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2012年3月

2012年3月21日 (水)

心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(4)。20120321。

 2012/3/21(水)
昨日は晴れ。最高気温(℃) = 14.2  14:24となり、穏やかで暖かい日であった。墓参。花は周辺に咲いている水仙、菜の花、ハナダイコンを摘んで供えた。今年の寒波で枯れた蜜柑樹の手入れをした。枯葉や枯れ枝を除去。新しい目を出して復活して欲しいところだ。丸ごと枯れた蜜柑樹も多い。枯れ方のひどい蜜柑樹はやはり、寒風を受けたり、実を付けたまま放置した株が多い。植物も外部からのストレスと内部からのストレスが生死に関係するようだ。今年は特記すべき寒さのようだ。梅園の観光客にも影響が多いらしい。

2012/3/20(火)の天気

TAVE= 6.7  
TMAX= 13 最高気温(℃)  14.2  14:24
TMIN= 0.3 最低気温(℃)   -0.2  06:15
DIFF= 12.7  
WMAX= 6.7 最大瞬間風速(m/s)  12.9(西北西)  22:25
SUNS= 11  
RAIN= 0  

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心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(4)

高山彦九郎の戒名の解釈で、前回『高山彦九郎の心の叫び「~以て、自分は潔白であると申す」という意味にとれるのではないか。謎は、「~以て」の部分だろう。』と書いた。戒名「以白」には謎が多い。しかし、「以白」の部分が別の名前であった場合、吉田寅次郎がどれほど、「松陰」という名前に共鳴したか分からない。この部分に、吉田寅次郎が自分の運命を重ねる事ができたから、高山彦九郎への共感が高まったのではないか。以上は「以」の扱いが中途半端かもしれない。「松陰」と「以白」を別々に解釈する事も可能だろうし、「松陰」と「以白」を関連づけて「松陰を以て自ら潔白を申す」ともとれるし、「以」を「~して、~にして」と接続詞のようにもとれそうだ。その場合「松陰にして、あきらか」というような常識的な解釈も可能だろう。通称吉田寅次郎が吉田松陰を名乗る事になった真の理由は、今となっては知る由もないのかもしれない。

広辞苑によると「御蔭」には、「太陽を避けて、蔭となる所、殿舎の意味と恩恵の尊敬語という意味がある。「御蔭松」とは、「太陽を避けて、蔭となる松の木で、殿舎の代用」という意味になるだろう。渋川市の「御蔭松の碑」は皇太后が伊香保に向かう途中休憩された松とその事跡記念するために建立されたものと思われる。楫取素彦が作成した碑文の解明が待たれる。
Mikage_matu
渋川市の御蔭松(DSC=2012/3/6)

伊香保凌雲閣 ホームページには、「凌雲閣 当館の由来;url=http://www.ikaho-ryounkaku.com/onsen.stm」というタイトルで、「この伊香保の地に、明治12年7月、明治天皇の御母君にあせられる英照皇太后陛下(考明天皇の皇后)が親しく行啓せられました。この行啓は、伊香保が保養地として全国から注目されるようになり、皇族として最初のことであり歴史的な出来事でありました。当時を物語る記録では、行啓は、大夫・書記官・侍医等150名からなる従官を伴って御馬車に乗り、途中大宮・熊谷・高崎に泊まり、山道に入ってからは御興しに乗り換えこの地に辿り着いたと言われ、陛下の御座所にこの「楽山館」を当て、他は隣接6件の館を当て、7月17日から8月2日まで滞在したとのことであります。 こうしたことから現凌雲閣の位置は、歴史に残る由緒ある場所であります。」とう記事がある。この記事の内容は、「御蔭松の碑」と対応するようだ。皇太后の行啓が7月とすれば、その暑さは推測ができる。途中の休憩に松陰が使われてたという事は、行程に人家もなく、当時の旅の事情が推察される。

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追記(2014/3/27): 現在ランキング10位に、「心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(4)(2012/3/21(水))」の記事が入った。一応、その事実だけでも記録に残して起きたい。実は、この「松陰」というキーワードを通して、高山彦九郎、吉田松陰、楫取素彦、さらには地元の先覚者川端宇兵衛をつなぐ何かを探っているのだが、自分が自由にイメージを膨らませるだけの自由度があるのだろう。最近、「心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(7)(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2014/03/post-9850.html)。(2014年3月18日(火) )」を書いたが、謎はまだ謎のままだ。

昔の人名に関しては、出世魚の鰤のように、いくつもの名前を持つ人物が多かった。こういう複数の自称を許す社会だから、いろいろな人物が生まれたのかもしれない。人は自分を名乗る事によって生まれ変わるのではないか。現代では、人名は完全に個人特定ツールに成り下がって、国家に従属している。傑作な人物が出ない理由かもしれない。

高山彦九郎は自分から、院号を「松陰以白居士」と名乗った訳ではなさそうだが、高山彦九郎の自刃を受けて、この院号を高山彦九郎に授けた僧(誰かは知らないが)もまた、歴史を見抜いていた人物だったように感じる。「松」は文法的には名詞だが、その植物の性質からいろいろな象徴的な意味を持つ。「陰」は光とそれを遮る障害物があって初めて現れる現象で、もの自体ではない。象徴性は松以上に広く深い。そのような二つの漢字を合体させて、「松陰」を「以て、白す」と高山彦九郎の生涯と事績を見事一つの戒名にまとめた。

吉田寅次郎は、「松陰以白居士」という戒名から、100万ボルト以上の衝撃を受けたのではないか。吉田寅次郎が吉田松陰を名乗る事により、どれほどの変化が起きたのか。それは歴史が語るだけだろう。これは、車寅次郎では起こりえなかった事かもしれない。

自分の人生で、楫取素彦という人名を知ったのはつい数年前だった。調べてみると、本ブログで楫取素彦が最初に出てくるのが「読みかじりの記:帝王学 「貞観政要」の読み方 山本七平 著 (1983年 日本経済新聞社)(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2011/07/1983-5736.html)。(2011/7/21)」であった。その翌年3月に何かの縁で、渋川市の御蔭松に遭遇する。そこに立っている、御蔭松の碑の撰文と書を楫取素彦がしているので、御蔭松は、その裏に松陰が潜んでいるのではないかと妄想するようになった。この「草冠のある陰」もまた象徴性が強い。この妄想の効果を、最高に享受するには、「松陰以白」というキーワードだと思うが、今ひとつ切り札不足だ。「白」は動詞にとる。電子辞書の漢字源によれば、「申す」に通じる。Google翻訳で「以」は英語で「With」になった。「白」は英語で「White」になったがまだ不十分。「字源」によれば「申す」で建白、敬白の例がある。

高山彦九郎が何故自刃したかを語るような院号にしたら、自刃に追い込まれる人物が続々出るのではないかという、配慮もこの院号には込められているのではないか。それを読んで理解できる人が理解した通りに受け取れば良い。吉田寅次郎は「松陰以白」という暗号めいた院号から一瞬にしてその意味を悟った。楫取素彦は当然、義兄吉田松陰の名前が、高山彦九郎の「松陰以白」から出ていることを知っているだろう。それでは、楫取素彦は「御蔭松」という暗号をどのように解いたか。この愚問にも正解はないかも知れない。

御蔭松の碑の表は「御蔭松」という碑題が書かれている。その碑の裏側(碑陰)にこそ楫取素彦が撰んだ碑文がある。多分、義兄吉田松陰の御蔭で、現在があるのだという雰囲気を感じるのが、現在では精一杯なのだが。

WIKIPEDIA「吉田松陰(生涯)。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%BE%E9%99%B0#.E7.94.9F.E6.B6.AF)」

そういえば、高山彦九郎も吉田松陰も、その志を遂げずに無残に果てたが、その志が順次志士達に引き継がれて、理想が実現されて行く。このような歴日本の中に、「松陰以白」という一つの旋律が流れているようにも感じる。「松」とは歴史の主体であり、「陰」とは歴史の主体が作る影即ち歴史状況そのもの。楫取素彦は御蔭松を松陰の如く見ていたのかもしれない。その歴史ドラマと共に。

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追記1(2015/1/13):「心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(4)」の記事がランキング3位に入った。NHK大河ドラマ「花燃ゆ」効果かも知れない。歴代大河ドラマの視聴率調査を比較すると低調な出だしのようだ。NHKは当然、制作企画を立てて放映していると思うが、全然別の見方もできるのかも知れない。かみさんに気兼ねして濡れ落ち葉的付き合いで見ているが、どうも味付けが甘すぎるように感じる。今は故人となった歴史愛好家が、俺は家族をほっぽり出して諸国を歩いた高山彦九郎は嫌いだと言った事を今も覚えている。高山彦九郎と吉田松陰の行動パターンにどこか似た所があるように感じている。

「身辺雑記・田舎老人徒然草:太田の高山神社と高山彦九郎遺髪塚で出会った紋章は?;嘘始め 元旦と書く 年賀状。 (http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2015/01/post-0e28.html)。(2015年1月 4日 (日))」

「09D1_群馬県令楫取素彦がつなぐ吉田松陰と高山彦九郎(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/09D1_KATORI_MOTOHIKO_CTNG_SYOIN_AND_HIKOKUROU.html)。」

「09D2 初代群馬県令 楫取素彦 没後100年記念(2012年)(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/09d2_KATORI_MOTOHIKO_MEMORIAL.html)。」

県庁近くの公園にあった、楫取素彦の記念碑が最近移設されたようだ(http://www.oknst.jp/2014/11/17/%EF%BD%8E%EF%BD%88%EF%BD%8B%E5%A4%A7%E6%B2%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E-%E8%8A%B1%E7%87%83%E3%82%86-%E6%A5%AB%E5%8F%96%E7%B4%A0%E5%BD%A6%E7%A7%98%E8%B7%A1%E7%A7%BB%E8%A8%AD%E5%B7%A5%E4%BA%8B/)。

萩市から贈られた、ナツミカンの木も移植されたようだ。参考に高浜公園に植えられていた時の画像を掲載しておく。

Iob_natumikantakahamap 

追記2(2015/2/22):「心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(4)」の記事がランキング10位に入った。当BLOGで楫取素彦を取り上げているのは「花燃ゆ」以外の関心がある事による。そこに登場するのが、高山彦九郎だ。

キーワード「高山彦九郎」でGoogleサイト内検索(https://www.google.co.jp/webhp?tab=ww#q=%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%BD%A6%E4%B9%9D%E9%83%8E%E3%80%80site:http:%2F%2Faf06.kazelog.jp%2F)。

高山彦九郎は戦前には、持て囃されたようだ。戦後は、その反動なのか無視されているようにも感じる。吉田松陰が高山彦九郎からどのような影響を受けたのか、歴史家も余り関心を示していないようだ。関心があっても、つきつめると何かを感じてしまうのか。

吉田松陰と二宮尊徳に関して、教科書的には二宮尊徳が無難なようだ。今後、国定道徳教科書で、吉田松陰を教えるようになるのだろうか。

「読みかじりの記:二宮尊徳の仕法と仕分(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2010/11/post-37c9.html)。(2010年11月 5日 (金))」

追記3(2015/5/28):

Iob_natumikanmaebaship 萩市から贈られたナツミカンの株。かなり幹も太ってきたようだ。2013年の画像でも結実しているので、こちらの方が陽当たりも良いので、今後も実が楽しめそうだ。

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追記(2023/09/15):タイトルの後に投稿期日を追加。本日のランキングは5位。楫取素彦に関して渋川市の御蔭松は素晴らしい素材だと感じて色々な記事を書いたのを思い出す。明治維新とは、吉田松陰とはと色々考えたが、未だ十分咀嚼出来ていない。自分が開いた記事でもランキングが変動するが、読者がいてランキングに入ったのは確かなようだ。少ないながら読者はいるようだ。読者に感謝。

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2012年3月20日 (火)

心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(3)

2012/3/20(火)
昨日は晴れ。早朝大風:最大瞬間風速(m/s)  17.2(北西)  04:20。まだ寒い。ポット苗の除草と灌水。知人がまた、件のノートパソコンを持ってきた。DOSの一太郎が立ち上がってうれしいらしい。次は富士通のワープロファイルをテキストファイルに変換したいらしい。「どすこい」というソフトを持ってきたがDUAL FLOPPY対応らしくお手上げ。ファイル操作もファイルの場所も分からないらしいので付き合いきれない。昔、懐かしいFDというファイルマネジャーがインストールしてあったので、それを起動する、たった2行のバッチファイルを作って渡した。これだけでも頭がくらくら。キー配列が違い、リセットの方法が分からないのでイライラ。携帯のマイクロSDカードからDSCデータを取り出した。ついでに、青空文庫の銀河鉄道の夜100K程度のファイルを11分割して入れた。ファイルが大きいと重すぎて動きが鈍い。暇つぶしの時間に読むため。スマホならラクチンかも。

2012/3/19(月)の天気

TAVE= 6.2
TMAX= 8.8 最高気温(℃)   10.1  00:13
TMIN= 2.6 最低気温(℃)   2.6  24:00
DIFF= 6.2
WMAX= 11 最大瞬間風速(m/s)  17.2(北西)  04:20
SUNS= 10.2
RAIN= 0

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心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(3)

もう一度、戒名の構成に立ち返ると、広義の戒名は、「院号」+「道号」+「戒名」+「位号」という僅かな文字数でその人物が生まれて死ぬまでのドラマを語っているように思われる。「白」は白黒という色。黒は光を吸収するが、白は光を反射する。これから、「しらむ」、「しろくなる」、「夜が明ける」の意味になり、更に「いさぎよい(潔白)」、「あきらか(明白)」と自然現象から人事現象に意味を広げている。それが更に意味を転じて、「もうす(敬白、建白)」につながる。従って、「以白」の「白」も多義的であり、高山彦九郎の心の叫び「~以て、自分は潔白であると申す」という意味にとれるのではないか。謎は、「~以て」の部分だろう。高山彦九郎の自刃から戒名の授かるまでの流れから「~」は自刃ともとれる。狭義の戒名「以白」は正に、高山彦九郎の人生の総仕上げのドラマを漢字二語に集約しているようだ。道号の「松陰」は正に、高山彦九郎が生前辿ってきた数々のドラマを漢字二語に集約しているようだ。

自分が高山彦九郎に興味を持つのは、その時代の閉塞感を感じ取り、それをあるべき方向に正そうとして、旅を続け、人と知識のネットワークを広げた先覚者の姿をそこに見るからだ。このような、行動のパターンは郷土の指導者川端宇兵衛にも共通に見られるのだ。高山彦九郎が東北の旅で何を見たか、歌人須永義夫は「高山彦九郎 歌と生涯」でそれを解説している。幕藩体制が弱体化して、地方が疲弊し、困民救済という重い課題に気付き、その旅で新しい時代の実現を胸に刻んだのではないか。奇しくも、吉田寅次郎も嘉永4(1851、松陰21歳)年、東北の旅に出て、水戸の会沢正志斎を訪問して、彦九郎の存在知ったとされる。この時、またはその前後に高山彦九郎の戒名「松陰以白居士」を知り、その意味を一瞬に覚ったのではないか。吉田松陰が刑死したのが安政6(1859)年、享年29歳。高山彦九郎が「松陰以白居士」として発信していたメッセージを正確に受け止め、それを骨肉としたのが吉田松陰ではなかった。それにしても、吉田松陰が吉田松陰という名前で活躍した期間は10年足らずのようで、改めて激動の時代を生きていた姿を見る思いがする。

2012年3月19日 (月)

心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(2)

2012/3/19(月)
昨日は曇り一時雨。平均温度は高くなっているが体感的には寒い日だった。町内行事。夜、知人が98ノートを持って遊びに来た。カラーノートパソコンの初期の製品らしくHDDは100M以下でOSはDOS。CPUはインテルの486クラスのようだ。一太郎V6程度が起動して感激していた。当時は自動車一台分位高価だったとか。自分はデスクトップはエプソンの98互換機を使っていた。自宅で仕事をするためNECのモノクロPC98ノートに外付けHDDをつないで使った。主に使ったソフトはマイクロソフトのワークスだった。その後はDOS/Vの自作機を主に使った。CPUは安価なインテル互換のサイリックス製を使った。古いパソコンを引っぱり出して使ってみるのも遊びとしては面白そうだ。

2012/3/18(日)の天気

TAVE= 8.3
TMAX= 10.3 最高気温(℃)   10.5  13:15
TMIN= 3.8 最低気温(℃)   3.6  05:07
DIFF= 6.5
WMAX= 4 最大瞬間風速(m/s)  7.9(西北西)  23:58
SUNS= 0
RAIN= 1

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心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(2)

高山彦九郎については、伊勢崎の歌人須永義夫の「高山彦九郎 歌と生涯」という著作を読んでそれを記事にした事がある。その最終回が、「読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(14)http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2010/12/post-64fd.html」である。高山彦九郎の辞世の歌は、

■枯れ果てて身は土となり墓なくも 心は国を守らむものを
■松崎の駅(うまや)の長に問ひて知れ 心づくしの旅のあらまし

須永義夫は、「二首目は前年五月に『酌みかはす今日の別れの盃のめぐるがごとにまたも相見む』と歌って別れた碩学の友、赤崎貞幹と再び会い、そして最後の別れとなった歌である。」とその背景を解説している、調べてみると松崎の駅(うまや)とは、筑後松崎宿の事のようだ。筑後松崎のホームページに筑後松崎宿への歴史上の来訪人物が紹介されているhttp://matuzaki.orz.ne.jp/yado.files/06main.htm。。高山彦九郎は「寛政5年(1793)6月13日、死の2週間前に松崎宿の旅籠柳川屋に来ている。http://matuzaki.orz.ne.jp/turu_siryo/matu_isin.html」との事だ。改めて、辞世の第二首目を読んでみると、旅に生きた思想家高山彦九郎は、その最後の旅の目的を、あえて残さないと述べているかのような印象を受ける。自刃の意味も語られていない。見方によれば、それは高山彦九郎の自刃の影響力を最大かつ最長に保つ唯一残された方法であったようにも思われる。高山彦九郎の自刃の衝撃は、高山彦九郎の周辺から、徐々に広く深く伝わったのではないだろうか。

吉田松陰に関しては、キーワードの「松」のイメージが強い。「松下村塾 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%B8%8B%E6%9D%91%E5%A1%BE」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。(最終更新 2012年2月13日 (月) 07:54 )(http://ja.wikipedia.org/)の一部引用=「松下村塾(しょうかそんじゅく)は、江戸時代末期(幕末)に長州藩士の吉田松陰が講義した私塾である。長州萩城下の松本村(現在の山口県萩市)に、松陰の叔父である玉木文之進が1842年(天保13年)に設立し、松陰も学んでいる。」。「松下村塾」の「松下」も、「松本村」の「松本」も意味としては極めて近いと感じる。吉田松陰の名前は、幼名:虎之助→吉田家に養子入り後:大次郎→通称:寅次郎と変わっている。名前を変える毎に、自己のアイデンティティも形成されてきたのではないか。一方、「字源(大正12年初版)」によれば、「松:まつの木の長寿にして歳寒にも色を変えへざるより、節操・長寿などの譬に用いふ。」とある。松竹梅も冬の寒さに耐える姿から目出度い意味を持つようになっている。松竹梅=「松竹梅:【意味】 松竹梅とは、松と竹と梅。めでたいものとして祝い事の景物などに使われる。品物などを三階級に分けた際の等級の呼称。一般的には松が一番で竹、梅の順となる。url=http://gogen-allguide.com/si/syouchikubai.html」。

吉田松陰は「松陰」という号を、高山彦九郎の戒名「松陰以白居士」よりとっているという説がある(太田市立 高山彦九郎記念館 http://www5.wind.ne.jp/hikokuro/8sho-tenmatu.htm)。そこには、『嘉永4年(1851)江戸遊学中の長州藩吉田松陰は水戸の会沢常蔵(正志斎)が著した「高山彦九郎伝」で彦九郎の存在を知り、「武士たるものの亀鑑このことと存じ奉り候」と兄に書き送っています。松陰はその後も彦九郎への思索を深めていきます。松陰の辞世「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置きまし大和魂」と、彦九郎の辞世「朽ち果てて身は土となり墓なくも心は国を守らんものを」との呼応は彦九郎の影響が大きかったことを物語っています。また、吉田松陰の号の由来はこれまで「出典不明」とされ、松陰の出生地松本村にちなんでいるとの説が示されてきましたが、彦九郎の諡(おくりな)の「松陰以白居士」との関連が指摘できます。』と記されている。同サイトには、「幕末の志士に高山彦九郎が与えた影響http://www5.wind.ne.jp/hikokuro/ataetaeikyou.htm」」の中に、高山彦九郎自刃後の様子は、『寛政5年、1793年:6月27日、高山彦九郎は筑後国久留米城下、森嘉膳宅で謎の自刃、28日朝8時過ぎ没する。6月29日、高山彦九郎の遺骸を森嘉膳の宅庭に仮埋葬する。8月29日、自刃した家の主人森嘉膳から唐崎士愛宛ての返事の手紙に高山彦九郎の戒名について回答している。11月11日、彦九郎の遺骸を高山家と同宗旨の真言宗寺院、寺町の遍照院内に改葬する。戒名は「松陰以白居士」』と記されている。

調べると、真言宗の戒名は戒名(広義)=道号2字+戒名2字(狭義)+位号2字との事。高山彦九郎の場合、位号の「居士」は、広辞苑の「学徳が高くて仕官しない人。」という、原義がぴったりあてはまるように感じる。それでは、「松陰以白」が伝えようとしているメッセージは何か。これは、道号=松陰と戒名=以白に分解されるだろう。「字源」には、「松影=ショウエイ(まつのかげ)」、「松下=ショウカ(松の木のした)」という類語がある。従って、「松陰=ショウイン(松の木の木陰)」と解釈できる。更に詳しくは、松の木が投影された形のある影ではなく、松の木に覆われた形のない日陰が「松陰」の意味だろう。和英・英和辞典で調べると「陰=shade」、「影=light 、reflection」で、「陰」には光の量は少なく色も形も定かでないが、「影」には光の量は多く、色も形もあるとみなせる。ところで、道号は仏道に入った後の号との事だ。戒名は、本来は受戒の際に与えられる名前だが、後に死者に与えられるようになった。高山彦九郎の場合の戒名「松陰以白」、まさに、辞世の歌「松崎の駅(うまや)の長に問ひて知れ 心づくしの旅のあらまし」を受けて与えられたように感じられる。

WEB上で遍照院のイメージを検索すると、その庭園や境内には松の木らしい木が見える。高山彦九郎記念館サイトの記事から、高山彦九郎関係者で、戒名の相談や確認があった事が想像される。寛政5(1793)年、高山彦九郎自刃享年47歳。高山彦九郎の志操の高さを松の古木に喩えたのではないか。広辞苑によると、「陰」には、「物の後の、暗いまたは隠れた所、それから転じて、『他の者をおおうように及ぶ、その恩恵・庇護』」という意味があり、その時は「陰」「蔭」を使うとある。高山彦九郎が自刃で、後世に伝えようとしたメッセージがこの「松陰」という戒名に込められているように感じる。それでは「以白」の意味は?ここで、また思考が止まった。

2012年3月18日 (日)

心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(1)

2012/3/18(日)
昨日は曇り一時雨。用事外出。ミニスイセン、ヒヤシンス、小梅、紅梅が一斉に咲き出していた。自分の花暦には、梅の花:2月11~15日とあった。ミニスイセンは3月6~10日であった。早咲きの梅の開花はかなり遅く、ミニスイセンも一週間以上遅れているようだ。以前一人で県道33号線を下った時、色々な歴史的な遺産にであった。そのなかで、渋川市の御蔭松は印象に残っているが、まだその謎が解けない。いつの間にか忘れてしまいそうだ。ともかく、自分の想像としてメモにしてみた。

2012/3/17(土)の天気

TAVE= 6.7
TMAX= 10.2 最高気温(℃)   10.8  15:39
TMIN= 3.6 最低気温(℃)  3.4  01:25
DIFF= 6.6
WMAX= 3.2 最大瞬間風速(m/s)   6.4(西北西)  11:45
SUNS= 0.2
RAIN= 0.5

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心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(1)

歴史上の人物は何か見えない線で結ばれているのではないかと感じる事がある。それも、確実性より予感、希望にすぎない場合もあるだろう。人間の思考や行動も、ある人物からある人物に伝えられる何物かが影響しているのではないか。すでに過去となってしまった歴史的な事実に関して、その真偽を証明する事は非常に難しいだろう。歴史の楽しさは真偽とは別に空想や思い込みにもあるのではないか。それは一つの仮説といってよいのかも知れない。吉田松陰と高山彦九郎も深い関係がある。当地の八幡沼開鑿の指導者川端宇兵衛も、新井雀里等を介して高山彦九郎に繋がる線があるように感じている。

先日、伊香保から渋川に向かって県道33号線を下った。伊香保町から旧渋川市に入った頃か、県道南側に小さな公園があった。ゴミ出し場所のような看板とトイレらしい家屋があって、何となく通り過ぎようとしていたが、碑のような物が目に入ったのでふらりと中に入った。碑は2~3基あって、どうも「御蔭松」に関するものらしかった。よく見ると、松の大木の幹の下方だろうか、屋根のある建物の中に保存されていた。やや丸みをおびた碑の後面を見ると、何と「明治十二年 九月 群馬縣令 楫取素彦 撰並書」と刻まれていた。残念ながら、碑文の内容はよく分からない。どうも、皇太后が伊香保に向かう途中、この松の木の下で休憩をとられたことを記念している碑のようだ。WEB情報では楫取素彦を顕彰した碑は存在するようだが、楫取素彦が直接関与した碑の存在は未だ見ていない。楫取素彦はこの碑で、何を後世に残そうとしたのか。それが、謎のように頭の隅にあった。

吉田松陰と楫取素彦の関係も並々ならぬものがある。WEB情報では、楫取素彦は吉田松陰の妹を妻に迎え、義弟と述べられているが、年齢を調べてみると、楫取素彦は吉田松陰より一年長じている。昔のこと、長幼の序は、今より人間関係に重くのしかかっていたのではないか。それなのに、楫取素彦は吉田松陰に兄事しているように感じる。楫取素彦は、明治9年(1876年)の熊谷県改変に伴って新設された群馬県令となり群馬県と関係が生まれた。「御蔭松」の碑は明治12年。吉田松陰没後20年の時だ。この時、楫取素彦は50歳。吉田松陰が29歳で斬刑に処されなければ、49歳の吉田松陰が生きていたはずだ。楫取素彦は生涯、吉田松陰と心の中で深く・強く結ばれていたのではないかと思う。そうであれば、吉田松陰が私淑した高山彦九郎の戒名を引き継ぎ、自ら自分の号として「松陰」を名乗った事も、楫取素彦が高山彦九郎生誕地である群馬県の初代県令として赴任してきた事も因縁浅からぬものがあるように感じるのである。

それでは、楫取素彦と「御蔭松」の関係は? 直感的だが、「蔭松」と「松蔭」と「松陰」はその意味において、全く同じだと感じた。この碑には、楫取素彦の吉田松陰に対する思いがこめられているのではないかと思った。なぜ、「御蔭」という場所に、楫取素彦撰並書の「御蔭松」の碑があるのか。大きな謎に突き当たった。

更に、県道を下ると、庭掃きしている年輩の男性がいたので、「御蔭」という地名には何かいわれがあるのですかと尋ねた。実は、自分は何十年かここで暮らしているが、この地の生まれでないので、地元の歴史は詳しくは分からない。長老に聞けば分かるかもしれないという事だった。その男性は、渋川の歴史の本も持っているので、後で調べてみたいとも話した。いつ頃か忘れたが、昔はここから、あそこま辺までの人家の数はたった30戸程度だった話してくれて、郷土史も勉強しているようであった。軽率なことは話したくないという様子も窺えた。携帯のデジカメで碑を写したがそのデータはまだ取り出していない。今年、楫取素彦没後百年になるので、この碑の存在と由来が解明されれば意義深いと思われる。楫取素彦という人物は未だ十分評価されていないようだが、吉田松陰と重ねて見ると興味深い。

2012年3月17日 (土)

ざっそう句:墓掃除

2012/3/17(土)
昨日は晴れ。春霞がかかったようだった。墓の掃除。最近は葬儀や墓についても色々な考えが出てきている。その究極に葬儀も墓も無用という意見がある。見方を変えれば、葬儀や墓も一種のメッセージだ。それが、世代を越えて、後世に何を語りかけてくれるか。並んだ墓石を比較すると、似ているようだが、少しの違いはある。誰の墓を誰が建てたのか等、墓石を読み始めると掃除もはかどらない。同じ墓掃除に来た人と挨拶を交わす。子供の頃は、墓地には雑木が繁り、薄暗かった。土葬の土饅頭を見ると、子供には墓は怖いところだった。平成以後は墓地の様子も様変わりしてきた。外国産の石材を使いピカピカ輝いている。

2012/3/16(金)の天気

TAVE= 5.7
TMAX= 11.1 最高気温(℃)   11.9  15:091
TMIN= -0.3 最低気温(℃)  -0.7  06:09
DIFF= 11.4
WMAX= 5.4 最大瞬間風速(m/s)   9.8(北西)  08:40
SUNS= 10.7
RAIN= 0

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ざっそう句:墓掃除

昔の墓石を見ていると、どうも高級な石材を調達するのが不可能だったようだ。凹凸のある石面に刻んだ名前も風化を受けて消えているのもある。嬰児の墓は更に小さく貧相だ。でも、そのようにして、死者を弔った形見であることには変わりがない。

■墓掃除墓石と語る馬鹿な事
■いにしえの 壊れ墓石は 墓の隅
■丸石の 墓のしるしに 人の情
■人の名の 消えて墓石は ただの石
■ただの石 人の名刻む 人の恩

2012年3月16日 (金)

技術 回顧と展望:「知の信頼性」はどこへ向かうか

2012/3/16(金)
昨日は晴れ。最大瞬間風速(m/s) =18.3(北北西) /14:36と強風が吹いた。町内行事。その後は宅内。ハナダイコンの花が一本だけ咲き始めた。開花時期も、条件によりばらつきが出る。以前、花暦として、周辺の花の開花を調べた事がある。3月6~10日:ぼけ、すいせん、ほお、こぶし、ミニスイセン等が咲いていた。これらの花は、今年はまだ見ていない。暖かくなると一斉に咲き出すのではないか。

2012/3/15(木)の天気

TAVE= 4.8
TMAX= 9.5 最高気温(℃)   10.1  11:11
TMIN= 0.1 最低気温(℃)  -0.1  06:09
DIFF= 9.4
WMAX= 9.2 最大瞬間風速(m/s)   18.3(北北西)  14:36
SUNS= 10.7
RAIN= 0

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技術 回顧と展望:「知の信頼性」はどこへ向かうか

少年時代から青年時代にかけて百科事典にあこがれを持っていた。学校教育では得られない知識がそこにあると思っていた。分厚く何巻もある百科事典は値段も高く、個人で持つのも不可能だった。本を読んでいると、百科事典の事が出てくることがあり、知識欲を刺激された。日本の百科事典では、平凡社のものが有名で、その創業者である下中弥三郎に関心を持ったことがある。

「下中弥三郎;。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E4%B8%AD%E5%BC%A5%E4%B8%89%E9%83%8E。」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。(最終更新 2011年3月23日 (水) 08:11 )(http://ja.wikipedia.org/)の一部引用=「下中 弥三郎(しもなか やさぶろう、1878年6月12日 - 1961年2月21日)は、平凡社の創業者、教員組合の創始者、また労働運動や農民運動の指導者。下中芳岳ともいう。1878年6月12日、兵庫県多紀郡今田村に生まれ、幼くして父を亡くし陶工となる。1898年、神戸市雲中小学校の代用教員となり、小学校準教員検定試験に合格。~学習権、教育委員会制度、教員組合結成の促進を要求した「教育改造の四綱領」を発表。1923年、「教育の世紀社」を創立。1924年、「児童の村小学校」の設立に協力する。その間、1914年には『ポケット顧問 や、此は便利だ』を発売するために平凡社を創設、1931年 - 1935年には『大百科事典』を出版して一躍「事典」出版社として著名になる。~敗戦後、公職追放。1951年、追放解除とともに再び平凡社社長に復帰。1955年、世界平和アピール七人委員会を結成。1955年 - 1959年、『世界大百科事典』を出版。1957年、日本書籍出版協会初代会長。晩年は平和運動や世界連邦運動を推進した。1961年2月21日没。享年82。」。

百科事典は知の集大成であり、物事の道理を理解するためには不可欠なものでもある。フランスの百科全書派:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E7%A7%91%E5%85%A8%E6%9B%B8%E6%B4%BEは、フランスの近代化に大きく貢献したようだ。平凡社の百科事典も、このような歴史の流れの中で発刊されたのだろう。社会人になり、何とか金の工面ができたので、平凡社の百科事典を分割払いで購入した。余り、活用した記憶はないが、必要ならいつでも調べ事ができるという安心感はあった。

asahi.comは、「ブリタニカ百科事典、書籍版244年で幕;url=http://www.asahi.com/culture/update/0315/TKY201203150137.html(2012年3月15日22時2分)」というタイトルで、「英語の代表的な百科事典で244年間にわたって出版されてきた「ブリタニカ百科事典」の書籍版が、姿を消すことになった。今後は電子版だけになる。発行会社が14日発表した。最近は電子辞書の普及や、インターネットの無料百科事典の台頭で、売れ行きが急速に落ちていた。 ブリタニカ百科事典は1768年に英国のスコットランドで発行が始まり、現在は本社を米国に移している。2010年に出版された書籍版の最新版は約4千人が執筆に加わり、全32巻。 かつては学校や図書館の必需品で、自宅で所有する人も多かったが、最新版は1395ドル(約11万7千円)という値段や約58.5キロの重量が原因で敬遠され、売れたのは約8500部。ピーク時の1990年の15分の1程度に減っていた。 」と報じた。

百科事典の書籍版が消えて行くのも時代の趨勢のようにも思う。手持ちの、カシオの電子辞書を調べるとブリタニカ百科事典が入っていた。それを使って、「ブリタニカ百科事典」を調べてみると、1768年初版:分冊形態、1871年3巻、1777~1784年第二版10巻、第三版1788~1797年18巻、第四版1810年20巻、~第十一版1910~1911年29巻、第十五版改訂版1985年32巻、1994年よりインターネット上のオンラインサービス開始とある。知識が巨大化して、電子化に向かう動きをブリタニカもとっていたようだ。数十巻の百科事典が電卓一つの中に収まってしまうのが現代だが、それを使い切れないのも現代だ。

市販の百科事典は、その分野の多数の専門家が実名で執筆しているので信頼性が高いという説を聞いたことがある。そう言われれば、フリーのWIKIPEDIA等は執筆者は匿名である。WIKIPEDIA等でも内容の信頼性向上に努めているようだ。基本的にはボランティアが無償でそのようなプロジェクトを通して貢献している。IT技術で、情報の量とスピードは飛躍的に向上した。しかし、情報の質はどうなのか。知識は情報とも異なる。知識は単なる情報の集積ではない。それなりに、洗濯・フィルタリングしてより精度と品質を向上させ、価値を高めた情報が知識になる条件だろう。今必要なのは知識なのか情報なのか。福島原発事故後の一年を振り返ると、「知の信頼性」も気にかかる。

2012年3月15日 (木)

老人の寝言:Googleのプライバシー ポリシーの変更と利用の悩み

2012/3/15(木)
昨日は晴れ。穏やかな天気で青空が見えた。用事外出。用事が済んでタウンウォチング。@50円の本があった。投げ売りに近い値段だ。かみさんに叱られそうだが、つい買ってしまった。読書人口が減っているのか、新本も古本も売場面積は減少し、DVD、CD、更には文具、雑貨、菓子類等が、そのスペースを埋めて行く傾向があるようだ。読書は情報を主体的に入手しようという行為であり、それなりのエネルギーが必要だ。それに比べると電子メディアを通した情報入手は便利で、肉体的、精神的のエネルギーも含むエネルギーは少なくて済む。情報を受けるという感じになり、受動的になってしまう。そんな状況なので、古書店で高校生や若い人が、コミックを立ち読みしているのを見ると貴重な人間に見える。コミックといえば、自分の小学生時代も漫画本を盛んに読んでいた。学校の帰り道は、漫画本を読みながら帰った。その姿を親が見ていたのか、なんでクスクス笑っているのか、仕方がないと言われた事を思い出す。交通事故の心配もなく、のどかな時代だった。

2012/3/14(水)の天気

TAVE= 5.2
TMAX= 10.7 最高気温(℃)   11.6  15:05
TMIN= -0.2 最低気温(℃)  -0.4  06:24
DIFF= 10.9
WMAX= 3.3 最大瞬間風速(m/s)   7.0(南南東)  16:18
SUNS= 10.5
RAIN= 0

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老人の寝言:Googleのプライバシー ポリシーの変更と利用の悩み

GoogleはIT時代の申し子のようで、巨大になるとともにその影響も大きくなった。Googleの収益の源泉は広告にあるようだ。従来の広告業は新聞、テレビ、ラジオ等旧メディアを媒体として使ってきた。Googleのビジネスモデルは、インターネットをメディアとして使うものと言えるだろう。その最大の利点は、進歩しつつあるIT技術を最大限に使える事だろう。最近、Googleの検索でキーワードを入れると、それに関連したり、類似する広告が、検索の結果表示画面に出てきて、びっくりした。検索連携広告と言うものだろう。たかが、パソコン端末に表示される広告に過ぎないが、まさに、NET広告はピンポイント式に消費者を狙ってくる。

インターネットはクッキーや履歴等が使えるので便利である。最近プライバシーの問題がやかましくなっている。それに関わる問題が顕在化している。クッキーや履歴を使わなければプライバシーの保護は少しは改善されるだろうと色々設定をいじってみた。時々不便を感じる時がある。現在、Googleのホームページを開くと「Google Chromeをインストールしよう」と出てくる。これもGoogleの囲い込みかと思ったりする。

2012年3月1日以前から、Googleのプライバシー ポリシー変更の表示が出てきた。既に、このGoogleが収集した個人情報をGoogleが一元的に収集・管理・利用する事については警鐘が鳴らされ、国もGoogleに対して懸念を伝えているようだ。念のため、Googleが「プライバシー ポリシー」の変更として開示した内容を以下に引用する。かなり、長文の文書だが、Googleにどっぷり浸かると、個人情報は丸裸になり、本人はその個人情報が何に使われるのか予想もできないように思われる。

このような事態をGoogle側から見れば、まさに全てを知っている神様の気分だろう。それでは、なぜ「プライバシー ポリシー」なのか。英語版でも「Privacy Policy」となっている。Googleの利用者や顧客の全てがこの「プライバシー ポリシー」に同意している訳ではないだろう。従って、ある意味ではこれはGoogleの方針の表明に過ぎないのかも知れない。ともかく、何を為すか不明な全知全能の神の出現を歓迎する人は限られているのではないか。悩ましい問題だ。

以下Googleのプライバシー ポリシー(http://www.google.co.jp/intl/ja/policies/privacy/)最終更新日: 2012年3月1日からの一部引用。
*********************************************
Google サービスは、情報の検索や共有、他のユーザーとのコミュニケーション、新しいコンテンツの作成など、さまざまな用途にご利用いただけます。Google アカウントの作成などにより、Google に情報を提供していただくと、サービスをさらに改善することができます。たとえば、関連性のより高い検索結果や広告を表示したり、他のユーザーとの交流を支援したり、他のユーザーとの共有をより迅速で簡単にしたりすることができます。Google サービスのご利用にあたり、Google がユーザー情報をどのように利用し、プライバシーをどのように保護しているかをご理解ください。

プライバシー ポリシーでは、以下の事項について説明します:

○    Google が収集する情報とその理由
○    その情報の利用方法
○    提供する選択肢(情報へのアクセスや更新の方法など)

できる限りわかりやすい説明を目指しておりますが、Cookie、IP アドレス、ピクセル タグ、ブラウザなどの用語がご不明の場合は、先にこれらの主な用語についての説明をご覧ください。Google ではお客様のプライバシーを重視しております。初めて Google をご利用になるお客様も、長年ご利用いただいているお客様も、ぜひ一読して、Google の取り組みをご理解ください。ご不明な点がありましたら、Google にお問い合わせください。

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*********************************************引用終わり

2012年3月14日 (水)

ざっそう句:蕗の薹

2012/3/14(水)
昨日は晴れ。冬型の天気で気温は余り上がらない。地面が湿っているので、カキの木の下に密生しているハナダイコンの苗を堀上げて、別の二ヶ所に移植。一輪車一台分。雑草と景観対策として道路沿いに試し植えしている。植える面積を増やすにも、苗を現地調達できると作業が楽になる。今回植えた場所を来年の前線基地として更に増やす。気長な作業だ。昨年ミカン樹の下草として植えた所は防草効果があった。以前、景観用の数種類混合種子を買って蒔いたが、残っているのはヤグルマギクと白い花を付けるキク科の花(ノースポール?)のみとなっている。アブラナ科の植物の花は白や黄色が多いようだがハナダイコンの花は薄紫。春の陽気に対してちょっと沈みがちな花色だが、観賞が主目的でないので仕方ない。菜の花も微かな香りがするが、芳香という程ではない。WIKIPEDIAによると、夕方、「非常によい香りがする」とある。こちらは、まだ未経験だ。その香りに期待。少し汗をかいた。蕗の薹が出ていたので、数個収穫したが、置き忘れた。

「ハナダイコンWIKIPEDIA(ハナダイコン);。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%8A%E3%83%80%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%B3。」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。(最終更新 2009年1月28日 (水) 23:03)(http://ja.wikipedia.org/)の一部引用=「ハナダイコン(花大根、学名Hesperis matronalis)は、アブラナ科の植物の一種。シベリアから西アジア・ヨーロッパにかけてが原産地で、欧米では、最も伝統のある園芸植物とされている。オオアラセイトウ (学名:Orychophragmus violaceus)もハナダイコンと呼ばれるが、別種である。~。概要 [編集]:中世から庭園などに植えられていたとされ、特に気候の寒いヨーロッパ北部のドイツ、イギリスなどではよく親しまれている。北アメリカには1600年代に観賞用植物として移入されて帰化し、北はカナダのオンタリオ州からニューファンドランド島、南はジョージア州の山間部まで分布を広げた。主に道路脇や林の外縁によく生え、一部の地域では侵略的外来種と考えられている。~。性状 [編集]:耐寒性の多年草であるが、耐暑性がないため、日本では一年草として扱われている。草丈60-90cm。葉は互生し、柄のないへら形の単葉である。花は5月頃に咲き、茎の上の方に直径2cmくらいの薄紫の花を総状花序につける。夕方になると、非常によい香りがする。」。

リンク設定メモ:以下のリンクはOK。上記「」のリンクはNG?
リンク部分のソース=「「ハナダイコン<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/a~??a~??a~??a~??a~?^(3)a~?^(3)">WIKIPEDIA(ハナダイコン)</a>;。<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/a~??a~??a~??a~??a~?^(3)a~?^(3)">http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%8A%E3%83%80%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%B3</a>。」」。URLが正確にコピーされていない?FIRE FOXはURLは英数字以外もOKだが、古いVERのIEはNG?

IEのURL(url=http//ja.wikipedia.org/wiki/ハナダイコン:FIRE FOX)表示:「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%8A%E3%83%80%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%B3

(1)Googleによる「ハナダイコン WIKIPEDIA」の検索(http://www.google.co.jp/#hl=ja&gs_nf=1&gs_is=1&cp=7&gs_id=m&xhr=t&q=%E3%83%8F%E3%83%8A%E3%83%80%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%80%80WIKIPEDIA)。

(2)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%8A%E3%83%80%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%B3

2012/3/13(火)の天気

TAVE= 4.0
TMAX= 8.6 最高気温(℃)   9.2  14:04
TMIN= 0.3 最低気温(℃)   -0.6  06:11
DIFF= 8.3
WMAX= 6.7 最大瞬間風速(m/s)   12.3(北北西)  15:57
SUNS= 11.4
RAIN= 0

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ざっそう句:蕗の薹

蕗は日本原産の山菜・野菜で太古より食べられていたようだ。その長い間に品種改良されて現在のようになったのか。

■ハナダイコン 植え場に顔出す 蕗の薹
■折角の 香りも聞けない 花粉マスク
■汗仕事 置き忘れたよ 蕗の薹
■かみさんと 蕗の話題で 飯を食う
■蕗の香や 太古の記憶 呼び覚ます

2012年3月13日 (火)

東北の海よ:ニューヨークタイムズが伝えた3.11東北三大災害

2012/3/13(火)
昨日は晴れ。風が強く寒い日だった。午前は資材加工。午後は仲間二人で修理作業。更に二人応援が来た。ともかく、寒風の中の作業だったが、人数が多いと元気が出てくる。寒くともスギ花粉は飛ぶとの事でマスク着用。昨年は花粉の飛散が特に多い年とされていたが、東京電力福島原発事故で、放射能の危険が増大した。その予防でマスク着用が多かったのか、花粉症はほとんど感じなかった。昨年の3.13のブログでは原発事故の事を書いているが。まだ、その深刻さを意識していなかったようだ。「環境雑録:巨大地震による原子力発電所の事故。http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2011/03/2011.html。」

2012/3/12(月)の天気

TAVE= 3.9
TMAX= 9.1 最高気温(℃)   9.5  12:47
TMIN= -0.2 最低気温(℃)   -0.6  06:11
DIFF= 9.3
WMAX= 8.5 最大瞬間風速(m/s)   17.3(西北西)  12:15
SUNS= 9.3
RAIN= 0

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東北の海よ:ニューヨークタイムズが伝えた3.11東北三大災害

3.11から一年を迎えて、世界はこれをどのように報じているのか。たまたま覗いたNY TIMESに次の記事があった。By HIROKO TABUCHIという署名記事である。かなりの長文で読むのが大変。細切れにして、Googleで翻訳した。機械翻訳なで「超訳」的な部分もあるが、英文記事が伝えようとする内容は、これを手がかりに解読する以外にない。

「Effects of Japan’s Disaster(追記:An Anniversary of ‘Heartbreaking Grief’ in Japanに変更/2012/3/13)」というタイトルだが、3.11の地震、津波、原発事故という巨大な災害三重奏の及ぼす影響についての記事。翻訳では、それが「まだアンフォールディングしています」とちょと意味がとりにくい。「日本の巨大災害の影響ががぞくぞく明らかになる」という意味だろう。被災から一年経ち、ようやく被災直後の様子が分かってきた事が多いだろう。

この記事は、浪江町の被災者と被災者が死亡に到った原因について報告している。浪江町では、避難者は津波からの避難と原発からの避難の両方を考える必要があった。もし、原発が無かったら、助かっていた人もいたはずだ。福島原発事故で、放射能被害を怖れて、捜索や立入が禁止・断念され、遺体収容が遅れた。その後の捜索で、収容した遺体の調査をすると、津波による死亡と異なり、餓死や衰弱死が死亡の原因と判断された例があることを伝えている。

先日聞いた講演で、気仙沼市の観音寺住職は、地震・津波の時は「てんでんこ」が、被災を避けるのに重要だと話された。「てんでんこ」とは、各々自分自身でという意味。一度、自分自身は逃げることができても、親のことを思い、親の救出に向かって、被災した人が多いと話した。親よりも若い人が多数被災していると聞いて、改めて絆とは何かと思う。親子、親族という絆ほど強いものはないだろう。災害の時は、逃げるのは「てんでんこ」にして、家族が集まる場所を決めておいて、そこで再会して下さいと話す。お互いに探し合う事で、二次災害の心配もある。

NY TIMESの記事はかなり詳細に、3.11三大災害発生後の一年を伝えていると思う。放射性物質の飛散状況を当局が直ちに公表しなかったため、放射能が高い方に向かって避難した例も述べられている。また、以下の記事は、放射能が具体的にどの程度の強度かが分かっていれば、救援隊が救援に向かい、被災者は助かっていたかも知れないことを伝えている。

「Last week, the police in the Futaba-gun region of Fukushima, which includes the damaged Fukushima Daiichi Nuclear Power Station and the town of Namie, confirmed that a handful of tsunami survivors trapped in the rubble probably starved to death as rescuers fled the scene for fear of radiation. 先週、破損した福島第一原子力発電所と安室奈美恵の町が含まれています福島の双葉郡地域の警察は、救助者が使用するシーンを逃れたとして、瓦礫に閉じ込められた津波の生存者の一握りのは、おそらく餓死していることが確認放射線への恐怖。(先週、破損した福島第一原子力発電所と浪江町を含む福島県の双葉郡地域を管轄する警察は、瓦礫に閉じ込められた津波の生存者中には、救援隊が放射能の恐怖から現場を退散したので、取り残された何人かが、多分餓死したと思われる事を確認した。)」

多分、この著名なNY TIMESの記事は英語なので、世界中多数の読者がいると思う。3.11の三大災害を機会に、世界は日本に注目している。日本は世界に向けても情報発信をしてゆく責任があるのではないか。政府は3.11の三大災害対応の会議議事録の作成をしていなかったと報道されている。しかし、日本の官僚は魂を悪魔に売る程堕落はしていないと信じたい。何年か後に、その議事録の存在が明らかになれば、まさに巨大な官製隠蔽談合があった事になる。日本の3.11の三大災害対応の議事録は、世界の災害対策のバイブルにもなるのである。しっかりせよ、日本のジャーナリスト。これからが正念場ではないか。

以下は参照したNY TIMES記事とそのGoogle翻訳。機械翻訳の実力・現状を知るためにも参考になる。
*********************************************
Effects of Japan’s Disaster Are Still Unfolding(Google翻訳:日本の災害の影響がまだアンフォールディングしています)
By HIROKO TABUCHI
Published: March 11, 2012
http://www.nytimes.com/2012/03/12/world/asia/a-year-later-effects-of-japans-disaster-are-still-unfolding.html

NIHONMATSU, Japan ― Nobody knows whether Hiroshi Yokoyama’s elderly parents tried to outrun the tsunami waves that engulfed their home in Namie on the Fukushima coast a year ago. But Mr. Yokoyama does know that he would have searched for them high and low, if not for a second disaster that unfolded at the nuclear power plant just a few miles away, forcing him to abandon his search.

Google翻訳(以下同様):「二本松市、日本 - 誰も横山宏の高齢者の両親が年前に福島県の海岸に安室奈美恵に彼らの家を巻き込んだ津波の波を逃れることを試みたかどうか知りません。しかし、横山氏は、彼が彼の捜索を断念することを強制、ハイとロー、そうでない場合、わずか数マイル離れた所原子力発電所で繰り広げられる二次災害のためにそれらで検索しましたことを知っています。」

As grieving families across the nation gathered Sunday to mark the one-year anniversary of Japan’s 3/11 disasters ― an earthquake and tsunami that ravaged the northeastern coast, killed almost 20,000 people and caused a huge nuclear radiation leak ― some communities are still coming to terms with the calamity’s scale, complexity and lasting effects, and painful new revelations have shed light on how some of the victims died.

北東部の沿岸を荒らし、ほぼ20,000人が死亡し、巨大な核の放射能漏れを引き起こした地震と津波 - - 全国家族を悲嘆としての日本の3月11日の災害の1周年をマークするために日曜日に集まっいくつかのコミュニティは、まだに来ている災害の規模、複雑さと持続的な効果、痛みを伴う新たな啓示との用語は、犠牲者の何人かが死亡した方法に光を当てるしています。

Last week, the police in the Futaba-gun region of Fukushima, which includes the damaged Fukushima Daiichi Nuclear Power Station and the town of Namie, confirmed that a handful of tsunami survivors trapped in the rubble probably starved to death as rescuers fled the scene for fear of radiation.

先週、破損した福島第一原子力発電所と安室奈美恵の町が含まれています福島の双葉郡地域の警察は、救助者が使用するシーンを逃れたとして、瓦礫に閉じ込められた津波の生存者の一握りのは、おそらく餓死していることが確認放射線への恐怖。(先週、破損した福島第一原子力発電所と浪江町を含む福島県の双葉郡地域の警察は、瓦礫に閉じ込められた津波の生存者中には、放射能の恐怖から救援隊が退散したので、取り残された何人かが多分餓死したと思われる事を確認した。)

A month passed before rescuers started to  venture back into the 12-mile-radius exclusion zone set up around the nuclear plant; the bodies of Mr. Yokoyama’s parents were not discovered until the summer.

救助者が原子力発電所の周囲に設置されている12マイルの半径の除外ゾーンに戻って冒険を開始する前に、月が渡され、横山氏の両親の遺体は夏まで発見されていませんでした。

“If only there was no nuclear power station, lives could have been saved,” Mr. Yokoyama said. He thinks, and hopes, that his parents were quickly overpowered by the waves, and avoided the drawn-out deaths that some around them may have suffered.

"は原子力発電所がなかっただけの場合、命が救われたかもしれない"と横山氏は述べています。彼が考え、希望、彼の両親がすぐに波に圧倒され、彼らの周りの一部が苦しんでいるかもしれない長引く死亡を回避したこと。

A year later, Mr. Yokoyama, his wife, and two young children are still unable to return to their home on the shore. They observed the anniversary in Nihonmatsu, a city about 35 miles away, where a group of Namie townspeople now live.

一年後、横山氏、彼の妻、そして2人の幼い子供は、まだ岸に自宅に戻ってすることはできません。彼らは安室奈美恵の町民のグループが今住んでいる二本松市、離れて35マイル約市で記念日を観察した

“If only there was no nuclear power station, we could all go home,” Mr. Yokoyama said.

"は原子力発電所がなかっただけならば、我々はすべての家に帰る可能性がある"と横山氏は述べています。

Across the country on Sunday, there were hundreds of memorial services like the one in Nihonmatsu. Prime Minister Yoshihiko Noda, in a nationally televised address, pledged to work for a faster recovery.

日曜日に全国で、追悼式の何百もの二本松市のものと同様であった。内閣総理大臣野田佳彦は、全国的にテレビ演説で、迅速な復旧のために働くことを誓った。

“We shall not let our memory of the disasters fade, pay attention to disaster prevention and continue our effort to make this land an even safer place to live,” he said.

"我々は、災害フェードの私たちのメモリは、防災に注意を払うと、この土地に生きるにも安全な場所にする努力を継続させることができない"と彼は言った。

Japan’s reconstruction has accomplished much in the past year. Virtually 100 percent of the tsunami zone’s roads have been fixed, and landscapes once strewn with debris now are lined with tidy plots and a growing number of restored buildings. Severed supply chains have been re-established, and many of the region’s devastated fishing ports are back in service.

日本の復興はこの一年間で多くを達成した。実質的に津波ゾーンの道路の100%が固定されている、一度破片が散らばって風景は今きちんとプロットと復元建物の増加が並んでいます。切断されたサプライチェーンを再確立し、地域の荒廃した漁港の多くは、バックサービスであるされています。

But the still-evolving story of the towns like Namie is a painful reminder that the three-pronged onslaught of earth, sea and radiation that hammered the country a year ago was no ordinary disaster.

しかし、安室奈美恵のような町の、まだ進化の物語は地球の3方面からの猛攻撃は、年前に国を打ち出し、海や放射線は普通の災害なかったという痛い思い出させてくれます。

The tsunami waves that crashed into Namie not long after the 9.0 offshore earthquake at 2:46 p.m. that day swept entire houses out to sea, witnesses said.

ない長い一日が海に出て全体の家を掃除したことが14:46で9.0沖地震後の安室奈美恵に墜落した津波は、目撃者は述べています。

By nightfall, rescuers reached some of the worst damage in the town’s Ukedo District. In the pitch blackness ― the town’s power supply had been knocked out ― they heard taps and voices, possibly survivors under the mangled debris.

日暮れによって、救助者は、町のUkedo地区の最悪の被害の一部に達した。ピッチ暗闇で - 町の電源がノックアウトされていた - 彼らはマングルされた残骸の下でタップ、おそらく声、生存者を聞いた。

But as darkness enveloped them, the rescuers decided to suspend their search until dawn.

しかし、闇に包まれ、それらのように、救助者は夜明けまで、検索を中断することを決めた。

“We told them we would be back,” Kimihisa Takano, a neighborhood firefighter. “But we never did.”

"我々は戻ってであろう彼らに言われた。"公久高野、近所の消防士。 "しかし、我々は行ったことはありません。"

Mr. Takano instead found himself helping evacuate the town, after reports of a radiation leak from the nearby nuclear plant. But the town owned only a handful of microbuses and other vehicles to get residents out. As news spread of the unfolding nuclear crisis, commercial bus companies refused to travel to Namie, slowing the evacuation.

高野ではなく、近くに原子力発電所からの放射能漏れの報告の後、自身が町を避難させる助けた。しかし、町にはマイクロバスや住民を得るために他の車両のほんの一握りを所有していた。ニュースは展開の核危機の広がりとして、商用のバス会社が避難を遅らせ、安室奈美恵に行くことを拒否した。

(Page 2 of 2)

With no guidance from Tokyo Electric Power Company, the nuclear plant’s owner, or the central government, town officials led evacuees north, believing winds were blowing the radiation south. They would later learn they had fled right into the path of the radiation plume, despite the existence of government simulations that could have pointed them to safety instead.

東京電力、原子力発電所の所有者、あるいは中央政府からの指導のもと、町職員が信じている風が放射線の南を吹いていた、北避難を導いた。彼らは後に、彼らが代わりに安全にそれらを指摘していることが政府のシミュレーションが存在するにもかかわらず、放射線プルームのパスを右に逃げた学びました。

All the while, residents pushed for rescuers to return to Namie to resume their search for missing loved ones. “They were telling us, ‘What are the police for?’ ” said Takashi Sato, a police officer for the Futaba-gun region and a native of Namie, who fielded some of those calls. “But there was no way we could have carried out full-blown searches with radiation so high and the plant so volatile.”

その間、住民は行方不明の愛する人のために検索を再開するには、安室奈美恵に戻るには、救助のためにプッシュされます。 "彼らは'のために警察は何ですか?"、私達に言った "佐藤隆、双葉郡地域の警察官と、それらの呼び出しのいくつかを擁立安室のネイティブは言った。 "しかし、我々は非常に高い放射線など揮発性の植物で本格的な検索を行ったかもしれない方法はありませんでした。"

When Mr. Sato and his colleagues finally entered the 12-mile exclusion zone for a search mission in April, there were no survivors. Four bodies were discovered at a still-intact hospital in Okuma, next to Namie; an elderly man was found dead on the undamaged second floor of his house, according to Mr. Sato.

佐藤氏と彼の同僚は、最終的に4月の検索ミッションのために12マイルの排他ゾーンに入ったとき、生存者はありませんでした。四体は、安室奈美恵の隣に、大隈にまだ無傷の病院で発見された、老人は、佐藤氏によると、彼の家の無傷の二階で死んで発見されました。

They are all presumed to have died of causes other than the tsunami, probably starvation, Mr. Sato said.

彼らはすべての津波は、おそらく飢餓以外の原因で死亡したものと推定され、佐藤氏は述べています。

There are signs that victims in other towns and cities around the Daiichi plant, 160 miles north of Tokyo, suffered a similar fate. Ryuzaburo Shineha, a doctor based in Minamisoma who helped examine bodies pulled from the tsunami wreckage there, deemed that five out of 34 bodies he handled had died from debilitation.

第一工場、東京の160マイル北、周りに他の町や都市で被害者が同じような運命に見舞われている兆候があります。三郎Shineha、そこに津波の残骸から引き出された遺体を調べました南相馬市に本拠を置く医師は、彼が扱わ34体のうち5人は衰弱で死亡したものとみなす。

“Their bodies were unnaturally thin, suggesting that they likely had nothing to eat or drink for a long time,” Dr. Shineha said. “We concluded that they survived for some time after the tsunami, but became debilitated.

"彼らの遺体は、彼らがそう食べるか、または長い時間何も飲まなかったことを示唆し、不自然に薄いた"と博士はShinehaは言った。 "我々は、彼らが津波後しばらくの間生き延びたことが、衰弱した。

“Radiation doesn’t kill you straight away, but these people were literally dying. The authorities should have gone in to rescue them.”

"放射線はすぐにあなたを殺しませんが、これらの人々は文字通り死んでいった。当局は彼らを救うために行っているべきです。 "

In all, 1,605 people have been confirmed dead in Fukushima, and 214 remain missing and are presumed dead.

すべてでは、1605人が福島県で死亡が確認され、214は行方不明のままで死んだと推定されてきた。

Even as the area’s evacuees awaited news of their relatives, towns and cities there splintered. The 20,000 former residents of Namie are now scattered across 620 towns and cities in Japan, according to town officials. Five other jurisdictions around the Fukusima Daiichi plant remain evacuated.

地域の避難者がが分裂し、親戚、町や都市のニュースを待っていたとしても。安室奈美恵の20,000元の住民は、現在の町の当局者によれば、620の町や日本の都市に散らばっています。福島第一発電所周辺の5つの他の管轄区域では避難のままです。

The government has acknowledged that some areas near the plant may be uninhabitable for decades.

政府が工場の近くにいくつかの地域は何十年も住めないかもしれないことを認識しています。

More recently, some residents have been allowed on several visits to their tsunami-ravaged homes. When Kazuhiro Shiba, 48, returned to his home in Namie in June, he found a ship blocking his front door.

最近では、一部の住民は、その津波で荒廃した家庭には、いくつかの訪問で許可されています。和弘芝、48年6月に安室の自宅に戻ったとき、彼はフロントドアをブロックして船を発見しました。

Mr. Shiba has no illusions about ever moving back. “We’re just lucky to be alive,” he said.

氏芝はこれまで戻っての移動に関する幻想を持っていません。 "我々は生きているだけでも幸運"と彼は言った。

At the Namie memorial service in Nihonmatsu, bereaved families lined up to lay white chrysanthemums at an elaborate altar. Two Buddhist priests chanted funeral rites.

二本松市の安室奈美恵の追悼式で、遺族は、精巧な祭壇に白い菊を築くために並んでいた。二つの仏教の僧侶は、葬儀を唱えた。

“Our search for survivors was delayed by a full month,” said Eiko Yoshida, a Namie native and a member of Fukushima’s prefectural assembly. “When I think of the suffering endured by the victims and their families, I am overcome by a heartbreaking grief.

"生存のために我々の検索は、完全な月の遅れで表示されました"と英子吉田奈美恵ネイティブと福島の県議会のメンバーは述べています。 "私は被害者やその家族が耐え苦しみを考えるとき、私は悲痛な悲しみによって克服しています。

“We experienced three disasters all at once. Never has this happened in the world.”

"我々は、一度に3災害を経験しました。これは世界で起こったことがない。"

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追記(2014/3/13):
『東北の海よ:ニューヨークタイムズが伝えた3.11東北三大災害』が当サイトのランキングに入ったのでメモしておく。この記事が読まれたのは、先日、「東北三大災害」災害発生以来3年目を迎えて、検索エンジン経由でこの記事を探したものと推測する。その日は、外出して他市の見知らぬ通りを歩いていた。東北地方太平洋沖地震が発生した時刻が近づくにつれ、黙祷のサイレンが聞こえてくるかもしれないと思った。その前に、屋外スピーカーから、「一分間の黙祷」をお願いしますという声が聞こえた来てきた。丁度、川の辺で、風も強く、スピーカの音は雑音に埋もれながら、山びこのように聞響きわたった。それをICレコーダーで録音。更に駅に向かって歩くと、何やら消防署らしい建物があった。消防車もあり、屋上には無線アンテナが立っていた。そこでICレコーダーを突き出して黙祷の時刻をまった。偶然にも、消防署の前に来ていたのだった。道路を挟んで対岸にいたので時々自動車が通っていた。フリーの音声処理ソフトで二本のファイルを加工して、最後的に一本に連結した。ICレコーダーで録音しながら黙祷した。

音の風景:
http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/0a1_SOUNDS_FUUKEI.html

(3)東日本大震災、東北三大災害犠牲者追悼の黙祷2014年
SOB_GISEISYA_MOKUTOU_2014311_SIBUKAWA_2M41S.mp3をダウンロード
ファイルサイズ:1.84 MB (1,933,312 バイト)
時間:約2分41秒。
採録:2014年3月11日(東北地方太平洋沖地震発生時刻)。
場所:群馬県渋川市消防署前(前半:黙祷を呼びかける放送+後半:消防職員の黙祷)

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2012年3月12日 (月)

ざっそう句:一年目の3.11

2012/3/12(月)
昨日は曇り、夕方一時雨。ジャガイモを植えた。切った切り口がしなびかけていた。暴走族が一時間ほど国道を乗り回す音がやかましかった。3.11の事は忘れきっているのか。一瞬、バイクの音の間から、黙祷をしましょうと広報車から声が聞こえた。午後は用事。

2012/3/11(日)の天気

TAVE= 5.4
TMAX= 8.6 最高気温(℃)   8.9  14:30
TMIN= 2.7 最低気温(℃)   2.4  22:31
DIFF= 5.9
WMAX= 6.8 最大瞬間風速(m/s)   14.5(北西)  21:24
SUNS= 0.4
RAIN= 1

Q
Q

ざっそう句:一年目の3.11

■何でまた 暴走族の 喧噪日
■広報車 黙祷伝え 走り行く
■2:46 皆で低頭 北を向き
■水仙が 春を創るか 蕾出す
■花見れば 思考停止の 仏の座

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  • 橋本 英文: 刃物雑学事典 図解・刃物のすべて(1986年 株式会社 講談社 ブルーバックス B-659)
    刃物という視点で多くの事例が取り上げられている。刃のある道具の理解にも役立つ。類書が少なく貴重な一冊。「すべり変形が切断の原理」という考え方で説明している。
  • 沼田 真   : 植物たちの生( 1972年 岩波新書(青版 833))
    「ご要望にお応えしてアンコール復刊(1988年岩波新書50年記念復刊) 地球生態系の中で自然を見直す」(腰巻きのフレーズ)。植物の知恵と戦略に人類は勝てるのか。
  • 出町 誠: 14_NHK趣味の園芸:よく分かる栽培12ヶ月  カキ(NHK出版2007年)
    初心者向け柿栽培参考書(新版)。旧版と比較すると楽しい。
  • 中村三夫: 13_NHK趣味の園芸:作業12ヶ月  カキ(NHK出版1996年)
    初心者向け柿栽培参考書(旧版)。新版と比較すると楽しい。
  • 山科正平: 12_細胞を読む   電子顕微鏡で見る生命の姿
    細胞はどんな部品からできているのか。そんな疑問に答えてくれる一冊。何事も形を見るのが第一歩。μからÅオーダーの世界で、細胞をメスで解剖するように、電子顕微鏡というメスで解剖して見せてくれるので興味が尽きない。
  • 柳田充弘: 11_細胞から生命が見える
    著者の専門は分子生物学、細胞生物学。普段生物を考えても細胞レベルで止まってしまう。その細胞の中で色々な分子が働いている。細胞こそ生命の基礎だが、その細胞の中の動きを知るのに最適な一冊。疑問の発端はなぜ発根剤が効くのかということ。薬剤が細胞膜を通過して細胞内で分子と分子が作用するイメージができた。本書でできた細胞のイメージは小さな無数の穴が空いた水分が充満したヨーヨーのようなもの。そのヨーヨーの中に分子部品が詰まっている。細胞自体もタライの中のヨーヨーのように浮かんでいる。細胞図面の空白部は真空でなく水分だ。細胞の内外に水がないと細胞は生きられない。水が生命のゆりかごだ!
  • 野口悠紀雄: 10_ホームページにオフィスを作る(2001年 光文社)
    ITが輝いた時代の作品。HPの活用法は参考になる。参考:url=http://www.noguchi.co.jp/(野口悠紀雄 ONLINE)
  • 小池洋男 編著: 09_果樹の接ぎ木・さし木・とり木(農文協:2007/3/31第1刷)
    やや専門的であるが、実務専門化が分担執筆しており、その場で役に立つ一冊。
  • ノーバート・ウィーナー(鎮目恭夫訳): 08_サイバネティックスはいかにして生まれたか(みすず書房1956)
    情報と通信という現代社会に不可欠の基礎的な学問を作った著者の自伝とそれを通した科学史
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    2010/8/4:MEMO等の表示に使える。 農作業で気になる自戒の言葉 ■畑の石ころはいつまで経ってもても石ころ(早く拾って片づけよという意味か)。 ■同じ石を二度拾うな(やってみると難しい)。 ■手ぶらで歩くな。 ■三つ先のことを読め。 ■適当な観察。 ■空を見よ(気分転換、休憩、天気を読む、腰曲がり防止)