333_ハトよ 鳴いておくれ

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2013年3月22日 (金)

寝言老人が幼少の頃(ハトよ 鳴いておくれ;愛しき古里):高山古墳群の思い出

2013年3月21日木曜日
昨日は晴れ。最高気温(℃) 14.1 00:01。ざっそう句:空耳か 鶯の声 一度だけ。町内行事。DSCデータを整理しプリント用に編集。 用事外出。訪問先で打合せと雑談。貰い物。その足でもう一件。寒暖の差が大きく要注意。一般の人が裁判に関わる件数は一生の内どのくらいあるのだろうか。刑事事件で裁判員制度が実施されているが、なぜ民事事件で裁判員制度がないのか疑問に思っていた。毎日新聞がその動きを伝えていた。

毎日新聞は、「憂楽帳:民事への国民参加。http://mainichi.jp/opinion/news/20130321k0000e070177000c.html。(2013年03月21日 12時26分))」というタイトルで、「刑事裁判に市民感覚を反映させようと始まった裁判員制度は、5月でスタートから4年。極端に長い時間がかかるケースへの対応など課題もあるが、ともかく定着しつつある。そこで「民事は裁判官任せのままでいいのだろうか」と思っていたら、民事への国民参加を考える動きがあった。 1月に経済団体や消費者団体などの代表者、学者らがスタートさせた「民事司法を利用しやすくする懇談会」だ。事務局長の小林元治(もとじ)弁護士は「民事訴訟制度を利用しやすいと感じている人は国民の2割程度。この10年間の制度改革で刑事は身近になったのに、民事は立ち遅れています」と話す。懇談会の設立趣意には、さまざまな改革案とともに「国民の司法参加も重要な検討課題」とある。」と報じた。

もっと疑問なのは、裁判で人を裁くより、被告を弁護する事になぜ一般人が参加出来ないのかという事ではないだろうか。件数比較なら民事事件の方が圧倒的に多いと思う。一般人の常識的判断力は弁護活動にも有効ではないか。

2013年3月21日の天気(AMEDAS)

TAVE= 7.9
TMAX= 12.9 最高気温(℃) 14.1 00:01
TMIN= 4.6 最低気温(℃) 4.2 22:39
DIFF= 8.3
WMAX= 12.2 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 21.3(北西) 01:44
SUNS= 11.5
RAIN= 0

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寝言老人が幼少の頃(ハトよ 鳴いておくれ;愛しき古里):高山古墳群の思い出

先日、赤堀歴史民族資料館で、企画展「探検家・矢島保治郎展 中国 チベットに足跡をたどる」を見学したついでに、常設展示場も見学した。そこに、「高山1号古墳出土埴輪鞆」が展示されている。かつて、当町内には、高山、行者山、丸塚山という三つの山があり、子供らの遊び場であった。その山が、古墳らしいと気付いたのは小学生中学年の頃だったと思う。

「炭焼きじいさん(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2009/12/31/)。(2009/12/31)」

「古墳と人骨(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2008/09/post-2d0b.html)。(2008/9/8)」。

高山、行者山は、開発により平削等が進み、ほとんど見る影がない。ただ、自然の丘陵部に作られたらしく、その自然地形は辛うじて残っている。丸塚山は伊勢崎市の史跡(http://www.city.isesaki.lg.jp/www/genre/0000000000000/1000000000126/index.html)に指定され、辛うじて破壊から免れた。

赤堀歴史民族資料館に展示されている「埴輪鞆(とも)」の説明板に「高山1号古墳」とあり、周辺には幾つかの古墳の集群があったようだ。伊勢崎市史民族調査報告書第一集「三和町の民俗(昭和56年8月31日 伊勢崎市 編集・発行)」を調べたが、古墳に関する記述は無かった。この地域民俗史も今では、当時を知る貴重な資料である。

「高山1号古墳出土埴輪鞆」は市指定重要文化財であり、そのホームページに、「鞆(とも)は革製で巴(ともえ)形をしており、矢を射るときに左手首につけ、弓の弦(つる)が腕にあたるのを防ぐために用いる。この埴輪は、昭和52年、高山1号古墳(三和町)の発掘調査で出土し、鞆と台部からなる。完形に近い状態で発見され、県内でも希少な資料である。製作年代は6世紀前半と考えられる。(http://www.city.isesaki.lg.jp/www/contents/1354780969798/index.html)」と説明されている。昭和52年と言えば、サラリーマンになって数年後の事。家の近くでの発掘調査だったが、全く記憶にない。

この「巴(ともえ)形」は市章の勾玉の形にも類似している。WIKIPEDIA「巴。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%B4)」。ところで、この「鞆(とも)」を装着したのは誰だったのか。次々に矢を放つ状況は、狩猟とは思えない。獲物が大型動物であっても昔の狩り人の腕なら数本の矢で仕留めたろう。そうなると、武人の姿が浮かんでくる。近隣の村落との戦闘で勝利した一族がその記憶として古墳に収めたのだろうか。
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2013年3月 5日 (火)

田舎老人徒然草(ハトよ 鳴いておくれ):雛祭りと旧森村家の雛

2013年3月5日火曜日
昨日は晴れ。夜一時雨が降ったようだ。最高気温(℃) 9.8 13:37 。ざっそう句:啓蟄だ おれもモゾモゾ 動き出す。宅内閑居。パソコン作業。午後用事外出。百均店やホームセンターを回る。つい、野菜や花の種子を買ってしまった。帰路、講演会の録音CDを届けたお宅で、菱餅を頂いた。雛祭りで、菱餅を思い出したが、それを頂けたのは夢のようだ。

2013年3月4日の天気(AMEDAS)

TAVE= 5.0
TMAX= 9.3 最高気温(℃) 9.8 13:37 
TMIN= 0.9 最低気温(℃) 0.6 05:55 
DIFF= 8.4
WMAX= 4.6 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 8.5(東南東) 13:01 
SUNS= 9.8
RAIN= 2

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田舎老人徒然草(ハトよ 鳴いておくれ):雛祭りと旧森村家の雛

先日、赤堀歴史民族資料館で「企画展の「探検家・矢島保治郎展 中国 チベットに足跡をたどる」を見学。同時に、季節展として、「ひなまつり展(3/10マデ)」が開催されていた。そこで目を引いたのは旧森村家の雛。江戸末期から大正の頃までの雛が今に残っていたわけだ。広辞苑の「流し雛」の項目に、ひなは、人形にその起源があり、その人形に霊魂を込めて、川に流して神送りするような事が書かれている。雛にもいろいろな願い事が込められている。

平成の大合併で、旧赤堀町は旧伊勢崎市と対等合併した。その後の、市議会選挙で、赤堀から多数が立候補した。その影響か、共倒れとなり、赤堀地区は現有勢力を失ってしまった。そんなことだけでなく、赤堀は、小さな町を沈没させないために色々な取り組みもしたようだ。その一つに赤堀歴史民族資料館があるのだろう。先日、赤堀歴史民族資料館へ行ったついでに他の施設も回ったが、さながら周辺が文化村に一変したような印象を受けた。真っ正面からバカになれるのは本当のバカでもないだろう。そんなわけで最近、敬意や愛情を込めて、アカボリをバカボリと呼んだら、かみさんも気に入ったようだ。アカボリ住民には、純粋なバカボリ精神をいつまでも失わないでもらいたい。ともかく、赤堀歴史民族資料館は伊勢崎市の歴史文化発信センターに大変身したのだ。先人のバカさに感謝。

菱餅を頂いて、まだ自宅で餅をついて雛祭りを祝っているお宅があったのには感心した。また、旧森村家の古色がただよう雛を見て、なんとなく豊かな気分を味わえた。伝統行事は世代と世代をつなぐ役割があるように思う。特に、親子の関係ではなく、祖父母という三世代をまたいだ関係は薄れているのが実状だろう。

YOUTUBEで「うれしいひなまつり」を聞きつつ、その歌詞やサトウハチローの記事をしらべてこの記事を書いた。心に響く日本の名曲かもしれない。

「うれしいひなまつり。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%86%E3%82%8C%E3%81%97%E3%81%84%E3%81%B2%E3%81%AA%E3%81%BE%E3%81%A4%E3%82%8A。(最終更新 2013年1月19日 (土) 11:42)」『ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に、「1935年(昭和10年)、サトウハチローが娘に雛人形セットを買ってやった前後に作詞したとされる[1]。それに河村が曲をつけ、1936年(昭和11年)1月にレコードが発売されている。~2007年(平成19年)に日本の歌百選に選出されている。」とある。

WIKIPEDIA「サトウハチロー。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%88%E3%82%A6%E3%83%8F%E3%83%81%E3%83%AD%E3%83%BC)」

「うれしいひなまつり」=http://www.youtube.com/watch?v=akenuoNdFcc(104,310 )

うれしいひなまつり
作詞:山野三郎(サトウハチロー) 作曲:河村光陽

【歌詞】(一部)
(1)あかりをつけましょ ぼんぼりに~

(2)お内裏様(だいりさま)と おひな様
~お嫁にいらした 姉様に~

(3)金のびょうぶに うつる灯(ひ)を~
~すこし白酒 めされたか~

(4)着物をきかえて 帯しめて~
~今日はわたしも はれ姿~

この歌詞の中に、当時の人願関係も生活風景も投影されている。その一部を抜き出した。それを、長く愛される歌詞や曲に結晶させた作詞者、作曲者を今まで知らなかった。
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2013年3月 3日 (日)

文化と文明雑感(ハトよ 鳴いておくれ):明治時代の国際人矢島保治郎の果たせぬ夢とは何か

2013年3月3日日曜日
昨日は晴れ。最高気温(℃) 9.7 13:33 。最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 20.3(北西) 15:00 。ざっそう句:若者よ 郷土の偉人に 夢貰え。イベント外出。帰路種ジャガイモ等を購入。昨日は赤堀歴史民族資料館周辺施設で色々な行事が行われた。午前中は、企画展の「探検家・矢島保治郎展 中国 チベットに足跡をたどる」を中心に見学。午後は「絆 郷土と矢島保治郎を繋ぐ 中国~チベット紀行」という写真家小松健一氏の講演を聴いた。

MEMO:ATOK不調=MSIMEに乗っ取られた? ATOKの文字パレットが出なくなった。ATOKを再インストールしても、表示させるプログラムを使ってもパレットは出ない。3/1はOKだったので、システムの復元を行ったら、元に戻った。

2013年3月2日の天気(AMEDAS)

TAVE= 6.0
TMAX= 9.4 最高気温(℃) 9.7 13:33 
TMIN= 2.4 最低気温(℃) 2.1 22:43 
DIFF= 7
WMAX= 11.6 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 20.3(北西) 15:00 
SUNS= 10
RAIN= 0.5




文化と文明雑感(ハトよ 鳴いておくれ):明治時代の国際人矢島保治郎の果たせぬ夢とは何か

小松氏は、講演の冒頭、自分と群馬県のかかわりについて語った。生まれは岡山。母が群馬生まれという事で、幼少時は群馬県で育った。自分には群馬県人の血が流れているとの意識が、矢島保治郎と小松氏を結びつけているようでもあった。

矢島保治郎がチベット行きを企画したとき、何人も同行すると手を挙げたが、結局チベットに旅立ったのは矢島保治郎ただ一人だったとの事だ。言い出しっぺの義理をかたくなに守ったという見方も出来る。しかし、事はそれほど単純でもなさそうだ。やはり、その時代の流れをいかに捉え、いかに行動したかが歴史として興味があるところではないかと思う。

「矢島保治郎。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E5%B3%B6%E4%BF%9D%E6%B2%BB%E9%83%8E。(最終更新 2012年5月31日 (木) 10:30 )」『ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に、「こうして、1911年(明治44年)3月4日、矢島はラサに到着し、河口慧海、成田安輝、寺本婉雅に次ぐ、チベットに入国した4人目の日本人となった。なお、それまでにチベット入りした3人はいずれもインドからのルートで入国しており、四川省から入った人間としては矢島が日本初ということになる。

ラサには1カ月ほど滞在したが、日本人密入国者であることが発覚しそうになってきたため、チベットを南下してシッキム王国(現在のインド・シッキム州)を経由し、インドへと抜けた。そしてカルカッタから船員として貨物船に乗り込み、1912年(明治45年)3月、日本に一旦帰国する。 帰国した矢島は力行会を訪ね、再度チベットに赴くための資金援助を希望する。とはいえ力行会は会の存続自体が危ういほど資金に窮しており、ここでその資金を引き受けたのは川島浪速であった。川島は満州・モンゴルの独立運動を行なっていた人物であるが、チベットも最終的には独立させたいと考えており、その計画の一環として矢島へチベットの情報収集を依頼する。こうして、川島から資金の提供と情報収集の命を受けた矢島は、日本滞在わずか2日で再び船に乗りインドへ向かった。」とある。

矢島保治郎の一回目のチベット訪問は、「探検家・矢島保治郎」と言うのにふさわしかったろうが、二回目のチベット訪問以後は、矢島保治郎の旅の目的は一回目と異なるように思われる。20世紀に入り、科学技術は進んでいる。世界も変動しつつある。当時、一般人の出世コースとしては、軍人になることがあったようだ。WIKIPEDIAによれば、矢島保治郎は軍人をやめてから、チベット訪問に取り組んだ。ここに、矢島保治郎の世界観の変化があったのではないか。そうして、二回目のチベット訪問も、最初の意図とは異なった方向に進んだのではないか。余りにも、資料が少ないので、すべて想像の領域ではあるが、二回目のチベット訪問で「探検家・矢島保治郎」は、「国際人矢島保治郎」に成長したのではないかというのが自分の想像であり、夢でもある。

WIKIPEDIAによると、「しかし、その後イギリスのインド政庁がダライ・ラマに矢島の追放を要請。ダライ・ラマは形の上ではこれを拒否したものの、チベットが親英路線にある現状として、これを完全に無視することはできない話であった。矢島としてもその辺りの事情はよく判っており、1918年(大正7年)10月、妻子を連れてラサを発ち、インドを経由して日本へ帰国した。」とある。チベットにも、世界の変動が及んでいたのが分かる。その状況は現代でも変わっていない。このような、大きな世界変動は、世界に出てみないと分からない。小松氏は、チベットからインドに出て、日本人が最初にチベットに入ったルートを辿ろうと申請したが、許されなかったとの事だ。今も、チベットは揺れているのだ。矢島保治郎がどんな夢を描いて帰国したのか知りたい。

小松氏は、多様性、今日風には多文化共生と間の取り方の重要性に触れて、講演会を締めくくった。間の取り方とは理解しにくかったが、自分と他人、自国文化と他国文化と言うように、「自」と「他」のバランスと理解した。そうして、矢島保治郎の事を現代の若者に伝えたいと語った。どうも、日本の若者は内向き思考になっているのも事実のようだ。

3月16、17日には企画展の会場である、赤堀歴史民族資料館で、ギャラリートークも実施するとの事だ。関心のある人は是非参加してみてはいかがかと思う。特に、若い人には矢島保治郎の果たせぬ夢をもう一度、自分の夢として描きなおしてみるのも良いのではないか。
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2013年2月28日 (木)

ハトよ 鳴いておくれ(寝言老人が幼少の頃):ハトちゃんの記憶

2013年2月28日木曜日
昨日は曇り後晴れ。最低気温(℃) 2.0 00:24。最高気温(℃) 11.9 15:52 。ざっそう句:ハトよ鳴け 垣の辛夷の 花近く。昨日は全体的に暖かで、今朝の気温も高い。宅内閑居。パソコン作業。春になるとキジ鳩の鳴き声で朝を迎える。26日が満月(望)だった。三月三日が雛祭り。我が家の花暦では花桃が咲くのが4月始め。今年はまだ蝋梅も開花していない。関東甲信地方の1か月予報(気象庁平成25年2月22日)では、前半は寒く、中頃は平年並みのようだ。

2013年2月27日の天気(AMEDAS)

TAVE= 6.5
TMAX= 11.1 最高気温(℃) 11.9 15:52 
TMIN= 2.3 最低気温(℃) 2.0 00:24 
DIFF= 8.8
WMAX= 4.1 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 7.8(西北西) 21:32 
SUNS= 5.7
RAIN= 0

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ハトよ 鳴いておくれ(寝言老人が幼少の頃):ハトちゃんの記憶

小学校低学年の頃、「ハトちゃん」というあだながあった同窓生がいた。やや面白で、目がくりくりしていた。通学コースが同じなので、通学時や学校で遊んだのだと思う。いつしか、そのハトちゃんの消息を聞くことがなくなった。病気になり、休学してその後若くして亡くたったとのことだ。

当時は、まだ医学も薬も医療も不十分だった。現在ならきっと助かっていたのではないかと思う。今では、小学校低学年の頃、誰とどんな遊びをしたかも忘れかけているが、ハトちゃんの事はふと思い出す。姓名と名前の前半は思い出せるが、名前の後半が出てこない。

小学校低学年の頃は、友人達がウサギを飼っていたので、みんなで畑や田圃でウサギの餌取りをした。繁殖もして、大きくなったウサギは、ウサギ屋という業者が回ってきて買い取ってくれた。小遣いも、親に貰うだけでなく、自分たちで稼いでいた。趣味では、ジュウシマツとかの小鳥も飼った。当時は、伝書鳩が現役で働いていた。伝書鳩のレースもあった。自分も伝書鳩を飼いたいと思ったが、これは実現しなかった。ハト小屋を作ったり、餌を用意したりで子供だけでは出来なかった。ウサギ小屋はリンゴ箱に金網を張る程度で子供にも作れた。

昔は、家の近くにスズメが棲息していたが、最近めっきり少なくなったようだ。そのかわり、キジ鳩が近くで棲息している。畑仕事をしていて2~3mほどに接近しても逃げない。ハトのデジカメ映像を探したら、数件見つかった。神社の境内、駅前広場、我が家の畑で撮影したものだった。
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2013年2月27日 (水)

ハトよ 鳴いておくれ:権現山遺跡の発見者相澤忠洋記念館を見学

2013年2月27日水曜日
昨日は晴れ。最低気温(℃) -1.8 06:15。最高気温(℃) 9.5 14:35 。ざっそう句:赤土に 賭けた執念 胸を突く。宅内閑居。無料電話で問い合わせ。待たされると思ったが、比較的順調につながった。先月、相澤忠洋記念館を見学したので、その時の様子を記す。

2013年2月26日の天気(AMEDAS)

TAVE= 3.1
TMAX= 8.8 最高気温(℃) 9.5 14:35
TMIN= -1.5 最低気温(℃) -1.8 06:15
DIFF= 10.3
WMAX= 5 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 9.5(西北西) 00:19
SUNS= 10.3
RAIN= 0

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ハトよ 鳴いておくれ:権現山遺跡の発見者相澤忠洋記念館を見学

日本に旧石器時代があったという考古学上の大発見をしたのが相澤忠洋である。その石器が発見された場所が岩宿。更にそれに続いて、相澤忠洋は伊勢崎市の権現山遺跡でも旧石器を発見している。

「岩宿遺跡。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%AE%BF%E9%81%BA%E8%B7%A1。(最終更新 2012年12月27日 (木) 15:50 )」『ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に、「岩宿遺跡(いわじゅくいせき)は、群馬県みどり市笠懸町1946-1にある旧石器時代の遺跡である。1946年(昭和21年)頃、当時在野の考古学者であった相沢忠洋によって発見された。この発見によって、日本の旧石器時代の存在が証明された。これ以降、日本全国において旧石器時代の遺跡の発見が相次ぐことになる。1979年(昭和54年)8月17日、国の史跡に指定された。」とある。

伊勢崎市ホームページは、「権現山遺跡。http://www.city.isesaki.lg.jp/www/contents/1355372901759/index.html。(2013年1月4日更新))」というタイトルで、「昭和25年(1950年)に相沢忠洋によって権現山の丘陵南断崖面の3地点から石器が採集された。」と報じている。

「相沢忠洋。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E6%B2%A2%E5%BF%A0%E6%B4%8B。(最終更新 2012年11月15日 (木) 12:30 )」『ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に、「相沢 忠洋(あいざわ ただひろ、1926年6月21日 - 1989年5月22日)は、日本の考古学者。納豆などの行商をしながら独学で考古研究を行っていたが、1949年(昭和24年)に群馬県みどり市笠懸町岩宿(旧新田郡笠懸村岩宿)(岩宿遺跡)の関東ローム層から旧石器(槍先形石器)を発見し、それまで否定されてきた日本の旧石器時代の存在を証明した。」とある。

相澤忠洋の著書に関して、「「赤土への執念」を読んで(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2009/01/13/)。(2009/1/13)」に読後感を書いた。旧石器時代人の人骨の発掘・発見が次の大きな夢であったようだ。従来から、酸性の火山灰土では古代人の人骨は溶解して残らないとされていたが、その常識を破る発見があった。渋川市の「甲装着人骨」の発掘・発見である。

東京新聞は、「甲装着人骨出土の金井東裏遺跡 複数の人骨発見。http://www.tokyo-np.co.jp/article/gunma/20130226/CK2013022602000165.html。(2013年2月26日))」というタイトルで、「 鉄製よろいを着けた人骨(甲装着人骨)が出土した渋川市の金井東裏(かないひがしうら)遺跡で、六世紀初頭の同じ火砕流に巻き込まれたとみられる人骨などが次々に出土している。県埋蔵文化財事業団は三月三~八日の午前十時から午後三時半、同市北橘町の同事業団調査センターで甲装着人骨など出土品を一般公開する。 遺跡では甲装着人骨や、乳児の頭骨、膝か肘とみられる三人目の骨に続き、一メートル離れた地点で数センチの骨の一部が見つかった。十センチぐらい離れた場所にある空洞との関連を調べるという。」と報じた。

甲装着人骨の保存期間はせいぜい千数百年。旧石器時代の人骨が残るにはその何倍も長い時間溶解せずに残る必要がある。残る可能性は極々小さいがゼロではない。可能性が小さければ小さいほど夢は大きくなるのではないか。相澤忠洋記念館は、旧石器時代の人骨が眠っているかもしれない場所に建てられている。発掘現場兼研究所だったようだ。一度行ってみたいと思っていた。運良くその願望が実現できた。相澤忠洋と殖蓮史談会会長の親交がそのキッカケになった。

相澤忠洋記念館を訪問したのは雪が降った後だった。舗装された本通りから細い坂道を上った小高い丘上の台地にあった。降雪でバスがスリップしそうになり途中下車して徒歩で登った。相澤忠洋の奥さんである館長が迎えてくれた。ビデオを見て見学している間に石油ストーブを出してくれた。その後、相澤忠洋の研究が世間に認められるまでの経過を説明してくれた。岩宿遺跡で発見された旧石器の実物はここにあるんですと強調して展示ケースを示した。帰り際、館長と会長のツーショットを撮らせてもらった。二人並んだ所で、私は後妻なんですよと言って姿勢を正した。世の鏡ですよと言ってお別れした。短い時間だったが印象に残る見学だった。(略敬称)。
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2013年2月18日 (月)

愛しき古里:鯉沼の堰堤に生え育った古木が醸し出す懐かしい風景

2013年2月18日月曜日
昨日は晴れ。最低気温(℃) -3.3 04:39。最高気温(℃) 7.1 15:24 。ざっそう句:バス旅行 寒気寒風 山冴える。朝、軒下の気温は-4.5℃の寒さ。旅行。山は目的地ではないが、冴え渡った山々を見られたのも収穫だった。

2013年2月17日の天気(AMEDAS)

TAVE= 1.7
TMAX= 6.7 最高気温(℃) 7.1 15:24 
TMIN= -2 最低気温(℃) -3.3 04:39 
DIFF= 8.7
WMAX= 5.8 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 10.4(西北西) 08:11 
SUNS= 9.9
RAIN= 0

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愛しき古里:鯉沼の堰堤に生え育った古木が醸し出す懐かしい風景

当地区の鯉沼については以下の記事を書いた。「ツルよ 飛んでおくれ(愛しき古里):旧伊勢崎市内のため池で唯一未整備の鯉沼の将来(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2012/11/post-689c.html)(2012年11月23日金曜日)」この鯉沼の東側に北関東道の伊勢崎インターチェンジがあるが、この周辺には、現在でも全く別世界のような農村風景が見える。

堰堤に、二本の古木が生えている。そのルーツを辿ると、鳥が運んできた糞のなかにあった雑木の種にたどり着くようだ。誰かが意識的に植えた物ではないらしい。その二本の雑木の大きさと生えている位置が丁度、絵になる関係にあるようで、近くに出向いたときにデジカメで写真を写していた。松や杉の古木なら、夫婦松とか呼ばれても通用するだろう。雑木なので気が利いた名前が付けにくいが、これまで生き延びてきたのだから今後も住民に親しまれる資格は十分にあるだろう。

樹高は、僅かに伸びているのかもしれないが、印象ではほぼ一定の高さを保っているようだ。その理由を考えると、沼の堰堤という、日照条件は良好でも、四方八方から沼越しの風を受けるので、風の影響で樹高がきまっているように見える。頂部に伸びるより、幹の下方や根の張り方に力点があるようだ。

沼の南側の道路あたりから見ると、赤城山を借景として絵のような構図になる。この風景は智鵜息の人が無意識に楽しんでいる風景ではないかと思う。沼の北側から見ると、古木の影が水面に映り、これも素晴らしい風景を生み出している。更に、堰堤は、昔は堤町と書上町を結んだ道路であり、現在はインターが出来ているので、その道路の役割が変わっている。散歩をしたり、自動車の運転手が休憩する場所でもある。やはり、人間は、だだっ広い所で休むより、日陰が出来たりする樹木がある場所の方がくつろげるようだ。
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BOPIX_KOINUM_ENTEI_KOBOKU_4PIX.jpgをダウンロード (鯉沼堰堤の古木拡大画像)

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2013年2月17日 (日)

ハト(鳩)よ 鳴いておくれ:愛しき古里:伊勢崎市役所北門脇にひっそりと佇む「石川泰三翁寿像」は何を想う(改題):アナタに伊勢崎の未来が見えますか?130217。

2013年2月17日日曜日
昨日は晴れたり曇ったり。最低気温(℃) -1.4 23:46最高気温(℃) 4.5 13:11 。ざっそう句:隕石か 小惑星か 見えぬ空。寒い一日。宅内閑居。ソ連に巨大な隕石が落下して大きな被害が出た。時を接して、小惑星が地球に最接近した。この隕石と小惑星は別物だが、普段目にすることのできない宇宙の底深さを教えてくれた。

2013年2月16日の天気(AMEDAS)

TAVE= 0.8  
TMAX= 3.4 最高気温(℃) 4.5 13:11
TMIN= -1.3 最低気温(℃) -1.4 23:46
DIFF= 4.7  
WMAX= 8.7 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 17.6(北西) 14:50
SUNS= 7.6  
RAIN= 0  

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読売新聞は、「小惑星、未明に無事通過…地球に最接近
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20130216-OYT1T00210.htm。(2013年2月16日09時05分))」というタイトルで、「【ボストン(米東部)=中島達雄】米航空宇宙局(NASA)は15日、直径約45メートルの小惑星「2012DA14」が日本時間の16日午前4時25分ごろ、地球に最接近し、インドネシアの約2万8000キロ上空を通過したと発表した。 NASAによれば、この小惑星と、ロシアに落下した隕石(いんせき)は、軌道が異なるため完全に無関係だという。」と報じた。

東京新聞は、「隕石落下、支援や復旧が本格化 重さ1万トンに修正。http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2013021601001844.html。(2013年2月16日 21時28分))」というタイトルで、「【チェリャビンスク共同】隕石落下で大きな被害を受けたロシア南部チェリャビンスク市では、一夜明けた16日、ロシア非常事態省の救援機が到着、医療支援や建物の復旧作業が本格化した。 米航空宇宙局(NASA)は16日、隕石の大気圏突入前の重さは約1万トン、直径は約17メートルと推定されると上方修正した。当初はそれぞれ約7千トン、約15メートルとしていた。」と報じた。

小惑星は観測で補足されその軌道が予測されていた。一方ロシアに落果した隕石は予測できなかった。その大きさが、直径約45メートルと直径約17メートルの差である。その比は2.65倍。その三乗は18.5。重量が直径の三乗に比例すると仮定すると小惑星の重量は大雑把に20万トン程度か。その小惑星の運動エネルギーは質量に比例するから小惑星が地球に落果するとロシアの隕石の20倍程度の威力になるのだろうか。広い宇宙ではこのような現象が頻繁に起こっているのだろうから驚きだ。


ハト(鳩)よ 鳴いておくれ:愛しき古里:伊勢崎市役所北門脇にひっそりと佇む「石川泰三翁寿像」は何を想う(改題):アナタに伊勢崎の未来が見えますか?

先日、用事で伊勢崎市役所へ行った。市役所北門のロータリー東側脇にやや高い石像が建っている。石川泰三の像だとは知っていたので、何回かデジカメで撮影したことがある。今回は、午後の西陽が当たる時間帯だったので、良い画像がとれるのではと期待して再度撮影を試みた。風が強く人影は疎らだったのでゆっくりと像に対面できた。像は西方を向いて建っているのだ。

灯台もと暗しというのか、あたりまえであえて見る必要もないのか、身近にあるものはつい見過ごしてしまう。改めて、写真を見ると、晴天で雲一つない青空を背景に、石川泰三翁が西方彼方を仰いでいる姿が写っていた。この像は、寿像で石川泰三が米寿を迎えたのを記念し、有志が顕彰のために建てたと説明板に記されている。

アイオー信用金庫のホームページに「いせさきフロンティア あなたの知らない28人の伊勢崎の偉人達(http://www.io-web.jp/info/local/PDF/frontier.pdf)」という記事がある。執筆者は「元伊勢崎市赤堀歴史民俗資料館長 板橋春夫氏」である。その記事の二番目に石川泰三が描かれている。

その記事によると、「石川 泰三 嘉永6年(1853)~昭和18年(1943):
大正時代、華蔵寺から茂呂までは見渡す限り水田と畑が広がっていた。市街地の一部を除くと貨物自動車や荷馬車などの通行に不便な道路であった。それを解消するために石川泰三(いしかわ・たいぞう)は、南北に抜ける大きな道路を造る計画を発表。大正13年(1924)に完成した通称「六間道路」である。建設当時は「無用の長物」「採取用の道路」「ぺんぺん草が生える」と陰口が言われたという。この道路は約11メートル幅で、現在国道462号の一部となっており、長く伊勢崎市内の幹線道路として重要な役目を果たしてきた。泰三の先見性を感じる事績であるが、大きな構想は時としてその時代に受け入れられないものである。」とある。

「伊勢崎市。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E5%B4%8E%E5%B8%82#.E6.AD.B4.E5.8F.B2。(最終更新 2013年2月12日 (火) 08:17)」『ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に、「歴史:1940年(昭和15年)9月13日 : 佐波郡伊勢崎町・殖蓮村・茂呂村が合併し、伊勢崎市が誕生。県内4番目の市になる。(人口40,004人)」とある。

大正の後半から昭和10年代は、まだ市内のほとんどが農村地帯であったようだ。丁度、この時代が母親の学生時代であった。家から学校までは畑や田圃だったと聞いた記憶がある。説明板は、石川泰三寿像の建立日を町村合併により新しい伊勢崎市制が施行された日であると記している。

光の加減で、デジカメ画像の碑文が読みやすかったので以下に読み出してみた。句読点は読みやすいように追加した。よごれのためか読めない文字もあった:「?方面委員」。正確には原文を参照。ともかく、伊勢崎市の市制が発足した翌年に、石川泰三の存命中に銅像が建てられたが、戦争のためその二年後に銅像が供出され、代わりに現在の石像が建てられた事が分かる。

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石川泰三翁寿像建設記
石川泰三翁ハ嘉永六年十二月廿六日伊勢崎ニ生ル。夙ニ教育ノ振興ニ志シ十八歳郷学責善堂肝煎、次デ赤石学校教員ヲ努メ、又回天義塾ヲ開キテ青年ヲ指導ス。明治十四年佐位郡那波郡学事委員ニ推サレ、同十六年郡書記トナリ、縣属ヲ歴テ、郡長ニ任ジ、大正二年退官ス。同四年伊勢崎町長ニ選バレ、昭和七年辞職ス。在職十八年、各種財産ノ蓄積、町役場、中学校、郵便局、水泳場ノ設置、職業紹介所、?方面委員、公益質屋等ノ社会事業施設ヲ為シ、且耕地整理事業ヲ完成シテ大都市計画ノ基礎ヲ確立シ、市制ハ本日実施セラル。曩(さき)ニ、華蔵寺沼ノ払下ヲ為サシメ現公園ノ基ヲ開ケリ。尚、南佐波郡農会長、其ノ他公私団体ノ要職ニ推サルル等。教育、産業、自治ノ発展ニ尽瘁(じんすい)スルコト前後七十余年、従五位勲四等ニ叙シ、又紺綬褒章ヲ下賜セラル。翁今茲ニ米寿ヲ迎フ。有志之ヲ欣ビ相謀リテ銅像ヲ建テ、聊カ功績ヲ顕彰シ、永ク風貌ヲ景仰セン。
昭和十五年九月十三日
寿像建設委員長 星野源左衛門 撰

附記
翁銅像は昭和十六年一月二十六日に建設されましたが、第二次世界大戦のため昭和十八年三月二十三日供出の止むなきにいたり、同年四月二十七日に石造を建てることが決定になり、同年九月十三日除幕式が挙行されました。(追記:一部入力漏れあり。2013/2/20)
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前記、板橋春夫氏の記事によると、石川泰三の銅像は、青銅製の全身立像との事で、代わって建てられたのはの石製胸像である。石川泰三は伊勢崎市制施行の昭和15年に米寿を迎え、生前に自己の銅像を見る栄誉に恵まれたが、「泰三は率先し銅像の供出を了承した」という記事を読むとその人柄が伝わってくるような印象を受ける。

「石川泰三翁寿像建設記」の末尾に「永ク風貌ヲ景仰セン」とあるが、顕彰者の気持ちを良く伝えていると感じる。改めて西方を見つめている、石川泰三の胸像を見ると、永い風雪に耐えて、時代を生き抜いてきた風格が出てきて、周囲風景に溶け込みつつも、何事かを問わず語りに語っているように感じる。

WIKIPEDIAによると、伊勢崎市の市域は、「1940年(昭和15年)9月13日 : 佐波郡伊勢崎町・殖蓮村・茂呂村が合併し、伊勢崎市が誕生。県内4番目の市になる。(人口40,004人)」と町村合併と市制移行で拡大し、その十五年後、「1955年(昭和30年) 1月10日 : 佐波郡三郷村を編入。3月25日 : 佐波郡宮郷村・名和村・豊受村を編入。」で二度目の拡大があり、更に市制移行65年後「2005年(平成17年) 1月1日 : 伊勢崎市と佐波郡境町・東村・赤堀町が合併し、伊勢崎市を新設。人口が約20万8,000人となる。旧伊勢崎市の面積は65.17km2、人口は133,175人(2004年(平成16年)3月1日)。」と平成の市町村の対等大合併で三度目の拡大があった。

まさに、伊勢崎市は、石川泰三が唱えた「大伊勢崎主義」のような流れに従って、拡大してきた。しかし、現在では、合併が進んだ結果、ほとんど市と市が接するような状況となり、市域の拡大という流れはほぼ限界に達したと想われる。むしろ、広大な市域の中のアンバランスをいかに調和させて行くかという課題に取り組む必要性が増大している時代を迎えているように感じる。

石川泰三の年譜を調べると、今年が生誕160年であり、かつ没後70年でもある。更に、2015(平成27)年には、伊勢崎市の市制施行75年と旧佐波郡赤堀町、東村、境町と旧伊勢崎市の市町村が合併した平成の大合併から10年という節目を迎える。

石川泰三の石像を見ていると、石川泰三翁は何を見て、何を語ろうとしているのだろうかと想像させる。石川泰三がほぼ百年前に考えた伊勢崎の中に、今日の伊勢崎の姿があるのも事実だろう。

市民も百年後の伊勢崎の未来を語らなければ、その未来は貧弱なもので終わってしまうのではないか。

Bopix_isikawataizou_jyuzou_2pix_ss

BOPIX_ISIKAWA-TAIZOU_JYUZOU_2PIX.jpgをダウンロード
(「石川泰三翁寿像」の拡大
画像)

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追記1(2014/12/13):本記事がいきなりランキング4位に入った。その理由が分からない。本記事のように、伊勢崎市が来年に平成の大合併で新市になり10周年を迎えるので、その点に関心を持つ人が検索してアクセスしたのか。来年は、伊勢崎町が伊勢崎市になって75周年でもあり、伊勢崎市の将来を考えるには相応しい節目の年になると思う。

伊勢崎市は20年毎程度に、記念誌を発行してきたが、最近その発行が滞ってるようだ。歴史は、その時々語り継いで行かないと、知らぬ間に消えてしまう。伊勢崎市役所はいつ現在地に移転したのか調べたが、NET情報では分からなかった。記念誌を調べたら、当時の様子を知る事ができた。

最近の10年間の変化のスピードは速い。それを、記録し後世に残す事は、後世への最大の贈り物になるのではないか。聞く所によると、定期的な記念誌の発行は、予算や人材等々色々な要因で困難らしい。そこで、新市誕生10周年に限定し、記念冊子を発行する計画はあるようだ。ぜひ、それが、次の市史発行につながる事を期待したい。

とくに、今なら合併当時の記録やそれに関わった人々も健在である。合併は市の姿を大きく変える事業である。新市誕生10周年を記念した冊子にも期待したい。市史は継続してこそ意味があるのではないか。全市民が合併して良かったと感じる時が来る事にも期待したい。そのためにも、新市誕生10周年記念冊子が市史継続の中継ぎになる事を願いたい。

追記2(2015/1/31):「愛しき古里:伊勢崎市役所北門脇にひっそりと佇む「石川泰三翁寿像」は何を想う」の記事が再度ランキング10位に入った。今年の正月前後にランク入りしていたので、「新」伊勢崎市誕生10年に関心を持った人がアクセスしたようだ。

うれしいニュースもあった。関係記事=「田舎老人徒然草:ハトよ 鳴いておくれ:石川泰三のお孫さんが書籍等を市へ寄贈!目出度くも 世間憚る 寝正月。(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2015/01/post-c0d6.html)。(2015年1月 1日 (木))」

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追記(2017/11/21):記事整形、過去BLOG再読、印象・コメント等
タイトル文字サイズ、色を変更。投稿日を追加。タイトルを変更:

愛しき古里:伊勢崎市役所北門脇にひっそりと佇む「石川泰三翁寿像」は何を想う⇒
ハト(鳩)よ 鳴いておくれ:愛しき古里:伊勢崎市役所北門脇にひっそりと佇む「石川泰三翁寿像」は何を想う(改題):アナタに伊勢崎の未来が見えますか?

ハト(鳩)よ 鳴いておくれのカテゴリーに入っていたがタイトルに入っていなかったのでカテゴリー名もタイトルに追加。今後この記事と次のシンボル画像の関係がイメージしやすくなる筈。現在ランキング10位。読者に感謝。

カテゴリーのシンボル画像:「ハト(鳩)よ 鳴いておくれ」

Googleにてキーワード「石川泰三」で本サイト内を検索

追記(2023/03/06):一昔前の伊勢崎市のイメージ。県内主要市と検索ヒット数を比較した表があった。現在、この記事のランキングは3位で古い記事ながら読者がいるようだ。読者に感謝。

Photo_2 原ファイル名=「伊勢崎市のイメージ(ネット調査).jpg」
平成22年は2010年。

追記(2024/03/16)石川泰三は大伊勢崎を提唱してその実現に邁進したようで、その構想が華蔵寺公園の「都市建設礎業」という記念碑に残されている。その記事にリンクを設定した。

「ハトよ 鳴いておくれ(愛しき古里):華蔵寺公園にある「伊勢崎耕地整理事業完成記念(都市建設礎業)碑」は何を語るか。20130506。(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2013/05/2013-a2f4-1.html)。(2013年5月 7日 (火))」で、「群馬県の都市の市制移行順位をまとめると、前橋市:1892年(明治25年)、高崎市:1900年(明治33年)、桐生市:1921年(大正10年)、伊勢崎市:1940年(昭和15年)、太田市:1948年(昭和23年)であった。本碑には、何も書かれていないが、市制移行というのが石川泰三の大きな野望であったように見えてくる。」と書いた。

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00001_アクセスランキング記録2017-PART2


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2013年1月21日 (月)

老人の寝言:無投票当選とは何じゃ 政治意識沈滞から脱却を

2013年1月21日月曜日
昨日は晴れ。最低気温(℃) 1.0 01:28 。最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 14.6(北北西) 12:36 。ざっそう句:沼風に 帽子取られて 泣き寝入り。散歩を兼ねて市議会議員補欠選挙の投票に行く。沼面を超えてかなり強い風が吹いており、帽子が飛ばされた。帽子は、コロコロと転げて、深い水路に落ちてしまった。愛用の帽子だったので、投票後支度して用具を持って救出に向かった。水浸しになったが、何とか回収できた。今回の補欠選挙は、市長選挙に伴って行われたが、市長選の立候補者が一人だけで、現行制度では初めて無投票当選が確定していた。そのため、投票率の低下が懸念されていたが、予想通りの結果となった。

2013年1月20日の天気(AMEDAS)

TAVE= 4.2
TMAX= 8 最高気温(℃) 9.0 13:41 
TMIN= 1.4 最低気温(℃) 1.0 01:28 
DIFF= 6.6
WMAX= 8.1 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 14.6(北北西) 12:36 
SUNS= 9.5
RAIN= 0

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以下は伊勢崎市市議会議員補欠選挙 開票(確定)=
http://www.city.isesaki.lg.jp/pcp_portal/PortalServlet?DISPLAY_ID=DIRECT&NEXT_DISPLAY_ID=U000004&CONTENTS_ID=13384。から引用。

午後8時41分現在 確定
 投票者総数 27,235人  開票率 100% 欠員 3

  市議会議員補欠選挙 開票 党派 氏名 得票数
無所属 森田 修 7,825
無所属 新藤 靖 6,838
無所属 三好 直明 6,366
   
無所属 藤生 浩二 3,926
無所属 萩原 勝喜 1,027

Isesaki_sigi_hoketu_senkyo_130120
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老人の寝言:無投票当選とは何じゃ 政治意識沈滞から脱却を

前回の衆議院選挙では、地方都市の長が国政と地方政治の両方に関与する弊害が問題になった。今回の、当市の市議会議員補欠選挙の投票率が17.02%と低迷したのにはとまどった。市長が無投票当選したという歴史的記録と共に投票率の市議会議員補欠選挙の投票率の低さも歴史的記録を更新したのだろうか。上毛新聞は市長選挙が行われない場合は、市政の争点が明らかにならない弊害があると指摘していたと思う。その指摘は妥当なものと考えられるだろう。

「無投票当選。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%8A%95%E7%A5%A8%E5%BD%93%E9%81%B8。(最終更新 2013年1月10日 (木) 13:24 )」『ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に、「無投票当選(むとうひょうとうせん)とは、選挙において立候補の届出者数が定数を超えなかった場合に、投票が行われずに、いわば不戦勝で候補者が当選する状態を指す。~日本 [編集]: 法律 [編集]公職選挙法第100条で無投票当選を規定している。地方自治体におけるリコールは通常の選挙による当選の場合は選挙後1年間はリコールができないという規定があるが、無投票当選の場合は当選翌日からでも解職請求が可能である。」とある。

公職選挙法第百条 4項(http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S25/S25HO100.html)は、「「参議院(選挙区選出)議員若しくは地方公共団体の議会の議員の選挙において第八十六条の四第一項、第二項若しくは第五項の規定による届出のあつた候補者の総数がその選挙において選挙すべき議員の数を超えないとき若しくは超えなくなつたとき又は地方公共団体の長の選挙において同条第一項、第二項、第六項若しくは第八項の規定による届出のあつた候補者が一人であるとき若しくは一人となつたときは、投票は、行わない。 」と規定している。

上記WIKIPEDIAの記事によれば、「無投票当選の場合は当選翌日からでも解職請求が可能である。」との事で、「無投票当選」が必ずしも有権者の信任を意味しない事、その職責に適任でない人物は解職できるという、制度的な保険を掛けているように感じた。「不戦勝」という事は、他の立候補希望者に勝ち目がないという判断を与えるだけの力量差があったとも取れるし、争点が見付ける事ができなかったという意味にも取れる。仮に、候補者が一人の場合も投票を行い、得票数が規定数以下の場合は再選挙というような規定があれば、候補者も気合いが入り、同時に行われる市議の補欠選挙の投票率も向上するのではないか。ともかく、投票率20%以下が有権者の政治意識の沈滞を示すものでないと願うばかりだ。地域の代表を選ぶという視点で今回の市議の補欠選挙での各候補の得票数を見れば、当選者は信任を得られていると考えられるのではないかと思われる。

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追記(2014/4/22): 「老人の寝言:無投票当選とは何じゃ 政治意識沈滞から脱却を(2013年1月21日 (月))。」がランキング10位に入った。

産経新聞は、「伊勢崎市議選に35人 群馬。;http://sankei.jp.msn.com/region/news/140421/gnm14042102100005-n1.htm。(2014.4.21 02:10 ))」というタイトルで、「伊勢崎市議選は20日告示され、2減となった定数30に対し、現職26、元職1、新人8の計35人が立候補した。党派別では公明3人、共産2人、無所属30人。」と報じた。

昨年の記事がランキング10位に入ったのは、多分検索エンジン経由でこのサイトに来たのだろうと推定した。

Googleでキーワード「伊勢崎市  選挙 2013年」を検索(https://www.google.com/?hl=ja#hl=ja&q=%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E5%B4%8E%E5%B8%82++%E9%81%B8%E6%8C%99%E3%80%802013%E5%B9%B4&start=10)。

試しに、上記キーワードでGoogle検索をすると、19位/約 43,800で本記事がヒットした。ご苦労様です。

追記(20145/6):
開票結果は:
「ツルよ 飛んでおくれ:「富岡製糸場と絹産業遺産群」でどこまでがんばれるか(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2014/04/28/)。(2014年4月28日(月))」末尾の追記を参照。
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2013年1月 9日 (水)

愛しき古里(大木の移植):鹿島町にあった「疣(いぼ)薬師とカヤの大木」。130109。

2013年1月9日水曜日
昨日は晴れ。ざっそう句:鮭カマを 買って大根 引く畑。赤蕪、山東菜、自働蒔き大根を収穫。スーパーで野菜の値段を見たら、この寒さのためか結構高かった。カセットテープの音源を音楽CDとして焼いた。卓上CDラジカセで動作を確認。ファイルサイズが数百Mbと大きい。チャチなCDラジカセで再生できるか気になる。8mm映画フィルムや8mmビデオテープを持っているが、再生装置が無いか、あっても動きそうにない。宝の持ち腐れが増えそうだ。

2013年1月8日の天気(AMEDAS)

TAVE= 3.1  
TMAX= 10.4 最高気温(℃) 10.6 15:19 
TMIN= -2.9 最低気温(℃) -3.4 06:08 
DIFF= 13.3  
WMAX= 3.9 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 6.5(西) 02:43 
SUNS= 9  
RAIN= 0  

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愛しき古里(大木の移植):鹿島町にあった「疣(いぼ)薬師とカヤの大木」

昨年末に、赤城見台公園へ出かける機会があった。伊勢崎聖苑とそれに隣接する赤城見台公園の南側の樹木が多い区画に「疣(いぼ)薬師とカヤの大木」という説明板が立っていた。標識の指示の方向に向かうと大きなカヤの木とその根元に古びた石仏があった。このカヤの大木は、鹿島町から現地へ移植されたと説明板に記されている。

移植時に、板碑や五輪塔の破片が出土し、それから推測すると600年の歴史があるらしい。薬師さまに対する長い信仰があった事を石仏と大木という証拠物件が証明照明しているのだろう。「疣(いぼ)薬師」という石仏を見ると風化が進んでいて、説明板がなければその由来は分からないだろう。頭部がくぼんでいるのは何か意味があるのか気になる。薬師さまは、庶民の疫病・健康への不安・心配事を受け止めてくれる薬師如来信仰として、地域に広まっていたようだ。

「薬師如来。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AC%E5%B8%AB%E5%A6%82%E6%9D%A5。(最終更新 2012年11月2日 (金) 13:18 )」『フリー百科事典ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に、「像容 [編集]:像容は、立像・坐像ともにあり、印相は右手を施無畏(せむい)印、左手を与願印とし、左手に薬壺(やっこ)を持つのが通例である。ただし、日本での造像例を見ると、奈良・薬師寺金堂像、奈良・唐招提寺金堂像のように、古代の像では薬壷を持たないものも多い。これは、不空訳「薬師如来念誦儀軌」の伝来以降に薬壷を持つ像が造られるようになったと考えられている。単独像として祀られる場合と、日光菩薩・月光菩薩を脇侍とした薬師三尊像として安置される場合がある。また、眷属として十二神将像をともに安置することが多い。薬師如来の光背には、七体または六体、もしくは七体の同じ大きさの像容がある。これは七仏薬師といって薬師如来とその化身仏とされる。 薬師如来の縁日は毎月8日である。これは、薬師如来の徳を講讃する「薬師講」に由来すると考えられている。」とある。

大寺院の薬師如来像は立派なのが多いが、民間の薬師如来像は素朴そのままのようだ。そう言えば、同じ頃、近くの地蔵山で見た石仏も、石の塊のような風情であった(ツルよ 飛んでおくれ(愛しき古里):今も貴重な田園風景を残す地蔵山古墳周辺。http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2012/12/post-15e8.html。(2012年12月24日月曜日))。

「地蔵菩薩。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E8%94%B5%E8%8F%A9%E8%96%A9。(最終更新 2012年11月10日 (土) 06:41 )」『フリー百科事典ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に、「地蔵菩薩 (じぞうぼさつ)、サンスクリット語クシティ・ガルバ(क्षितिघर्भ [kSiti gharbha])は、仏教の信仰対象である菩薩の一尊。クシティは「大地」、ガルバは「胎内」「子宮」の意味で、意訳して「地蔵」と言う。また持地、妙憧、無辺心とも訳される。三昧耶形如意宝珠と幢幡(竿の先に吹き流しを付けた荘厳具)、錫杖種子(種字)はカ (ha)。 大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人々をその無限の大慈悲の心で包み込み、救う所から名付けられたとされる。一般的には「子供の守り神」として信じられており、よく子供が喜ぶお菓子が供えられている。 一般的に、親しみを込めて「お地蔵さん」、「お地蔵様」と呼ばれる。」とある。

大木が移植してまで残るには相当な理由があるはずだ。また、それを残そうとした人々が居たはずだ。その作業の大変さと費用の大きさを考えるだけで切り捨てご免の例が多いと思う。米粒らしい供え物があるのでまだ信仰が残っているようだ。霊験あらたかなご神木となると、切り捨てご免という気持ちも萎えてしまうのか。大木には長い風雪に耐えた威厳のような物を感じる。そのような風格が出るまで数百年かかるが、切るのは一日で終わる。切ってしまえば、その大木はオーラを発しなくなってしまう。

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追記(2018/07/15):タイトル文字を大きく修正。日付追加。ランキング:3位。「赤城見台公園へ出かける機会があった。」:ここに幾つもの古墳があるとは思わなかった。

2013年1月 8日 (火)

ツルよ 飛んでおくれ(老人のヒガミ):赤城山に象がいたゾー

2013年1月8日火曜日
昨日は晴れ。最高気温(℃) 9.2 14:49。ざっそう句:七草の 粥も忘れる せっかちさ。老人モードで用事外出。畑から朝焼けを見る。障害物があるので太陽が顔を出すのは7時過ぎだ。カラスも電柱の頂上にとまって日の出を見ているかのようだ。GoogleDoodleは七草粥だったが、絵の中に「Google」の文字が見つからなかった。ある特定の人だけが分かるような工夫が暗号だ。絵を工夫しすぎたのか。一つの物も見る人により色々に見える。江戸時代に描かれた象を見ると想像力をたくましくして描いているように見える。実物を見ることも不可能に近く、伝聞や書物の情報を手がかりにしているためだろう。「群盲象を撫でる」という譬えがある。こちらは、実物があっても全体が分からない例。

2013年1月7日の天気(AMEDAS)

TAVE= 3.4
TMAX= 8.8 最高気温(℃) 9.2 14:49
TMIN= -0.4 最低気温(℃) -0.7 23:34
DIFF= 9.2
WMAX= 5 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 10.3(西) 02:03
SUNS= 9
RAIN= 0

Q
Q

ツルよ 飛んでおくれ(老人のヒガミ):赤城山に象がいたゾー

辞書を引くと「ヒガミ」:名詞「僻み」、動詞「僻む」、接頭語「僻」という関連語がある。和英では:a warped view;a bias(against)とあった。強引に「ヒガミ」=「僻見」とこじつけられそうだ。IBMのマイクロソフト対抗OSがOS/2 WARPだった。IBMのHPに「2006年12月31日をもちまして、OS/2のすべての活動が終了となりました。」とあった。

上毛カルタに「裾野は長し赤城山」という一札がある。昨年、山に現れる雪の図形で、その年の農作物等の吉凶を占うという話に出会った。それが鳥なら「農鳥」というらしい。長いと言えば象の鼻という連想が浮かぶ。そこで、赤城山の裾野に象を重ねた合成写真を作ってみた。赤城の鍋割りを象の頭に見立てると、その裾野が象の鼻に対応する。昨年、赤城山に軽い降雪があった時、鍋割りの頂上に楕円形の雪形が見えた。それが、象がかぶっている綿帽子のように見えた。

赤城山 ゾウの頭に 綿帽子

ゾウの頭の綿帽子がなぜ現れるのか。その部分が丘状なっており、大きな樹木が少ないので、積もった雪がそのまま見えるのかも知れない。それではなぜ大きな樹木が少ないのか。そりゃー、ゾウの頭に空っ風がまともに吹き付けるからさ。ありていに言えば、ハゲ山だ。いや、岩石地帯で根を張れる土が無いからかも知れない。ソウゾウの連鎖。生産現場の改善運動は、なぜ、なぜを三回繰り返すと本質に迫れると教えてくれる。自分なりには、赤城山にはまだ謎が多い。雲がかかる確率は、赤城山の鍋割り周辺の西方では低く、東方の長七郎、黒檜周辺では高いように感じるのだがそれも謎。そりゃー、標高の差だんべ~。真相はどうか。ヒガミ=a warped view?。IBMのWARPはSFの時空を超えるという意味がありそうだ。

「赤城山。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%9F%8E%E5%B1%B1。(最終更新 2012年10月1日 (月) 08:54 )」『フリー百科事典ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に「山の構成 :[編集]赤城山は複成火山であり、複数の山頂の総称である。山頂名は以下の通り。
黒檜山(くろびさん、1,828m) - 最高峰、外輪山。
駒ヶ岳(1,685m) - 外輪山。
地蔵岳(1,674m) - 山頂に各電波通信の赤城中継局が置かれている。
長七郎山(ちょうしちろうさん、1,579m) - 小沼火山の一部で、爆裂火口の小沼を囲む火口壁の一部。
小地蔵岳(1,574m) - 小沼火山の一部で、爆裂火口の小沼を囲む火口壁の一部。
鍋割山(なべわりやま、1,332m) - 側火山。
荒山(あらやま、1,572m) - 側火山。
鈴ヶ岳(すずかだけ、1,565m) - 側火山。」とある。
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    初心者向け柿栽培参考書(旧版)。新版と比較すると楽しい。
  • 山科正平: 12_細胞を読む   電子顕微鏡で見る生命の姿
    細胞はどんな部品からできているのか。そんな疑問に答えてくれる一冊。何事も形を見るのが第一歩。μからÅオーダーの世界で、細胞をメスで解剖するように、電子顕微鏡というメスで解剖して見せてくれるので興味が尽きない。
  • 柳田充弘: 11_細胞から生命が見える
    著者の専門は分子生物学、細胞生物学。普段生物を考えても細胞レベルで止まってしまう。その細胞の中で色々な分子が働いている。細胞こそ生命の基礎だが、その細胞の中の動きを知るのに最適な一冊。疑問の発端はなぜ発根剤が効くのかということ。薬剤が細胞膜を通過して細胞内で分子と分子が作用するイメージができた。本書でできた細胞のイメージは小さな無数の穴が空いた水分が充満したヨーヨーのようなもの。そのヨーヨーの中に分子部品が詰まっている。細胞自体もタライの中のヨーヨーのように浮かんでいる。細胞図面の空白部は真空でなく水分だ。細胞の内外に水がないと細胞は生きられない。水が生命のゆりかごだ!
  • 野口悠紀雄: 10_ホームページにオフィスを作る(2001年 光文社)
    ITが輝いた時代の作品。HPの活用法は参考になる。参考:url=http://www.noguchi.co.jp/(野口悠紀雄 ONLINE)
  • 小池洋男 編著: 09_果樹の接ぎ木・さし木・とり木(農文協:2007/3/31第1刷)
    やや専門的であるが、実務専門化が分担執筆しており、その場で役に立つ一冊。
  • ノーバート・ウィーナー(鎮目恭夫訳): 08_サイバネティックスはいかにして生まれたか(みすず書房1956)
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    2010/8/4:MEMO等の表示に使える。 農作業で気になる自戒の言葉 ■畑の石ころはいつまで経ってもても石ころ(早く拾って片づけよという意味か)。 ■同じ石を二度拾うな(やってみると難しい)。 ■手ぶらで歩くな。 ■三つ先のことを読め。 ■適当な観察。 ■空を見よ(気分転換、休憩、天気を読む、腰曲がり防止)