99%BA%E9%9B%BB%E6%89%80#.E4.BA.88.E5.AE.9A.E5.9C.B0.E3.81.AE.E7.94.B1.E6.9D.A5。」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。(最終更新 2012年3月26日 (月) 12:43)(http://ja.wikipedia.org/)の一部引用=「配置計画 [編集]:なお、その後の技術誌には標高35mの台地と書かれている。これを標高10mまで掘削整地し、海岸線に平行してタービン建屋を設置、その陸側に原子炉建屋、主変圧器などを設置することとした。事務本館はタービン建屋の北側に設置し、超高圧開閉所は標高35mの台地上に設置した。台地を掘削したのは原子炉建屋など重要度の高い建物を岩盤に直接支持させるためであったが、津波の可能性は一定のレベルまでは考慮していた[59]。」

原子力発電所立地の地質は岩盤の上であり、海面から数メートルの標高で、原子炉建屋に日量数百トンの浸水を起こさせる程の地下水位があるのか疑問に感じる。実態は、保管設備(タンク)が直ちに確保できないので、緊急避難的に原発建屋の地下を貯水タンクとして代用したのが真相ではないか。原発建屋の地下に高濃度汚染水を一時保管するとしたなら、原発建屋の地下の健全性は不可欠である。よくよく突き詰めてみると、何重もの疑問符が付くのである。当局がやってきたのはマッチポンプのような芝居に見えてしまう。事実の本質を隠し、責任逃れをしつつ、全てを後回しにする。そこには膨大な機会損失も生まれる。一分一秒の遅れが限りなく増幅された損害として降りかかってくる。風評被害がその一例だ。以上を自分なりにまとめると、原子炉はM9.0という地震の一撃で損傷を受けて、その結果が継続している途中に津波が襲い、津波対応で対応が後手後手となり、収束がつかなくなり、被害が拡大したのではないかと推測する。当局は、福島原発事故当初は原子炉の健全性は確保されていると懸命に説明したが、それが事実でないことは白日の下に示された。やはり、原子力発電所の安全性の基本は原子炉や原子炉管理システムの堅牢性にあるのではないか。地震対策が不十分の上で津波対策をしても屋上屋を築くだけではないか。

ここまで書いて、もう一つ盲点に気付いた。汚染水の浄化循環システムが稼働して、高度放射能汚染水の外部環境への流出は問題にならない程度に減少したと思っていたが、注入した水量よりやや少ない程度(即ち大量)の高度放射能汚染水が依然流出している事実が明らかになったのではないか。汚染水の浄化循環システムが稼働しているから安全というのは真相の全てを語ったていないように思われるのだ。

2012年3月27日 (火)

老人の寝言:昨年の今頃は放射能汚染水が心配だったが、問題は更に大きくなっていないか

2012/3/27(火)
昨日は晴れ。早い内に落葉樹を切ろうとしているがついつい先にのびる。夕方外出。水栽培のチューリップが伸び出している。根は伸びないが葉の伸びが早くなったようだ。しばらく東京電力のホームページを見ていなかったが、東京電力ホームページは、「当社原子力発電所の全基停止について;url=http://www.tepco.co.jp/index-j.html(平成24年3月25日)」というタイトルで、「当社福島第一原子力発電所、福島第二原子力発電所が停止する中、柏崎刈羽原子力発電所につきましては、順次定期検査に入っておりますが、明日3月26日より柏崎刈羽原子力発電所6号機の定期検査を開始いたします。これにより、当社の原子力発電所全てが停止することになります。 昨年発生した東北地方太平洋沖地震以降、柏崎刈羽原子力発電所の運転にご理解いただきましたことについて、周辺地域の皆さまに厚く御礼申しあげます。今後、柏崎刈羽原子力発電所につきましては、定期検査を安全に進めることと並行して、安全性に関する総合評価を実施し、設計上の想定を超える地震や津波等に対する安全裕度を確認していくとともに、津波に対するさらなる安全性・信頼性向上に向けた取り組みを着実に進めてまいります。」と報じた。日本で、現在稼働中の原子力発電はたった一基だけとなった。11年3.11より一年以上経過して、東京電力福島原発事故もの記憶も少しずつ薄らいできているように感じる。忘れてならない事は減ってはいないのだが。

2012/3/26(月)の天気

TAVE= 5.7
TMAX= 10.5 最高気温(℃)  10.7  13:58
TMIN= 1.2 最低気温(℃)  0.6  05:35
DIFF= 9.3
WMAX= 7.5 最大瞬間風速(m/s)   14.3(北北西)  11:32
SUNS= 10.7
RAIN= 0

Q
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老人の寝言:昨年の今頃は放射能汚染水が心配だったが、問題は更に大きくなっていないか

技術断想:福島原発破局回避のシナリオ(原発谷側に巨大な貯水池を作れ)http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2011/04/post-0324.html(2011年4月 7日 (木))が、昨年必死に考えた放射能汚染水流出防止対策だった。原子炉を水で冷却を続ける限り放射能汚染水が出る。究極の解決法は完全に循環させる事だが、原子炉の状態がいまだはっきりしていない。どこかに漏れている放射能汚染水は全くないのか。ともかく、放射能汚染水は溜まる一方だ。東京電力のホームページに、今後の貯蔵方式が出ていた。スペースが無いので、地面に穴を掘って、三重シートを敷いて、そこを放射能汚染水の貯水槽にするというアイデアだ。何か、素人の自分のアイデアに似ている。自分の場合、浸水防止は当然コンクリートを考えていた。巨大な池を作れという事だが、環境への拡散まで考えるゆとりもない。ともかく可能性として検討した。東京電力の資料によると、土木関係で三重シートは実績があるので、本気で進めそうな気配だ。しかし、よく考えてみると、ほとぼりが冷めた頃、信頼性が保証できなくとも、コストが安い方式に、切り替えようとしているのではないかという疑いが生じた。鉄タンクも、やがて敷地面積等で限界が来ることを承知で進んできたのではないか。たとえ三重シートでも、面積が広ければ、材質の不均一が生じ、ピンホールも生じる可能性が高い。ともかく、水圧がかかるのだから、各シートに小さな穴が一ずつあいても、地下への放射能汚染水の拡散は起こりうる。完全な循環方式を大至急実現して、鉄タンクや樹脂シート貯水槽はあくまでも、短期間の時間稼ぎにつかうべきではないか。以下は、東京電力の計画案だが、場合によれば、数十年以上の保管が必要になる。それ程長い信頼性が保てるのか。一般土木の問題とは別次元の問題なのだ。
Cyozoutank_sheet_housiki_s
 上図の引用元:運営会議第3回会合(2012年2月27日)【資料3】個別の計画毎の検討・実施状況
http://www.tepco.co.jp/nu/fukushima-np/roadmap/images/m120227_05-j.pdf

2012年3月26日 (月)

日々農天気:ミカンの凍害2012年(20120326)

2012/3/26(月)
昨日は晴れ。朝の屋外周囲温度はほぼ0℃。容器の水は薄く氷結しているのもあるが、氷結していないのもある。用事外出。その後、凍害で傷んだ蜜柑樹の手入れをした。地球温暖化は本当か疑問に思うこともある。地球の長い歴史の中では冷害・凍害もくり返しているようだ。

2012/3/25(日)の天気

TAVE= 7.0  
TMAX= 13.5 最高気温(℃)  13.7  14:01
TMIN= 1 最低気温(℃)  0.5  05:36
DIFF= 12.5  
WMAX= 8 最大瞬間風速(m/s)   13.4(西北西)  15:54
SUNS= 8.1  
RAIN= 0  

Q
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日々農天気:ミカンの凍害2012年(20120326)

今年の冬の寒さには参った。大雪の被害も目立った。ヨーロッパにも寒波が押し寄せた。身近な例では、野菜の値段が高騰した。大根一本が200円近い値段になった。2011年に植えたミカン苗も、まだ体力不足で、枯れたり、枯れかけたりした。今まで、若い苗は、ある程度防霜対策をしていたが、昨年はそれをさぼった。夏~秋に伸びた枝を切らずに置けば、その部分が最初に霜で枯れても、春伸びた枝は生き残るだろうと甘く考えた。

京大の農薬ゼミのホームページに、「8章 省農薬園の評価とその可能性;url=http://dicc.kais.kyoto-u.ac.jp/KGRAP/archive/report/Chap8/Chapt8.html」というタイトルで、「 1983年の冬は異常寒波が全国的に襲来した。とくに標高が300メートルもある本園は寒波の影響をより激しく受けた。当時カイガラムシ対策として冬季マシン油を散布していたが、2月中は散布液が散布機およびホース中で凍結し、散布が困難となったほどである。このような低温期の連続はミカン樹に多大の被害を発生させた。いわゆる凍害の発生である。凍結したミカン葉は融解後も葉は巻いた萎凋症状を呈し、潅水したものは比較的早期に回復するが、直射日光にさらすとその萎凋の回復が遅れる。つまり、夜間に凍結した葉が日中の直射日光にさらされ、溶解するという過程を数日間くり返すと、萎凋程度は進み、まもなく落葉する(カンキツの気象災害、小中原実著、農文協、1988)とされている。本園もこの凍害にみまわれ、全園が凍結した。ただし、園の右側(東部)は日中も直射日光に当たらない地形であるため、一日中凍結状態が保持されていたが、左側(西部)は日中の数時間は直射日光が当たる部分であり、融解し、夕方から再び凍結する状態が継続したため、萎凋状態から落葉に至った。結局、調査園の約三分の一の樹で全葉が落葉した。 このような凍害によって枯死樹が発生することもあるが、本園では幸い枯死に至るものは少数であった。しかし、樹勢の回復は困難で、前章で記載したように本園左側部分(西部)の樹勢が低く、改植数が多いのはこの年の凍害の影響も手伝っての結果であろう。」という記事があった。

このホームページは「-農薬を少しでも省いた農法(省農薬栽培)の可能性を探ってきた『京大 農薬ゼミ』- その活動や省農薬ミカン園の様子を紹介していきます。」という目的で運営されているようだ。我が家の、蜜柑樹の枯れ方を見ると、上記の記事に似ている。気象庁によると、今年の寒さにはラニーニャ現象が影響しているようだ。1983年の冬は異常寒波もラニーニャ現象が原因だろうか。これは別途調べたい。ミカン樹は常緑樹だが、常緑樹は葉が更新する時等は自然の落葉がある。これは一種の生理現象で、植物ホルモンと外部条件の相乗効果で起こるのだろう。今年の冬は、枯れた葉が落葉せずに、枝に残っているのが多い。また、枝の表側が茶色に変色しているが、裏側には緑色が残っている枝もあった。急激な寒波で、細胞が即死しているような印象である。中には、枯葉がポロポロ落ちるが、枝はまだ緑色をしているのもある。これは、樹体が一時的に落葉樹のような振る舞いをして、エネルギーの消費低減や体力の減衰を避けているように見える。ともかく、枯れ枝を切除し、枯葉はもいだ。暖かくなり芽を吹くのを待つ以外にない。

追記:「災害をもたらした気象事例 昭和58年6~7月の低温:http://www.data.jma.go.jp/obd/stats/data/bosai/report/kanman/1983/1983.html」に低温災害の例がある。この年の冬は?

以下のWIKIPEDIAの記事が参考になる。

「寒冬;。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%92%E5%86%AC。」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。(最終更新 2012年3月7日 (水) 00:20)(http://ja.wikipedia.org/)の一部引用=「1983 - 1984年:
    平均気温は全国的に平年を大幅に下回り、東日本や西日本を中心に観測史上有数の寒冬となり1944 - 1945年に次いで2番目の低温であった。特に1月中旬から2月にかけては全国的に平年を7 - 8℃下回る日が続き冬平均(12 - 2月)でも東日本、西日本で平年より2℃以上低かった。寒気団が日本列島を覆って全国的に低温となり、日本海側では記録的低温と大雪に見舞われ多くの死傷者を出した。また南岸低気圧の通過により東京都心をはじめ関東地方でも度々大雪となったほか、西日本の多くの都市でも大雪に見舞われた。東京都心では冬期間(12 - 2月)の総降雪量は89cmに達した。五九豪雪も参照。さらにこの年は3月以降も異常寒春である(関東甲信以西の太平洋側でも3月にも関わらず6日以上も冬日を記録、さらに前年11月及び4~5月も異常低温になり梅雨期まで半年以上に亘り低温傾向は解消されず4月下旬から5月上旬に北日本で季節外れの豪雪に見舞われた)。1983年秋から日本に寒波と豪雪をもたらすラニーニャ現象が断続的に発生していた。」。

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追記(2014/2/18): 「日々農天気:ミカンの凍害2012年(2012/3/26(月))」の記事が当ブログのランキングに入った。先日の大雪がその理由だろうか。我が家のミカン樹の被害状況もまだ十分掴んでいない。雪で押しつぶされているのもある。手当てが必要か?ミカンは常緑樹で雪が積もると相当大きな加重を受ける。以下に過去記事をメモしておく。

先日の大雪による倒木の例: 「愛しき古里:平成26年の記録的大雪で倒れた鯉沼の古木(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2014/02/26-1259.html)。(2014年2月17日(月) )」。

過去の柑橘(たぶん八朔)の枝が股裂きになった例。この時は、切り口が乾かないうちに枝をかなり切り落とし軽量化して手当てをした結果、一年後に癒合した。

「雑草句録:戦力外(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2011/02/28/)。(2011/2/28)」

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追記1(2019/02/23):アクセスランキングで2位に入っているがその理由が分からない。昨年は、愛媛県等のミカン産地で大きな災害があり、それと関連して検索されているのか。古いデジカメ画像を見ていたら、ミカン樹が落葉した写真があったので、ここに掲載しておく。

Iob_2019_mikan_tougai_2012_20120320
原ファイル名=「IOB_2019_MIKAN_TOUGAI_2012_ミカン凍害20120320.jpg」
IOB=IMAGES ON Beloved Ones

追記2(2019/02/23):2012年の凍害の記事を見ていて気付かなかったが、アメダスの気温データで比較できるだろうと思いついた。そこで今年作った日最低気温と2012年の日最低気温のグラフを並べてみた。落葉に気付いて上記のDSC撮影をしていたが、2012年は既に1~2月でかなり低温ストレスを受けていたと推定出来る。

Iob_2019_amedas_min_temp_2012vs2018
原ファイル名=「IOB_2019_AMEDAS_MIN_TEMP_2012VS2018_アメダス21012と2018の最低気温比較.jpg」
IOB=IMAGES ON Beloved Ones

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2012年3月25日 (日)

技術 回顧と展望:明治の文明開化から始まった電気利用は今後どうなるか

2012/3/25(日)
昨日は午前は曇り。午後より晴れ。用事外出。古本屋でDOSの本を探す。100円ショップでマスクを購入。花粉症対策。昨年の福島原発事故直後は、店頭から売り切れや買いだめでマスクが消え、入荷未定の張り紙があちこちに出ていたのを思い出す。たまたま、トイレの暦を見ていると3月25日は電気記念日と一行だけ書かれていた。電気記念日は馴染みが無く調べてみた。

2012/3/24(土)の天気

TAVE= 8.7
TMAX= 14.3 最高気温(℃)  15.6  13:40
TMIN= 5.6 最低気温(℃)   4.9  23:12
DIFF= 8.7
WMAX= 11.2 最大瞬間風速(m/s)   16.9(北西)  14:51
SUNS= 3.8
RAIN= 0

Q
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技術 回顧と展望:明治の文明開化から始まった電気利用は今後どうなるか

「電気記念日」をWIKIPEDIAで調べてみたが内容が貧弱であった。日本電気協会のサイトで調べた。社団法人日本電気協会は「明治25年の「日本電燈協会」発足に源を発し、その後幾度かの改変を経て、大正10年10月に設立された、日本で唯一の電気関係総合団体です。」との事だが、こちらも余り馴染みがない。

日本電気協会のサイトには、「 電気記念日の由来 ;http://www.denki.or.jp/about/origin.html」というタイトルで、「毎年3月25日は、電気記念日です。 明治11年(1878年)3月25日、工部省電信局は、万国電信連合に加盟する準備として東京・木挽町に電信中央局を設け、その開局祝賀会を東京・虎ノ門の工部大学校の講堂で開催しました。 祝賀会は、大臣や各国行使など150名を越える人々が参加し、盛大に行われました。夕方、大学校の車寄せに多くの来賓を乗せた馬車が次々と到着し、玄関から2階の講堂へ案内されていきました。」とある。

いわば、「電信中央局 開局祝賀会」というメインイベントを盛り上げるためのサイドイベントが電灯の点灯だった。WIKIPEDIAの「電信」によると、「アメリカ合衆国 [編集]:1836年にアメリカの科学者デイビッド・オルターがペンシルベニア州エルダートンで電信機を発明した。
日本 [編集]:1854年、ペリーが持ち込み、日本に電信がもたらされた。ペリーは電線を1km程引き、公開実験をおこなった。このとき、「YEDO, YOKOHAMA」(江戸、横浜)と打った。1869年、電信による公衆電報が東京・横浜間で開始された。」とある。当時では、電信は通信革命と言えただろう。明治維新(WIKIPEDIA=開始時期については諸説あるが、狭義では明治改元に当たる明治元年旧9月8日(1868年10月23日)となる。)直後から文明開化の波が押し寄せているのが分かる。

「電気記念日の由来 」はさらに電灯点灯の様子を、「この日、会場に電気灯を使用するよう、工部卿伊藤博文から特に命ぜられていた英国人エアトン教授は、グローブ電池50個を使い、講堂の天井に設置されたアーク灯(「デュボスク式アーク灯」)を点灯するため、自ら難しい調整にあたっていました。 やがて6時、エアトン教授の合図とともに、目もくらむような青白い光がほとばしり、講堂をくまなく照らし出しました。その場にいた来賓たちは、「不夜城に遊ぶ思い」と驚嘆の声をあげたといいます。 これが、日本で電灯が公の場ではじめて点灯された瞬間でした。 翌年の1879年10月21日には、米国でエジソンが白熱電球を発明し、日本にも輸入されました。明治19年(1886年)には東京に電灯会社が生まれ、電灯に動力にと、電気の時代が幕を開けました。~動力への利用は電灯よりも少し遅れて、明治23年(1890年)11月、東京・浅草の凌雲閣(12階)のエレベーター運転用として、7馬力電動機に供給されたのが初めてです。明治28年2月には、京都伏見線で電気鉄道が初めて営業運転を行いました。このように、3月25日は日本の電気事業にとって忘れることのできない日です。
これを記念するため、昭和2年に開催された日本電気協会の総会において、3月25日を「電気記念日」と定めました。以来、翌年の昭和3年から毎年3月25日頃に全国各地でさまざまな記念行事が開催されています。」と記す。

上記の記事から、設置されたのはアーク灯(空中放電)であり、調整が難しいことが分かる。この問題を解決したのがエジソンの白熱電球という事になる。当地区では、父が幼少の時電灯がともり、大喜びをしたと昔話が伝わる。大正時代の中頃まではランプの生活をしていたのだ。その後、終戦まで、家庭での電気の使われ方は詳しく分からない。電灯中心の利用だと思う。終戦後、地域に共同風呂があり、これは電熱利用だったそうだ。我が家でも、卵から鶏の雛をかえした頃があり、その時は保温に電球を使っていたようだ。脱穀機も足踏み式からモーターを使った電動式に代わった。

電気は便利だが見えないという性質があり、ついついその存在と有り難さを忘れてしまうが、そのエネルギー利用の安定性に不安が目立ってきたのが現代だろう。「心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(4)http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2012/03/post-f7fe.html」に、明治12年の交通事情として、「当時を物語る記録では、行啓は、大夫・書記官・侍医等150名からなる従官を伴って御馬車に乗り、途中大宮・熊谷・高崎に泊まり、山道に入ってからは御興しに乗り換えこの地に辿り着いた」という記事がある。明治11年の「電信中央局 開局祝賀会」と対比するとするとその格差にも興味を感じる。電気利用も単なる、熱、光、動力から、それらを自由に制御する情報通信化時代に入っている。「電気記念日」も電気の歴史を振り返り、未来のエネルギーのあり方を考える上で意義ある日に違いない。

2012年3月24日 (土)

科学ニュースに独り言:光速より早いニュートリノは実験ミス?

2012/3/24(土)
昨日は曇り午後より雨。朝方は定例の仕事。科学は見えない物を見せてくれる。物と物の関係を教えてくれる。今日、科学の知識が無くなると仮定すると、世界の見え方ががらりと変わるのではないか。残念ながら、この科学知識は先天的に獲得できない。人間の学習能力の上に後天的に積み上げてゆく必要がある。幼少時に母親に、「太陽は火かい、月は水かい」と聞いたことがあったらしい。子供の頃の失敗では、沸騰する鉄瓶のお湯の温度を測って、温度計を割ってしまったり、早く育てと植物に石鹸水を与えて、父に笑われた事を覚えている。おばさんから、磁石の不思議のようなことを書いた本をもらったのが科学らしい物への最初の出会いだったと思う。見えないものを見ようとするのは人間の要求の一つと言えるだろう。ニュートリノという粒子の不思議さは未だ完全に解明されていない。その多さと微少さで、人体中にも無数のニュートリノが飛び交っている。それを捉えるには巨大な装置が必要だ。

2012/3/23(金)の天気

TAVE= 8.5
TMAX= 10.7 最高気温(℃)  11.1  10:34
TMIN= 5.9 最低気温(℃)   5.8  20:37
DIFF= 4.8
WMAX= 4.7 最大瞬間風速(m/s)  .7(西北西)  04:11
SUNS= 0
RAIN= 7.5

Q
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科学ニュースに独り言:光速より早いニュートリノは実験ミス?

昨年だったか、ニュートリノが光速より早いという実験結果が出て、世界中を騒がせた。アインシュタインの相対性原理が成立しなくなる現象として関心を集めた。自分も、本当か?と情報を集めてみたが所詮素人で、本質的な事は皆目分からない。しかし、その実験がGPSシステムを使った測定で、そのデータが、統計処理されている事は何となく分かった。測定系の各部分に統計誤差が生じるので、その誤差を処理すると、有意なデータが残り、ニュートリノの走行時間が光の走行時間より短いと結論したようだ。最初に疑問に思ったのは、何故GPSシステムかという事。GPSシステムは数個の人工衛星を使って距離を算定するシステムだが、システムとしては複雑すぎるのではないかと思った。いわば、実験として何秒早いかという問題設定とどちらが早いかという問題設定が可能だろう。測定系としては、後者の方が単純になり、誤差の評価が簡単になる。陸上の走行競技と同じだ。中間の条件は問わない。光とニュートリノを同時に発射し、ゴールでどちらが先に着くか、その確率が50%なら、光とニュートリノの速さに有意さはないといえるのではないか。ともかく、精密実験では、光とニュートリノを同時に発射も、発射の同時性も問題になると思うが、距離を測定してから、時間を逆算するという手順では、システム誤差が入りそうだと思った。

CNN.co.jpは、「ニュートリノ、検証実験で光速超えず 当初結果にまた疑問符 ;url=http://www.cnn.co.jp/fringe/30005947.html(2012.03.17 Sat posted at: 14:42 JST )」というタイトルで、「(CNN) スイスにある欧州合同原子核研究機関(CERN)の国際共同研究グループOPERAが昨年9月、素粒子ニュートリノが光より速く飛んだとする実験結果を公表し科学界に衝撃を与えた問題で、イタリアのグランサッソ研究所は16日、CERNとの間の検証実験でニュートリノは光速を超えなかったと発表した。 CERNは先月、時間計測に使った光ファイバーケーブルに緩みがあったなどの欠陥が見付かったとも発表しており、光速を超えたとする当初の実験結果は間違いだったとの見方がさらに強まりそうだ。 CERNによると、9月の実験結果の「最終的な検証」のためグランサッソ研究所で今年5月、計4回の実験を実施する。 OPERAは昨年9月、1万5000個以上のニュートリノを使い、ジュネーブ郊外にあるCERNと約730キロ離れたグランサッソ研究所の間の地中で粒子加速器を用いて実験。ニュートリノの飛距離と時間などを10億分の1秒単位まで厳密に計算し、光より速かったと発表していた。」と報じた。

上記ニュースを読むと、その後の検証で実験が誤りであった可能性がより高まったようだ。しかし、それだけで、この実験の幕引きはできないだろう。少なくとも、光とニュートリノの速度は、誤差X%の範囲で同じであったという結論を出してもらいたい。「時間計測に使った光ファイバーケーブルに緩みがあったなどの欠陥が見付かったとも発表」したのなら、それらの不具合を一掃して再実験を行うべきではないか。この欠陥自体、余りにもお粗末な理由に過ぎない。予備実験をしていれば完全に除去できる問題だ。測定系は校正をして初めて正確性・精度が保てるのだ。物理原則をひっくり返すほど重大な実験結果を発表するのだから、データの評価、発表は万人を納得させるだけの慎重さが必要であったろう。既に、超新星爆発により発射された、光とニュートリノの速度からOPERAの実験結果に疑問が出されていたようだ。ともかかく、違った方法で同じ結果が得られるという事実も重要だろう。OPERAの実験には、多くの科学者が参加していたようだ。科学実験が巨大になり、OPERAと同じ実験を別の機関が行うのは相当な困難が伴うだろう。真偽・確実性を犠牲にして、それが真実ならノーベル賞は疑いなしという初名のりという成果を急ぎ、万一それが誤りであってもその実験結果を否定するのは自分達しかないという甘い考えはなかったか。科学者の役割が余りにも細分化して、群盲像をなでるという状況はなかったか。実験系だけでなく、機構・組織の検証も必要ではないか。巨大科学の余りにも早い自己否定は、単なる誤りで片づけられないような危機・不安を感じる。

2012年3月23日 (金)

心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(6)

2012/3/23(金)
昨日は曇り一時晴れ間。用事外出。ついでに工作に使うため強力マグネットを百円ショップで調べた。磁力の強さは数十ミリテスラとあった。http://staff.aist.go.jp/nakashima.yoshito/nouzei/magnet.htmによると、地磁気:0.3-0.5ガウス=0.00003-0.00005テスラ、磁気ネックレス:0.13テスラ、病院の超伝導磁石を用いたMRI:1.0-1.5テスラ(1T=10000G)との事だ。この磁気というのも、人間は見ることも感じることもできない。以前、脳ドッグを受けたとき、MRI装置の磁力は1.5テスラとの表示があった。検査が終わって担当員に1.5テスラという磁気の強さはどの位か聞いてみた。ボールペンをその装置の上で離すと浮いてしまった。一目瞭然とはこのこと。あの、ガンガンという音を検査の内容毎に変えているのだそうだ。

「核磁気共鳴画像法;。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B8%E7%A3%81%E6%B0%97%E5%85%B1%E9%B3%B4%E7%94%BB%E5%83%8F%E6%B3%95。」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。(最終更新 2012年3月20日 (火) 10:09)(http://ja.wikipedia.org/)の一部引用=「核磁気共鳴画像法(かくじききょうめいがぞうほう、英語: magnetic resonance imaging, MRI)とは、核磁気共鳴 (nuclear magnetic resonance, NMR) 現象を利用して生体内の内部の情報を画像にする方法である。断層画像という点ではX線CTと一見よく似た画像が得られるが、CTとは全く異なる物質の物理的性質に着目した撮影法であるゆえに、CTで得られない三次元的な情報等(最近のCTでも得られるようになってきている)が多く得られる。また、2003年にはMRIの医学におけるその重要性と応用性が認められ、"核磁気共鳴画像法に関する発見"に対して、ポール・ラウターバーとピーター・マンスフィールドにノーベル生理学・医学賞が与えられた。」。

2012/3/22(木)の天気

TAVE= 6.9
TMAX= 14.2 最高気温(℃)  14.6  16:38
TMIN= -1.1 最低気温(℃)   -1.4  05:10
DIFF= 15.3
WMAX= 5.3 最大瞬間風速(m/s)  10.4(北西)  17:15
SUNS= 1.3
RAIN= 0

Q
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心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(6)

吉田松陰の名前の名乗りの理由を推測してみたが、楫取素彦の場合はどうかと推測してみた。既に、どこかに正解があるのかも知れないし無いのかもしれない。

高山彦九郎が自ら名乗った名前があるか知らないが、IKIPEDIAによると、「高山彦九郎http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%BD%A6%E4%B9%9D%E9%83%8E」に、「上野国新田郡細谷村(現群馬県太田市)の郷士高山良左衛門正教の二男として生まれ、諱を正之という。」とある。「正之」とは「正しい道を行く」の意味にとれるだろう。そこで、WIKIPEDIAで「諱(いみな)」を調べた。

「諱;。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B1。」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。(最終更新 2012年2月9日 (木) 15:23)(http://ja.wikipedia.org/)の一部引用=「概要 [編集]:諱という漢字は、日本語では「いむ」と訓ぜられるように、本来は口に出すことがはばかられることを意味する動詞である。 この漢字は、古代に貴人や死者を本名で呼ぶことを避ける習慣があったことから、転じて人の本名(名)のことを指すようになった。諱に対して普段人を呼ぶときに使う名称のことを、字(あざな)といい、時代が下ると多くの人々が諱と字を持つようになった。 諱で呼びかけることは親や主君などのみに許され、それ以外の人間が諱で呼びかけることは極めて無礼であると考えられた(詳細は、実名敬避俗(じつめいけいひぞく)及び避諱を参照)。 また、僧侶が受戒するときに受ける法名のことを、仏弟子として新たに身につける真の名前という意義から諱(厳密には法諱(ほうい、ほうき))といった。 日本では時代が下ると、僧侶の受戒が、俗人の葬式で死者に授戒し戒名として諱を与える儀礼として取り入れられた。このため、現在では諱は諡と混同され、現代日本語ではしばしばほとんど同義に使われることもある。」。

高山彦九郎が存命中の当時は、親や自分は本名「正之」を使ったのではないか。松本淳氏のホームページに、頼山陽の「高山彦九郎傳」の原文と現代語訳が紹介されている(http://kambun.jp/kambun/rai-takayama-yaku.htm)。この、「高山彦九郎傳」で頼山陽は高山彦九郎を「正之」と記している。この訳文を読むと上州人気質の義理人情ぶりが高山彦九郎の中にも流れている事を感じる。更に、自刃の様子も活写されているが、その自刃の理由については「正之はこうして死んだ。彼の死は、京都、江戸、大阪の三都に伝わったが、誰も彼が自殺した理由を知るものはなかった。」と記し当時から謎であったようだ。その訳文の結語に、「父は正之の伝記を作ろうとしていたが、果たさぬうちに亡くなってしまった。私は最近、ある人が正之のことを書いた記事を読んだのだが、それには正之のことをまるで叛徒のように書いてあった。これはまったくの濡れ衣である。そこで、私は父から聞いたことを書いたのだ。」とある。頼山陽(WIKIPEDIA:頼 山陽(らい さんよう、安永9年12月27日(1781年1月21日) - 天保3年9月23日(1832年10月16日))は江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人である。幼名は久太郎(ひさたろう)、名は襄(のぼる)、字は子成。山陽は号である。)がこの「高山彦九郎傳」を後世に残そうとした理由もやはり高山彦九郎のDNAを温存させることにあったのではないか。高山彦九郎の自刃の理由は謎とされている。その謎を解く鍵の一つに、「松陰以白居士」があるのかも知れない。高山彦九郎は自分をどのように名乗ったか分からないが、その志を継いだ人が「松陰以白居士」という戒名を以てその理想を名乗らせてやったように感じてしまう。

御蔭松の石碑に刻まれた明治十二年において、明治維新という激動は治まり、社会はその歴史を回顧できる状況になってきたと思われる。その年は、吉田松陰没後20年でもある。吉田松陰の獄死は、その時点では、いわば二昔前の事になる。世間では、吉田松陰の名前も忘れられかけていたかもしれない。加藤健太郎氏の記事にある、楫取素彦は「歴史の仲介役」という指摘は的を射ていると思われる。更に、上記の記事に、「そんな人物の墓が、山口県防府市にある。かつては三田尻の地名で知られたこの街は、ちょうど同県の中央、瀬戸内海側に位置し、幕末長州藩が慶応3年末に朝敵の汚名を返上すべく王政復古・討幕を期して上京する際の出発地となった場所である。そこに諸隊参謀として楫取素彦の姿があった。この年まで楫取は小田村素太郎を名のっていた。」と記している。

WIKIPEDIAによると、小田村素太郎が楫取素彦を名乗ったのが慶応3年(1867年)9月との事。その翌年、明治元年(慶応4年)明治天皇が即位し、明治維新となる。三省堂 大辞林:「楫取」には、「かとり 【楫取】:姓氏の一。」、「かじとり(舵取:「かじとり(舵取)」の転。[日葡])」とある。「彦」:男子の美称、才徳のすぐれたひと。水をかいて船を漕ぐ具で、櫂は長い、楫は短いものを意味するとの事だ。小田村素太郎から楫取素彦への改名の正確な由来は知らないが、この激動の時代に身を処す決意を込めた改名(名乗り)に思われる。この時、楫取素彦38歳である。尚、名乗りには、武士が戦場で名や素性を告げる意味があるとの事。名に命と名誉をかけた武士の真剣勝負を思い起こす。

以上のような経緯を見た上で、我々現代人は、楫取素彦が渋川市の御蔭松の碑文に託したメッセージを読み解く以外にないのだろう。今、正に吉田松陰が志した夢は実現し、自分が県令であるこの地の、この御蔭松の下に、皇太后をお迎えできた。松陰が生きていれば...。楫取素彦の碑文は吉田松陰については黙して語らないように見える。それは、高山彦九郎の戒名「松陰以白居士」と同様に永遠の黙示録かも知れない。

渋川市の「御蔭松」と「御蔭松の碑」に出合ったのは2012/3/6の午後であった。前日、雪が降り、翌日その雪が解けて、碑面の苔が濡れていた。その苔を指で撫でて、浮かび上がった幾つかの文字を手帳に書き残しただけだった。改めてその碑の写真を見ると漢文のようである。碑文の解釈や理解はその場では不可能であった。碑文を読めば理解は進むだろう。是非誰かに解読をお願いしたいところだ。WEB上の色々な情報を参照させていただき空想を広げてこの記事を私的メモとして書いた。渋川市の「御蔭松」と「御蔭松の碑」に関してはどこかに正確な記録があるかも知れない。行政上の「御蔭」という住所は既に町村合併等で消滅しているが、「御蔭地区」という、呼び名はまだ残っているようだ。手帳のメモによると碑があるのは、県道南側の小さな公園で御蔭公園とあった。また、ゴミ出し場所のような看板には御蔭自治会とあった。地元では地名の由来も伝承されていると思う。ともかく、地名に「御蔭」が残っているので、歴史を辿ればその由来はある程度解明できるだろう。御蔭公園には、もう一つ、角形のより大きな石碑があった。この碑に、関連の情報が記されていたかもしれないが、確認のゆとりもなかった。更にもう一つ、道路面に向いた石碑らしいものがあった。標識的な石造物かもしれない。高山彦九郎が明治維新のさきがけとなる人物である事には間違いないだろう。平成24年は楫取素彦没後100年、平成25年は高山彦九郎没後220年の節目の年となる。歴史を辿れば、群馬県は高山彦九郎、吉田松陰、楫取素彦という見えない線で結ばれているようだ。伊香保から県道33号線を下り渋川に向かう小さな徒歩の旅で、渋川市の御蔭松と楫取素彦の名が刻まれた石碑に出会い、それをきっかけに始まった歴史上のヴァーチャルの旅が思わぬ方向に進んでしまったが、思い出に残る寄り道になった。

2012年3月22日 (木)

心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(5)

2012/3/22(木)
昨日は晴れ。風が強くスギ花粉が飛んだようだ。ポット苗の除草と灌水。ようやく一巡。マスクをせずに屋外作業をしたので、眼が痒くなり、くしゃみが出た。花粉症の症状だ。蕗の薹が出ていた。一握り収穫。煮込みうどんの上にほぐした蕗の薹をばらまいて食べる。独特な苦みに春を感じる。この苦みは外敵から花を守るためなのかと思う。

2012/3/21(水)の天気

TAVE= 5.9
TMAX= 10.5 最高気温(℃)  11.1  14:55
TMIN= 1.5 最低気温(℃)   1.2  06:12
DIFF= 9
WMAX= 9.5 最大瞬間風速(m/s)  16.6(北西)  09:39
SUNS= 10.5
RAIN= 0

Q
Q

心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(5)

楫取素彦は初代群馬県令を経て、大正元年(1912年)8月14日没(享年83歳)。吉田松陰の夢も明治維新として実現された。吉田松陰は高山彦九郎と同様、生きてその志は果たせなかったが、高山彦九郎生地の群馬県令在職中に、皇太后の群馬県行啓があり、感無量の境地にあったのかも知れない。「御蔭松の碑」に記された群馬縣令楫取素彦という文字には、この「御蔭松の碑」は楫取素彦や吉田松陰の気持を御蔭松に託した後世へのメッセージであると語っているように感じられた。「御蔭松」こそ、「松陰」の名前を密かに盛り込んでいるのではないかと謎のように思われるのだ。楫取素彦がそれ以外の理由でそこに碑を建てる理由があったのか。御蔭松こそ松陰のシンボルに見えるのだ。現在では、高山彦九郎、吉田松陰、楫取素彦も、既に過去の人物になってしまい、ほとんど脚光を浴びていない。

Katori_motohiko_sekihi
楫取素彦の名がある石碑(DSC=2012/3/6)

上毛新聞ニュースは、「;url=http://www.raijin.com/news/a/2012/01/22/news02.htm(更新日時: 2012年1月22日(日) AM 07:11)」というタイトルで、「本県近代化の礎を築きながら、県民にあまり知られていない初代群馬県令、楫取素彦(かとり・もとひこ、1829~1912年)。今年が没後100年となるのを記念して功績を再評価し、顕彰する動きが活発化している。県民有志が近く「楫取素彦顕彰会」を立ち上げ、胸像や足跡を記した顕彰板設置に向けて活動開始。出身地の山口県萩市と友好都市提携している前橋市は、市制施行120周年の一環としてパネル展を計画している。
 楫取は1876(明治9)年に成立した第2次群馬県の初代県令。養蚕・製糸業振興に尽力し、小学校就学率を向上させるなどで本県を全国有数の教育県に押し上げた。廃娼(はいしょう)運動に力を入れたことでも知られている。 こうした功績をより多くの県民に知ってもらおうと有志が顕彰会を発足し、県庁北西の高浜公園に新年度、功績を紹介する顕彰板を建てるほか、胸像を造る募金活動を始める。将来は県庁前や臨江閣など目立つ場所に碑を移設することも検討する。 前橋市は萩市と2002年に友好都市となり、今年で10周年。萩市が9~10月にパネル展を開いた後、前橋市も11月に資料展示を予定している。 前橋市は楫取について「前橋への県庁移転を決定付け、その後の市の発展に大きな影響を与えた。市民にもっと知ってほしい」と期待。萩市は「吉田松陰、高杉晋作に比べると楫取の知名度は低い。前橋市とともに再評価する機運を盛り上げたい」としている。 県議会は新年度、議会棟展示ホールを移設するのに伴い、廃娼運動を推し進めた2代目議長、湯浅治郎とともに楫取の資料も展示する方向で調整している。 楫取に詳しい中村紀雄県議は、楫取の妻の寿(ひさ)と、寿の死後に妻となった美和子がともに楫取と親交が深かった吉田松陰の妹だったことに着目。「松陰と楫取の2人にスポットを当てる企画展などを開けば、観光や地域振興につながるのではないか」と期待する。 県立歴史博物館の学芸員、手島仁さんは「楫取は生涯の中で県令時代が最も輝いていた。功績は語り継がれるべき」と話している。」と報じた。

楫取素彦とゆかりの深い山口県では、昨年の百回忌を迎えて顕彰の動きがあったようだが、群馬県では、最近ようやく、その動きが出てきた段階のようだ。

「幕末掃苔屋」サイトで、加藤健太郎氏は、「楫取素彦夫妻の墓―山口県防府市桑山大楽寺墓地―http://kawachisoutai.chu.jp/tanboko2.html」というタイトルで、以下のように書いている。楫取素彦夫妻や関係者の墓参拝を通して、貴重な見解を述べている。掃苔という活動は、墓の持つ歴史性・人物性・メッセージ性を除去しては成立しないだろうと感じた。以前、歴史人物に興味を持つ人の後について、墓巡りした経験があるが、それに傾倒しなければ長続きはしないと思った。

以下上記よりの引用
*********************************************
「楫取は確かに歴史上の人物ではあるが、我々と歴史の仲介役であると思う。なぜなら、生前の吉田松陰と親密な交流があったことはもとより、松陰の文章が他人の良き教訓となるからと、松陰が生きているうちから世に紹介しようとしたことによる。松陰没後もその遺墨が翻刻されるや序文や解説文を送り、顕彰に余念がなかった。松陰の実兄杉民治と提携して、群馬県令という職務の合間にそのような活動を積極的に行ったのである。これが実に松陰と我々を繋ぐ梯子役になっているという意味で、筆者は楫取を歴史の仲介役と称しているのである。  楫取は激動の幕末にあって、元号が慶応ともなると、松陰のみならず、義弟である久坂玄瑞、実兄松島剛蔵や従兄弟の玉木彦助が戦争や内乱などで相次いで亡くなることに、何処か置き去りにされた観があった。それは次の詩によって心情が読み取れる。

うとまれて物のかずにもあらぬ身を
            うとまぬ人は君ならで誰ぞ

これは「物のかず」の部分が南北朝時代南朝方の楠木正行の詩に

  かへらじとかねて思へば梓弓
            なき数に入る名をぞとどむる

とあるのによく似ている。幕末に相当もてはやされた楠木正成の影響を楫取も例外でなく受けていたように筆者には思われる。  長州藩の尊王攘夷派として決して派手ではないが、楫取も自宅に幽閉される憂き目に遭った。その時、禍を畏れて親類縁者も見舞いをはばかる中にあって、楫取の心が折れなかったのは、妻ヒサの母、即ち松陰の母による「うとまぬ」励ましのおかげであった。そしてその傍らには松陰の講義を親身に聞いていた妹の妻としての支えがあったのである。妻ヒサは、残念ながら明治一四年(1881)一月一三日、帰らぬ人となった。彼女の生涯は、楫取自身が青山霊園の墓碑に「君」として事績を刻んでいる。その後、楫取は松陰の三妹で久坂玄瑞未亡人の文(美和子と改名)を後妻に迎えたことは、松陰一家と楫取の一体感をよく示している。
  楫取は、群馬県令を十数年の長きにわたり勤め、教育や生糸を中心とした産業振興に尽くし、同県の発展の基礎を築いた。その後元老院議官、貴族院議員、宮中顧問官などを歴任し、大正元年(1912)八月一四日、八四歳の天寿を全うしたのである。ちなみに生年は文政一二年三月一五日(1829・4・18)である。」
*********************************************以上引用終わり

上記の加藤健太郎氏の記事を読むと渋川市の御蔭松とそこにある楫取素彦の石碑の謎が少し解けてくるように感じる。同氏は「楫取は確かに歴史上の人物ではあるが、我々と歴史の仲介役であると思う。」と述べている。また、「松陰の実兄杉民治と提携して、群馬県令という職務の合間にそのような活動を積極的に行ったのである。これが実に松陰と我々を繋ぐ梯子役になっているという意味で、筆者は楫取を歴史の仲介役と称しているのである。」とも述べている。渋川市の「御蔭松」と「御蔭松の碑」は、吉田松陰の蔭(かげ:影響、関わり等の総称として)を背負って、日本の近代化に身を投じてきた楫取素彦が、吉田松陰の志を顕彰しようとしているのではないかと感じる。楫取素彦が群馬県で活躍したのが50歳前後で、時代の舵取り役として、最も充実した仕事ができた年齢であったように思われる。そういう意味で、渋川市の「御蔭松」と「御蔭松の碑」は、吉田松陰と強く・太い絆で結ばれ、吉田松陰の志を密かに背負って、日本の近代化に邁進した楫取素彦自身が直接関与して、吉田松陰を顕彰した貴重な歴史資産ではなかと思われる。碑文の全文が読めないのが残念だ。

*************************
追記(2014/2/16): 記事=「心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(5)」が当ブログのランキングに入ったので関連記事を追記しておく。

「0017_「楫取素彦」関係記事(目次)(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/0017_KATORI_MOTOHIKO_KIJI_MOKUJI.html)。」 関連記事へのリンク。

サイト内でキーワード「高山彦九郎OR吉田松陰OR楫取素彦」を検索(https://www.google.com/?hl=ja#hl=ja&q=%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%BD%A6%E4%B9%9D%E9%83%8EOR%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%BE%E9%99%B0OR%E6%A5%AB%E5%8F%96%E7%B4%A0%E5%BD%A6+site%3Ahttp%3A%2F%2Faf06.kazelog.jp%2Fitoshikimono%2F)。

追記2(2014/3/17):
現在ランキング:上位8位。
関連記事(御蔭松とその碑の画像は)は下記に掲載。
「半端道楽:写真で俳句る:渋川の御蔭松には深い謎が?(畏くも 松陰語る 御蔭松。)(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2014/03/post-ed95.html)。(2014年3月16日(日))」

追記3(2014/3/18):
現在ランキング:上位6位。
関連記事(御蔭松とその碑、書き出した碑文は)は下記に掲載。
「心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(7)(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2014/03/post-9850.html)。(2014年3月18日(火) )」

追記(2014/10/2):本記事がランキング10位に入った。NHK大河ドラマ「花燃ゆ」効果なのか。前人気も上昇中のようだ。しかし、よく考えると、受信料を取って公共の電波を使って、大金をかけた娯楽番組を流すのも、勿体ないように感じる。ともかく、一時のフィーバーで歴史が洗い流されるような事態にならないよう願うばかりだ。

WIKIPEDIA「花燃ゆ。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E7%87%83%E3%82%86)」。

自分が、「高山彦九郎」を知ったのは、偶然に高山彦九郎記念館を訪問した事による。ここで、「高山彦九郎の実像 維新を呼んだ 旅の思想家」という冊子を購入した。没後200年を記念して編集されたようだ。

太田市立 高山彦九郎記念館のホームページ:http://www5.wind.ne.jp/hikokuro/

その中に、「(高山)彦九郎 歌と生涯」須永 義夫(歌人)という記事を見付けた。須永義夫氏が主催していた短歌会に母が通っていたので、同氏の歌集が数冊あった。そこで、高山彦九郎の歌を鑑賞してみようという気持ちになった。

サイト内でキーワード「高山彦九郎 歌と生涯」を検索(https://www.google.com/?hl=ja#hl=ja&q=%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%BD%A6%E4%B9%9D%E9%83%8E%E3%80%80%E6%AD%8C%E3%81%A8%E7%94%9F%E6%B6%AF%E3%80%80site:http:%2F%2Faf06.kazelog.jp%2Fitoshikimono%2F)。

サイト内でキーワード「高山彦九郎 AND 吉田松陰 AND 楫取素彦」を検索(https://www.google.com/?hl=ja#hl=ja&q=%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%BD%A6%E4%B9%9D%E9%83%8E%E3%80%80AND%E3%80%80%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%BE%E9%99%B0%E3%80%80AND%E3%80%80%E6%A5%AB%E5%8F%96%E7%B4%A0%E5%BD%A6%E3%80%80+site%3Ahttp%3A%2F%2Faf06.kazelog.jp%2Fitoshikimono%2F)。

これも、偶然だが、楫取素彦の名前が刻まれた記念碑に遭遇した。殖蓮史談会の会長は、高山彦九郎の通った道を探索した事があったそうだ。戦前は、高山彦九郎は地域の偉人として顕彰されたが、戦後は一転して、疎んじられているようだ。

色々な縁で、高山彦九郎、吉田松陰、楫取素彦の関係を調べているが、そこで遭遇した謎が、「御蔭松の碑」ではあった。最近、「楫取素彦伝 -耕堂楫取素彦男爵伝記-」が発行された。この中に、「御蔭松の碑」の碑文も掲載されている。煥乎堂で購入したがまだツンドク状態である。

以下に「御蔭松の碑」の表面に書かれた和歌を上記伝記より以下に引用しておく。崩し文字なので全く読めなかった歌だ。

「芝中ノ松ノヤドリニ千代カケテ残ルハ君ガ御蔭ナリケリ」。

追記(2014/10/3):「御蔭松の碑」周辺MAPを追加。

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