生む・生まれる・生ませる
2008/10/6
生む・生まれる・生ませる
誕生・生誕とは人間にしろ動物にしろ不思議で厳粛な現象である。
生む・生まれる・生ませるという言葉に生命が伝えられる様式が見える。
というより、その言葉を使う人の意識や意志が言葉に反映されているようだ。
生むとは正に母親の行為である。
どうも「生む」だけの自動詞的用法は漠然としてしまう。
生み出す目的語である対象を想定している言葉のようだ。
○○を生むという表現から目的語を伴う他動詞が原義であるようだ。
それでは、「生まれる」とは自動詞なのだろうか「生む」の受動態なのだろうか。
私は平成○年○月○日に生まれました。
この表現は親子関係を想定しているので受動態に近いだろう。
行為としての意志の強さは断然「生まれる」より「生む」に軍配があがるだろう。
然からば、「生ませる」はどうか。
父親の行為でもあるようだ。
「生む」よりさらに強い意志の支配を感じないでもない。
○は△に□をして×を生ませた。
しかし、自分は×に生ませられたとなると自虐的になりすぎる。
誕生・生誕という不思議で厳粛な現象もその意識や意志の点でなんとなく
あいまいな部分がある。
なぜだろう。
やはり、成人の意志や意識でもってしても、誕生・生誕という現象には、
人間が完全に制御しがたい自然の摂理が働いているからであろうか。
話は植物の世界に飛ぶ。
植物体が成熟すると花を咲かせ、受精して、実が熟す。
それが、ぽとりと地面に落ちる。
母体からのTAKE OFF離別である。
この瞬間種子(子供)は母体の庇護もなくなり、厳しい環境に耐えてゆく運命にさらされる。
母体に比べれば圧倒的に劣悪な環境から出発する。
植物の意志や意識はどこにあるのだろうか。
もう一度人間の世界にもどる。
人間、挫折し、難局に遭遇したりすると、こんな事なら「生まれなければよかった。」と
思うことがよくある。
親子の口論もこの類が多い。
お母さんが自分を生んだのが悪い等々際限が無い。
○(?)は△(母)に□(父)をして×(自分)を生ませた。
こういう、発想の転換はできないだろうか。
即ち、出生の主体に自己を置くのである。
「○(?)=自分」とすればよい。
自分は自分の意志でこの世に出生したのだと再認識するのだ。
父も母も自分の出生に身体を貸してくれただけだ。
生命誕生のドラマもこれが誤りではないと感じる。
子供にとって精神と生活の独立宣言でもある。
自己の出生を動物の世界、植物の世界、自然の摂理等から客観的に位置づけることに
より自己の存在が確実なものになるのではなかろうか。
それでは、本当の「○(?)は」とは何か。
生まれていない自分がなぜそんな事ができるの?
自分が生まれる前に自分が生まれる準備は進んでいる。
植物で言えば授粉の瞬間に次の生命のバトンタッチが始まっているのだ。
生命の誕生と進化のドラマが普段見えないところで展開しており、
凡人に容易に見られないがのが勿体ない感じがしないでもない。