2012年8月20日 (月)

老人の寝言:特許連合は技術の進歩を阻害しないか

2012年8月20日月曜日
昨日は晴れ。ざっそう句:里芋の 水玉惜しい 夏日照り。最高気温(℃) 34.7 15:39 。真夏日で依然残暑が厳しい。朝飯前に畑仕事。背が高いヒユを抜く。里芋の根本の除草をしながら土寄せ。今年は、雨が少なく、畑が乾燥しているため、水分を好む里芋の生育に打撃を与えている。茎や葉が萎えて、黄ばんできている。中には枯れ葉も出始めた。里芋の葉にたまっている朝露を落として作業するので勿体ない。有効期限10年とあるS社の葉牡丹の種子をポットに蒔いた。前回蒔いたニンジンは完敗。芽が出たのは雑草だけ。インターネットブラウザは現在IE8とFIRE FOX14の二刀流。FF14でYOUTUBEを開いたら、「お使いのブラウザでは現在、YouTube で利用可能な動画形式はいずれも認識されません。HTML5 動画に関するよくある質問については、こちらをクリックしてください。」と表示され、YOUTUBEが使えない。

2012年8月19日の天気

TAVE= 28.7
TMAX= 34.4 最高気温(℃) 34.7 15:39
TMIN= 25.4 最低気温(℃) 25.3 06:00
DIFF= 9
WMAX= 4.4 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 9.0(東南東) 17:24
SUNS= 7.3
RAIN= 0

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老人の寝言:特許連合は技術の進歩を阻害しないか

早い話、YOUTUBEがFF14をはねつけた印象だ。対策はあるのか。独占が最終的には進歩や活力を阻害するのは世界の法則のようなもの。対抗馬の存在を許す事によりゲームが成り立つ。NO GAMEの世界となるとまさにヤミの世界が出現する。その点、日本の政治状況は最高のコンディションにある。今は政治の受益者である国民がキャスフィンクスティンボートを持っている。

IE8でYOUTUBEはどうかと試してみたらOKだった。ともかく、技術は、その当時扱えるハードの影響を受ける。情報通信技術の進歩に従って、音声単独から、音声と映像を統合できる技術へと進歩してきた。パソコン・CPUが安価に使えるようになり、マルチメディアが日常的に使える状況となった。YOUTUBEも創立以来の年齢から言えば、まさに小学校低学年。その急成長の背景に、パソコンや携帯の普及があった事に間違いはないだろう。

「YouTube。http://ja.wikipedia.org/wiki/YouTube。(最終更新 2012年8月18日 (土) 02:31 )」『フリー百科事典ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に「YouTube(ユーチューブ)は、アメリカ合衆国・カリフォルニア州サンブルノの YouTube, LLC が運営するインターネット動画共有サービスである。Youは「あなた」、Tubeは「テレビ(ブラウン管)」という意味である[1]。~ 歴史 [編集]:YouTubeはPayPalの従業員であったチャド・ハーリー、スティーブ・チェン、ジョード・カリムらが2005年2月15日にカリフォルニア州サンマテオで設立した[2]。初めて動画が投稿されたのは同年4月23日である[3]。設立のきっかけはハーリーらが友人にパーティーのビデオを配る方法として考えた結果に作った技術を使い、「皆で簡単にビデオ映像を共有できれば」と思いついたことによる[4]。11月7日、ベンチャーキャピタルのSequoia Capitalから350万ドルの投資を受け[5]12月より公式にサービスを開始した[6]。」

かつて、「JPEG特許問題」が話題になったと思う。「JPEG特許問題(http://oku.edu.mie-u.ac.jp/~okumura/compression/jpegpat.html)」にその経緯がある。ほぼ十年前、アメリカが震源地だったのは興味深い。アメリカのビジネス探鉱・ハゲタカ精神には脱帽するが、そのえげつなさを感じたら反撃すべきではないか。

WEB情報をたどると、「Firefox で Youtube の HTML5 動画が見られない(http://support.mozilla.org/ja/kb/Firefox%20%E3%81%A7%20Youtube%20%E3%81%AE%20HTML5%20%E5%8B%95%E7%94%BB%E3%81%8C%E8%A6%8B%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%84)」にたどり着いた。その記事に、「なぜ Youtube の HTML5 は Firefox に対応しないのですか? HTML5 標準には video タグの仕様が記されていますが、その コーデック までは記されていません。Youtube は動画のコーデックに H.264 を使用しています。このコーデックは特許で保護された技術であるため、ライセンス料金を支払わなければ使用できません。Google 社と Apple 社は H.264 デコードを彼らのブラウザで使用できるようにするため、この特許を保有している MPEG LA に巨額のライセンス料金を支払っています。 Mozilla は自由でオープンな Web を信じています。特許で妨げられたフォーマットに依って立つことは、ソフトウェア開発や創造性を、そのフォーマットの使用が許可された人々だけに制限することになります。例えば、H.264 形式の動画をコーデックの使用許可なしにあなたの Web サイトに掲載すると、H.264 の特許保有者があなたを損害賠償で訴えるかもしれません。 詳しい情報については shaver ? HTML5 video and codecs(英語) をご覧ください。 」とある。

この記事を読むと、「巨額のライセンス料金を支払」わねばならないという背景が浮かび上がる。「コーデック」とは、まさに動画処理のエンジンと理解すべきだろが、そのエンジンを無償で使えない。「MPEG LA 」とは、たとえれば「特許銀行」のようなもの。「H.264」はその画像処理一式をまとめた特許パックのようなもの。個々の特許を持つ特許権者が特許を出資しているようだ。一括で特許契約ができるメリットはあるだろうが、そのライセンス料金によっては、弱者を排除しかねないのではなかろうか。上記、「support.mozilla.org/ja」の記事からも、その気配が感じられる。

「H.264。http://ja.wikipedia.org/wiki/H.264。(最終更新 2012年7月23日 (月) 10:18 )」『フリー百科事典ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に「H.264:H.264(エイチにーろくよん)、MPEG-4 AVC(エムペグフォーエーブイシー)は、動画圧縮規格の一つ。 ITU-Tでは「H.264」として、2003年初めに勧告された。ISO/IECでは、ISO/IEC 14496-10 「MPEG-4 Part 10 Advanced Video Coding(通称:MPEG-4 AVC)」として規定されている。どちらも技術的には同一のものであり、ITU-TとISO/IECが共同で策定したため、両者の呼称を「H.264/MPEG-4 AVC」「MPEG-4 AVC/H.264」と併記することが多い。規格文書では「ITU-T Rec. H.264 | ISO/IEC 14496-10 Advanced Video Coding」と縦線で区切られており、「H.264|MPEG-4 AVC」などとすることもある。 従来方式であるMPEG-2などの2倍以上の圧縮効率を実現する。携帯電話などの低ビットレート用途から、HDTVクラスの高ビットレート用途に至るまで幅広く利用されることを想定している。 ~ウェブブラウザ [編集]:PCのウェブブラウザではAdobe Flashを通じて広く利用されている。スマートフォンなどでは動画フォーマットの選択制限が厳しいこともあり、デファクトスタンダードとなっている。 ウェブ表示の次世代規格であるHTML5にはvideo要素で動画再生を行う機能が盛り込まれており、これに使用する動画フォーマットについて、ウェブブラウザベンダーのアップルとマイクロソフトはH.264を推進しているが、Mozilla Foundationとオペラ・ソフトウェア、Googleはロイヤリティが発生する点などを問題視し、積極的な利用に難色を示している。そのためSafari、Internet Explorer、Google ChromeはH.264をサポートしているが、Mozilla FirefoxとOperaではサポートしていない。またGoogle Chromeも、今後H.264のサポートを取り除く方針を示している[3]。 Mozilla FoundationはH.264をサポートしないことを明言しており、この方針に反発した一部の有志が、Mozilla FirefoxにH.264サポートを追加したウェブブラウザを提供することを目的としたプロジェクトを立ち上げた[4]。これはH.264に関する特許が成立してない国のユーザに向けたもので、特許が成立している国のユーザは事実上使うことはできない。 マイクロソフトはMozilla FirefoxでH.264を再生できるようにするアドオンを公開している[5]。これは動的にvideo要素をobject要素に書き替えるという力技で実現しており、video要素固有のAPIが利用できなくなるという仕組み上の欠点を抱えている。」という記事がある。

国際規格が特許の固まりというのも、納得できないが、使いたくても使えないという基本技術が存在するのは何か矛盾を感じる。人類の知的活動の産物である特許権を、一部の個人や団体に独占的に与えるのは、既に時代遅れのようにも思える。現在YOUTUBEはHTML5対応へ移行中で、今後のインターネット活用の基本になるだろう。HTML5の標準では、H.264を埋め込む事も、別のエンジンを埋め込む事も、タテマエでは可能かも知れないが、これもしっくりしない。H.264の構成特許が切れるのを待つ以外に対策は無いのだろうか。

2012年8月19日 (日)

技術 回顧と展望:展望が開けぬ現在の状況を諦めるのか

2012年8月19日日曜日
昨日は晴れたり曇ったりの天気。ざっそう句:背丈ほど 伸びた草引く 残暑かな。最高気温(℃) 32.3 11:51 。真夏日だが、雲が厚く何とか農作業が出来た。虫が発生、ともかく見てくれとの電話。百姓は虫で文句は言えない。小豆が薄紫の花を付けていた。草をかき分けて、カボチャ1個収穫。一株一個の実力。あばたツラで器量もごく悪い。除草した区画に、自家採取したダイコンの種を蒔いた。二回目。一回目に蒔いた種子は発芽している。ダイコンの莢はナタネのように種子がはじけないので、莢を破らないと種子がとれない。この作業を日陰でしてから蒔いた。百姓先生夫婦と昨日漬けたスイカの皮を食べた。シャキシャキと歯ごたえは良い。身の部分も塩水に浸ったので甘みが増すように感じる。塩分補給になった。現役時代の会社のOBである平氏のBLOGを久しぶりに開いた。アップルのS.Jobsに液晶パネルの売り込みをかけた話はまさに、現代の史談に違いない。

2012年8月18日の天気

TAVE= 27.1
TMAX= 31.3 最高気温(℃) 32.3 11:51
TMIN= 23.8 最低気温(℃) 23.7 03:47
DIFF= 7.5
WMAX= 4 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 8.5(東南東) 17:55
SUNS= 4.7
RAIN= 0

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技術 回顧と展望:展望が開けぬ現在の状況を諦めるのか

ITmediaニュースは、「シャープの誤算・見誤った液晶パネルの海外生産 追加リストラ必至かhttp://www.itmedia.co.jp/news/articles/1208/16/news028.html(2012年08月16日 11時26分 更新)」というタイトルで、「「シャープの最大の誤算はグローバル展開を完全に見誤り、国内生産に力を入れてしまったこと」「世界の市場で戦うならば、海外で生産すべきだった」[SankeiBiz]」と報じた。

元技術者でエンジェル投資家の平強氏のブログ 「挑戦せよ(http://tsuyoshitaira.com/)」を久しぶりに覗いた。そのタイトルは「将を獲んと思わば馬を射よ。 Steve Jobs とのBusiness(12/08/17 金曜日11:13:17)」であった。この記事は、1988年当時、大型LCDパネルが実用化する以前の開発物語で興味をもって読ませていただいた。

LCDが表示装置として実用化された分野は、小型で十分な電卓や腕時計が最初だったと思う。当時はまだ信頼性に課題もあり、表示部はLEDのドットマトリックスを採用していたメーカーもあった。当時は、技術者垂涎の的であったhp社の関数電卓も同じく赤のLEDのドットマトリックスを採用していた。LEDは電流駆動デバイスで消費電力が大きい。従って、時計にLED表示を使ったので、時刻を知ろうとした時に、LEDを点灯させる仕組みだった。LCDの信頼性も確認されてやがてウォッチや電卓はLCD全盛の時代になる。

LCDが静止画表示に使われた最盛期はワープロの最盛期と重なるだろう。表示装置の性能に対応した商品が生まれるのも、技術的な必然といえるかも知れない。更に、白黒からカラーへ、ワープロからカラーディスプレーを経て、ようやくカラー動画を扱えるTV用のLCDディスプレーの時代になる。日本の家電メーカーも各社の技術的な背景に従いつつLCDビジネスに挑戦して来たと言えるだろう。ただし、カラーテレビでは画質が売り、更に大口径化への対応という事で、LCDディスプレーとプラズマディスプレーと二つの潮流が生まれた。更に、次世代の有機EL等明るい話題があったが、日本の現状を見ると残念と言う以外に言葉がない。

かつてのアナログのブラウン管式ディスプレーは、アセンブリー工業的な色彩が大きく、製造設備もテレビ生産の延長線上にあった。だが、LCDディスプレーとプラズマディスプレーの生産は、半導体の生産と同じような設備産業の要素が大きく、結果としては、半導体と同じ運命をたどるような状況となりつつあるように見える。

平氏のブログにS.Jobsが手書きしたLCDディスプレーの仕様(1988年)が掲載されている。当時、S.Jobsは33才、NeXTコンピュータに関わっていた頃のもののようだ。仕様に記された大きさから、コンピュータのディスプレーのようだが、具体的にS.Jobsが何を考えてこの仕様を書いたかはもはや知る由もない。しかし、この図面を見ると、S.Jobsがこういう物があれば、こういうビジネスが出来ると構想していたであろう姿は理解できる。

平氏は、単なる部品の置き換えのビジネスは非常に困難だが、新しく開発した部品ならビジネスに結びつけやすい。セールスマンよ、開発マーケッティングにチャレンジせよとセールスマンに檄を飛ばしている。この記事を読んで、現役時代の事を色々回想した。開発は企業としても、また企業の中でその仕事に従事する者にとってもリスクがある。単なる勇猛心だけではやがて挫折してしまう。しかし、チャレンジを避けるとやがて活力が失われる。

半導体、テレビ、カメラ、自動車等々、日本人の適性に叶った国際商品として、長い年月をかけて育て上げてきたが、将来はどうなるだろうかという一抹の不安を感じつつこの記事を読んだ。物作りの前に人作りが必要なのか。そもそも、人作り等不可能ではないか。一人一人が自分の夢を描けなくなってしまったところに停滞感が生まれているのか。この停滞感こそ何か新しい事が生まれようとしている前兆なのか。

2012年8月18日 (土)

読みかじりの記:検索エンジンからのリンクがどんどん増える! ホームページ アクセスアップ 完全計画  水野 貴明 著 (2003年 株式会社ソーテック社)

2012年8月18日土曜日
昨日は晴れ。夜雷雨。ざっそう句:この夏の 思い出込めて ROMを焼く。最高気温(℃) 37.3 14:37 。またも、猛暑日。灌水。その後は宅内でデジカメデータ整理等々。大きなスイカをもらったが、一度に食べ切れない。半分はそのまま冷蔵庫に。残りはサク切りにして冷蔵庫に保管。水分を含む内皮部分を切り出して塩漬けにした。昔は、スイカの皮も塩漬けで食べたのを思い出して試す気になった。16時頃、急に東風が吹き初めた。雷雨の気配。日射があるのに雨が降る、天気雨となった。その後本格雷雨。落雷対策。

2012年8月17日の天気

TAVE= 29.1
TMAX= 36.5 最高気温(℃) 37.3 14:37 
TMIN= 24.2 最低気温(℃) 24.0 22:41 
DIFF= 12.3
WMAX= 7 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 13.8(東南東) 15:55 
SUNS= 7.1
RAIN= 12

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読みかじりの記:検索エンジンからのリンクがどんどん増える! ホームページ アクセスアップ 完全計画  水野 貴明 著 (2003年 株式会社ソーテック社)

会社時代、HDDがクラシュして色々なデータを失ってがっかりした記憶がある。完全なバックアップというのは所詮無理。振り返ればバックアップ機能は至る所にあり、その必要性も重要性も明らかだ。業務に支障が出たのが、「お気に入り」データの消失。会社関係や業務に関係する情報を集めるにもインターネットがかなり役立った。「お気に入り」にurlデータをため込んでいたという事は、まだ今日ほど検索エンジンを使っていなかったのではないかと思う。

「Google。http://ja.wikipedia.org/wiki/Googleurl=。(最終更新 2012年7月17日 (火) 17:50 )」『フリー百科事典ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に「設立 1998年9月7日 、~従業員数 32,467人 full-time employees(2011年12月31日)」とある。

本書の出版が2003年であるが、その当時ではGoogleも設立後5年目という生まれたてに近い企業だったので、自分の記憶とも合っている。インターネットとそれに関わるビジネスは最早語り尽くす事は不可能な巨大な存在になってしまったようだ。英語版Google(Google.com)で「Google」を検索すると「約 13,920,000,000 件 (0.11 秒) 」と出た。同様に、「Yahoo!」を検索すると「約 872,000,000 件 (0.16 秒)」と出た。その比ははおよそ16:1でGoogleが圧倒している。「アジアの検索エンジンシェアhttp://www.globalmarketingchannel.com/information/search_share.html」を見ると、国毎に検索エンジンのシェアが異なるようだ。

本書の中に「Google八分の刑」というコラム記事がある。「Google八分」の扱いを受けたという人が書いた本もあったと思う。検索エンジンの影響力がはかり知れず大きくなった結果であろう。「お気に入り」全盛の前には、インターネットのアドレス集等分厚い本も出版されていた記憶もある。改めて時代の変化の早さを感じる。本書は検索エンジンを利用する立場から書かれており、参考になる。突き詰めると、インターネットも、子供がもしもしと話す糸電話と基本的には同じ構造ではないかと思った。通信回線という電話線(それが今は光や電波になったが)が無ければインターネットもあり得ない。

20~30年前頃は海外との業務通信はTELEXを使用していた。下書きを書いて、オペレーターに渡すとオペレータがタイプを打った。その内容を、先方のタイプが打ち出した。急ぎの時は、海外電話で直接話すが、時差があるので、通話相手が両方出勤時間範囲になるよう通話時刻を合わせた。その後はFAXの時代となり、海外とのやりとりも自分でできるようになった。その次がパソコンによる電子メールの時代。この時代までは、通信相手も限定され、ほぼ相手が特定できた。通信料金が高いのも制約条件だったろう。インターネット時代になると、情報伝達のスピードが上がり、コストが下がった。そういう条件ができたので、不特定多数との通信が可能になったのだろう。安くて、早くて、便利というコンビニスタイルができあがった。その裏には巨大なブラックホールが潜んでいたのだが。

2012年8月17日 (金)

果樹を楽しむ:初めてなったバイオチェリー。120817。

2012年8月17日金曜日
昨日は晴れ。ざっそう句:送り盆 位牌が語る 過去の縁。最高気温(℃) 36.8 14:46。熱帯夜で猛暑日。最低気温(℃) 25.5 04:40 から上昇に向かうので、すぐに暑くなってしまう。桔梗苗周辺を草かき。あまりの暑さに、それだけで撤退。盆棚を解体して片づける。ようやく一区切りついた。今年、盆棚に供えたのは、収穫物のオクラ数本と邪魔になり引き抜いたミョウガの株にぶら下がっていたミョウガ数個。今年、数個初生りした、バイオチェリー(多分)は圃場での試食で終わってしまった。

2012年8月16日の天気

TAVE= 30.4  
TMAX= 36.1 最高気温(℃) 36.8 14:46
TMIN= 25.7 最低気温(℃) 25.5 04:40
DIFF= 10.4  
WMAX= 3.6 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 8.0(南東) 14:53
SUNS= 11.7  
RAIN= 0  


http://weather.time-j.net/Summer/Todayから、昨日の最高気温ランキングを以下に記す。今後数日間も暑そうだ。

順位  観測地点    気温(℃) 起時
1   群馬県 館林   37.2    15:14
2   埼玉県 鳩山   37.1    14:05
3   埼玉県 熊谷   37.0    15:48
4   兵庫県 豊岡   36.9    14:47
5   群馬県 伊勢崎  36.8    14:46


果樹を楽しむ:初めてなったバイオチェリー

「バイオチェリー」とは余り聞いたことのない珍しい果樹で、つい苗を買ってしまったようだ。ニッポン緑産の品種説明を以下に引用する。育成者については記載がない。樹体はスモモの木という感じだ。実の色はアメリカンチェリーの特徴を残し、黒ッポイ。果肉の方はスモモの特徴があった。収穫適期が分からないので、もいだ所で試食。ともかく、作物は味、外形、色等々は栽培条件や収穫時期、追熟の有無etcに左右されるところが大きいと思う。

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バイオチェリー BIO CHERRY (http://www.ryokusan.com/pro/plums/index.htmlニッポン緑産ホームページより引用)
育 成 アメリカンチェリーにプラムを交配し育成した属間交配による新果実
果実の大きさ 20~30g(摘果)
糖 度 16~18%
果 肉 ジュース多く夏のくだものとしては有望。
交配樹 ◎スモモの交配樹としても利用できる。
収穫期 7/下~8/上
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スモモの交配樹としても期待できそうだ。人工授粉してやるのが確実なのだが、それも不可能なので。来年を楽しみに手入れをしたい。整姿、剪定(プロの技術が生きる部分?)が苦手なのだが。
Bio_cherry_120811


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追記(2018/04/14):花~実までの画像が揃ったので、それをアニメGIFにしてみた。時間間隔は2秒。

Iob_2018_anime_bio_cherrgif
原ファイル名=「IOB_2018_ANIME_BIO_CHERR=アニメGIF=バイオチェリーの花から実まで.gif」
IOB=IMAGES ON Beloved Ones

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追記(2014/1/12):
サイト内でキーワード「果樹を楽しむ」を検索(https://www.google.com/?hl=ja#hl=ja&q=%E6%9E%9C%E6%A8%B9%E3%82%92%E6%A5%BD%E3%81%97%E3%82%80%E3%80%80site:http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/)。

追記(2014/5/9):
「果樹を楽しむ:初めてなったバイオチェリー」の記事がランキング4位に入っている。もう今年の花は終わって幼果が出来る頃か。まだ様子をみていない。完熟してから食べようとすると、既に時遅しというのが実態だ。以下の記事は、その時の様子。「環境雑録;食べて生きる;半端道楽:クワガタとアゲハチョウが仲良く果汁を吸っていた?!(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2013/07/post-9c13.html)。(2013年7月24日(水))」

追記(2014/5/16):
今年の実付きはどうかと調べてみた。花は沢山咲いた、実は所々にある程度で豊作は期待できそうにない。受粉させてやる必要があるのか。

Iob_biocher_20140516
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追記(2014/6/13):当記事のランキングは現在8位に入ている。徐々に低下しているようだ。デジカメを交換しようと試し撮りをしている。丁度10年位前の中古品が後続機候補H号。センサーはCMOSのようだ。WEB情報しかないのでそれを頼りに遊んでいる。このH号はメカシャッターが付いていないので、クニャリと曲がった画像になる事もあるようだ。色々設定を変えないと最適な画像にならないようだ。おかげで、露出やホワイトバランスの設定に親しめる。前回のデジカメはR号。果実のおおきさは余り変わっていないようだ。成熟中なのか。

Iob_biocher140613h
追記(2014/6/27):本記事はしばらくランキング上位に入っていたがランク落ち。再度ランキング10位に入っている。果実がようやく色付いてきた(写真参照:DSC=6/27)。最近、山形のサクランボのニュースを聞いた。これからシーズンに入りそうだ。

Iob_biocherry_140627
追記(2014/7/12):本記事のランキングは現在5位。調べるとこの苗は2009年にイシドーより購入したスモモ台。今年で5年目となる。脚立小で手の届く範囲の果実を収穫した。まだ完熟手前だが色々な昆虫が集まっていた。電気虫やケムシもいるので油断できない。整枝剪定をしていないのでどんどん大きくなりそう。

Iob_biocherry_140712
追記(2015/2/20):「果樹を楽しむ:初めてなったバイオチェリー」の記事がランキング8位に入っている。春の果樹苗植え付けシーズン到来なのか。ちなみに、我が家の果樹台帳には;090317:バイオチェリー(スモモ台)。イシドー@1XX5。と残っている。果樹台帳に履歴も残すと面白いが、最近は台帳がROMに近い。バイオチェリーの前には06年に佐藤錦を植え08年に枯らしている。サクランボは受粉の関係で数本植えたが全滅。素人に店頭に並ぶようなサクランボができれば奇跡と思った。暖地桜桃は少し実がなったが、鳥が先に食べてしまった。バイオチェリーは今年で購入から6年目となり、一人前になったようだ。樹高が結構高くなり、野菜畑が日陰になる。そうだ、種生姜を貰ったので、その辺に植えようか。越冬がうまく行ったか?今年は芯抜きをしようかと考えていたが、生姜あるからまた手抜きになりそうだ。嬉しがって食べてくれる人がいれば、庭先果樹作りも張り合いが出てくる。最近は、自然落果したハッサクをかみさんが拾ってきて食べ始めた。それでもやったぜと嬉しい。どんなサプリメントより安くて有効だと気付いたのか。食べてくれる人を作れば果樹作りの楽しさは倍増に違いない。 

追記(2016/05/21):たまたま、実のなり具合を見たら、ちらほらなっていた。熟す前は、実も葉も同色系で区別しにくい。

Iob_biocherry2016

Iob_biocherry20170507
追記(2017/05/07):この記事には、花と幼果の様子がまだ未掲載だ。見ていても、撮影していない場合が多い。幼果がどの程度大きくなっているか見たが、豊作というほどではなかった。逆光ではあるが、適当な高さに幼果があったので、フラシュを発光させて撮影した。

Iob_biocher170623 追記(2017/06/23):色が付き始めた頃の果実。色は綺麗だが、果肉はまだ固い。酸味が強く、まだ甘みは少ない。収穫した五個は試食で食べ終わった。

Iob_biocherry20170711 追記(2017/07/11):数個収穫して食べた。果肉はやや固いが甘みと酸味が良く調和している。

追記(2017/11/10):タイトルに投稿期日を追加;タイトル文字を太くして着色:現在は落葉が進み木の枝が見えている。アクセスランキングから消えていたが二位になった。何故か。1~2ヶ月前に東北地方の果樹業者からカタログが送られてきた。果樹の植え付けシーズンになったためか。畑の南側に植えたので、夏は日陰で栽培の障害になる。でも、今年はその下でポット上げの作業が出来た。木の下の清掃が出来れば良いが、ゴミ捨て場にもなっている。アメリカシロヒトリ等のケムシも着くが、頭上から落ちてくるほどヤワではない。デンキムシ・イラガの幼虫には要注意だ。

追記(2018/02/01):この記事が現在サイト内ランキング2位に入っている。その理由がはっきりしないのだが、果樹苗を植える時期になったのかなと、勝手に考えている。検索するとスモモの実がならないので、受粉樹を調べている人もいそうだ。父が、スモモを作っていた時期があった。果肉が赤みを帯びるサンタローザも結構実を付けていたと人に聞いた事がある。当時は、スモモの事など全然関心が無かったので、他に何を植えていたか分からない。だが、薄手のスモモ栽培の本が残っていたので、それで勉強したのだろうと思う。その後、定年頃になって、今度は自分が、スモモを植え始めた。カタログを見て、美味そうな苗を買ったが、受粉樹は植えなかった。見事に、スモモ栽培は失敗した。定年後、県の農林大学校の就農者向けの果樹研修コースを受講した。そこで初めて受粉が大切な事を知った。受粉の花粉親が収穫に関係するのがスモモやブルーベリー等だと知ったが、果樹への関心は薄れていった。リンゴも受粉の相性がある。結局、オレにはバラ科の果樹は不向きだという結論に達した。受粉樹を考える必要が無いのがミカン。ミカンに種が入れば食べにくくなるだけ。かくて、この記事のバイオチェリーは、スモモ栽培の最後の生き残り品種として、酸っぱい記憶を呼び起こしてくれる。だが、この木があれば、一年一年の歳月が巡るリズムを感じさせてくれるのである。福島天香園さんからは、今年用の果樹カタログを送ってもらった。顔が赤くなりそうだ。感謝。読者にも感謝。

「追記(2018/03/23):アクセスランキングを見ていると最近この記事がトップを走っている。畑に出て、ネギやニラの手入れが終わり、ふと空を見るとこのバイオチェリーの花が満開であった。アクセスランキングと花の開花状態に相関があるとは?ちょっと考えすぎだが...。撮影時刻は14:30頃。ようやく、この記事にバイオチェリーの花の画像を入れる事が出来た。

Iob_2018_bio_cherry_20180323
原ファイル名=「IOB_2018_BIO_CHERRY_バイオチェリー20180323.jpg」
IOB=IMAGES ON Beloved Ones

スモモの木 カブトムシ追い 子等走る

こんな子供達の姿を見ると、自分の子供の頃も思い出す。
子供達が姿を見せるのが夏祭り頃。
御神輿を投げ出してスモモの木に駆け寄ってくる。

追記(2018/04/14):今年の春は暖かく、バイオチェリーの開花も早かったようだ。そこで、実のなり具合を調べて見たら、既に幼果が付いていた。花粉を媒介する昆虫の活動はどうだったのか。まだ、花ガラは付いており、実が膨らんでいる割合が少ない。どうも、豊作ではなさそうだ。

Iob_2018_bio_cherry_youka__20180414
原ファイル名=「IOB_2018_BIO_CHERRY_YOUKA_バイオチェリーの幼果_20180414.jpg」
IOB=IMAGES ON Beloved Ones

追記(2018/06/24):最近の我が家のバイオチェリーの状況はこちら:
身辺雑記:田舎老人徒然草:老人の寝言:毎日が特売日じゃぁ困るナ~。財布はレシートとクズカードと小銭で満杯だ;虹の橋 地獄へ渡る 記者会見。180624。

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下記記事から、スモモの相性マップをここにコピーしておく。

00A_参考資料(気温グラフ等)へのリンク

http://af06.kazelog.jp/photos/uncategorized/2010/08/20/photo.jpg

がんばれ! ふくしま:福島天香園の果樹カタログ(2011年10月12日 (水))の記事へのリンク

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2012年8月16日 (木)

歴史の転換:WEB上で「玉音放送」を聞く

2012年8月16日木曜日
昨日は曇り時々晴れ。雑木の歌:重苦し 玉音放送 流れし日 真夏日なれど 清けく思わる。またも、真夏日で熱帯夜。雨後で灌水は休み。ミニトマト、ナス、オクラを収穫。お盆の用事で外出。ついでに家電量販店等をまわる。win7からWIN8へのVER UPに関して店員に聞いたが、はっきりした事は分からなかった。WEBで調べたら、Windows 8製品版は10月26日発売らしい。WIN XP SP1とIE6の組み合わせでは、MICROSOFTのSITEから情報すらとれない。そんな訳で、暑さの中、泣く泣くSP1⇒SP3、IE6⇒IE8へVER UPの作業をした。PCの動きが重く、モタモタしてきたように感じる。だが、YOUTUBEからは、ブラウザが古いと叱られなくなった。8月15日は終戦記念日。当時の人々はどんな気持ちでこの日を迎えたのか。

2012年8月15日の天気

TAVE= 28.2
TMAX= 32.2 最高気温(℃) 33.0 15:27 
TMIN= 25.4 最低気温(℃) 25.4 06:27 
DIFF= 6.8
WMAX= 2.5 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 4.9(南南東) 10:40 
SUNS= 2.3
RAIN= 1

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歴史の転換:WEB上で「玉音放送」を聞く

先日は、久しぶりにわが愛車の軽トラの車台とシートを掃除・水洗した。もちろん、クーラーはなく、換気ファンが付いているだけ。暑いときは大変だ。駐車時はたちまち数十度になるが、窓全開で走行中は何とか我慢できる。昨年も、同じような記事を書いていた。「老人の寝言(1945年8月15日の天気は日本の未来を語ってくれるか。2011年8月15日 (月))http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2011/08/2011-4.html」。

WEB上には、「1945年8月15日、東京の最高気温は32.3℃。(http://blogs.yahoo.co.jp/wth_map/58355244.html)」という記事があった。昨日の当地のMEDASのータと比較すると、丁度「玉音放送」が流れた頃の、東京の最高気温と同じ程度の暑さだった。真夏日で、エアコンもない暑さの中で、あの放送を聞いたとはと、今まで思ったこともない。昨年の8月15日の最高気温は35℃台だったが。当時、「戦争に負けた」という気持ちより、「戦争が終わった」という気持ちの方が強かったように感じるが、どうだろうか。

「玉音放送。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E9%9F%B3%E6%94%BE%E9%80%81。(最終更新 2012年8月15日 (水) 16:37 )」『フリー百科事典ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に「玉音放送(ぎょくおんほうそう)とは、天皇の肉声(玉音)を放送することをいう。特に1945年(昭和20年)8月15日正午(日本標準時)に、社団法人日本放送協会(当時)にてラジオ放送された、昭和天皇による終戦の詔書(大東亜戦争終結ノ詔書、戦争終結ニ関スル詔書)の音読放送を指すことが多く、本項ではこの放送について記述する。この放送は、太平洋戦争(大東亜戦争)における日本の降伏を国民(正確には臣民)に伝えるものであった。」

尚、上記WIKIPEDIAの「玉音放送」の記事の一部として、「玉音放送」の音源が収録されているがIE8は非対応だった。標準で対応しているFIRE FOXをインストールして聞くことができた。思うに、戦後日本の原点はこの「玉音放送」にあるだろう。感慨を新たにした。

2012年8月15日 (水)

幼少の頃:盆棚の作り方

2012年8月15日水曜日
昨日は朝方雨。後曇りから晴へ。ざっそう句:上がり込み 雨の新盆 長話。つい遅れたが、朝一番で盆棚作り。一部手抜き。花は周辺に咲いている、萩、ジニアを飾る。その後新盆見舞いに出る等お盆行事etc。雑談で昔の盆棚の作り方が話題になった。

2012年8月14日の天気

TAVE= 27.7
TMAX= 32.3 最高気温(℃) 32.8 15:35
TMIN= 23.8 最低気温(℃) 23.7 09:04
DIFF= 8.5
WMAX= 3.8 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 7.5(西北西) 05:41
SUNS= 5.3
RAIN= 12.5

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幼少の頃:盆棚の作り方

Googleの「盆棚」という検索の画像検索をすると約 888,000 とヒット数が出た。色々な画像があるが、「盆棚」のルーツはどこにあるのか興味がある。ちなみに、「お盆休み」:約 9,760,000 件、「京スカイツリー」:約 7,390,000 件、「デズニーランド」:約 6,610,000 件、「甲子園」:約 2,050,000 件のヒット数。お盆とそれを象徴する盆棚は国民的関心事と思われるが、都会と田舎は別。都会は欲望の渦巻く場所、田舎は欲望からの癒しの場所。古来変わらない二層構造がここにある。良い意味で都市と地方の機能分離、悪い意味で都市と地方の格差。でも、地方が疲弊したら都市も疲弊しないか。

幼少の頃、父が作っていた盆棚は、あり合わせの用具を使っていた。話を聞くと、よその家も同じような作り方をしていたようだ。先ず、台は養蚕で使う、蚕に桑を与えるときにカゴをのせる、床几(折り畳みイス)を大きくしたような台を流用した。その台の上に戸板を渡し、四隅に、竹や養蚕に使う棚柱等を立てた。昔は、竹はあちこちで入手できた。その台ができると、新品のゴザを敷いて、その上に位牌や供物、仏具等を並べる。ゴザとキンキラキンの盆花は毎年買った。香炉は火事になる危険があるので、サトイモの葉を下に敷けと教えられた。経済の高度成長期は、養蚕の衰退期に重なり、昔風の盆棚は、組立式の盆棚に代わってきた。新盆の時は、新しい仏は専用の盆棚を使うという風習があるらしい。従って、古い仏用と新しい仏用の二つの盆棚を用意する。新盆の家は出費もバカにならない。そこでレンタル盆棚も登場しているようだ。そのレンタル料も施主の足下を見たような結構な値付けのようだ。毎年使うのだから買ってしまえと言う事になる。一方、都会では盆棚はおろか、仏壇さえ設置スペースの確保ができない。お盆行事も風前の灯火になりつつあるようだ。何事も施主の信念が大前提。新盆の気持ちを表したいなら、一枚数十円の色つき画用紙を方形に切り、その上に新仏の位牌を配するだけで十分ではないか。大金で故人を供養するより、あり合わせのものと無理せずできるわずかな出費で、心をこめて祖先を供養してきた姿がつい最近まであったのだ。

2012年8月14日 (火)

幼少の頃:お盆迎え

2012年8月14日火曜日
昨日は曇り時々晴れ。ざっそう句:汗かくも 家片づかず 盆迎え。日照時間は3.3H。それでも熱帯夜、猛暑日。最高気温(℃) 36.7 12:52 。AMEDASデータでは1H毎の最高気温は34.1℃。瞬間の最高気温(℃) 36.7との差が大きい。10分毎のデータを見ると、12:50 に36.1 ℃。風は2.1 南南東。平均で 4.4 南東 日射は10 。瞬間的に高温になる条件が重なったようだ。朝飯前に灌水。チガヤ綯い。家の周りの片づけ。楠の落葉を放置。更に雑草。庭木の枝伸び等々で作業が重なる。定刻となり中断。シャワーを浴びて新盆見舞い。

2012年8月13日の天気

TAVE= 29.9
TMAX= 34.1 最高気温(℃) 36.7 12:52
TMIN= 26 最低気温(℃) 25.9 06:37
DIFF= 8.1
WMAX= 1.8 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 5.4(東南東) 00:07
SUNS= 3.3
RAIN= 0

Q
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幼少の頃:お盆迎え

お盆という風習だけは、戦後からも大きく変わっていないようだ。幼少の頃は、寺へお盆迎えに行くのは子供の仕事。その間に父母が色々な仕事をこなす。役割分担があった。当世は、お金で済ませられる所はお金を払って省力化をする方向だ。ともかく、自分の代だけは、オヤジの真似事でも続けようかと思っている。チガヤを刈り、陰干しし、木槌で叩いてから、綯うというのも一連の作業だ。それを、盆棚に取り付け、棚を飾る。見方によれば、無駄な仕事をしているようだ。しかし、昔なら、縄を綯う事は、農作業の基本でもあった。縄も、俵もすべてコメの出荷には不可欠で、それを自給自足した。労賃ゼロで費用を削減していたわけだ。綯わないもそういう事を伝える作用はあるだろう。仏壇があるのに、なぜ盆棚なのか。考え始めると、不可解の山がそこにある。大昔は仏壇等の贅沢品は庶民には無縁だった筈だ。だが、祖先供養は何とかしようという事で、一時的な盆棚を作るようになったのではないか。いわば、盆棚は仮設仏壇だ。本格仏壇があるのに、仮設盆棚を作るのは、まさに屋上屋。逆の見方では、そんな事をなぜ延々と行うのか。縄で区画を区切る事は何かの象徴だろう。家の起工式の神事でも、同じような事をする。その時々の事情に合わせて、できる範囲でするだけで良いのではと思う。新しいことを始める動機付け、セレモニーと考えよう。

2012年8月13日 (月)

身辺雑記:お祭りが終わってすぐお盆

2012年8月13日月曜日
昨日は晴れ。最高気温(℃) 34.0 13:27。真夏日だったが、やや雲が厚く、お祭り向きの好天気。雑木の歌:笛太鼓 ビンビン響く 缶ビール 屋台の谷間 子供ら写す。土曜日のお湿りは作物には不十分、翌朝はすでに乾燥気味。朝飯前に先ず灌水。お盆のチガヤを刈りに出かける。そこに、知人が通りかかって歩道の縁石に腰をおろして雑談。その後、水路と田圃の脇の刈払。続いて、家の周りを刈払。時間を見ると、祭りの集合時刻直前。さお、お祭りだ。

2012年8月12日の天気

TAVE= 28.4
TMAX= 33.2 最高気温(℃) 34.0 13:27
TMIN= 24.5 最低気温(℃) 24.4 05:24
DIFF= 8.7
WMAX= 3.3 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 7.1(東南東) 22:23
SUNS= 5.8
RAIN= 0

身辺雑記:お祭りが終わってすぐお盆

今年は、お祭りが終わった翌日がお盆の入り。なにかせわしい。お盆迎えまでには家のまわりをきれいにするのがしきたりだが、それが後手にまわっている。伸びきった雑草の刈払を中断して、お祭りの準備。いざ家を出るところで携帯の呼び出し。まだですか。今出るところです。そば屋の出前みたいでスイマセン。百人御輿が終わるとすぐに屋台巡行・競演に入る。夜陰が迫る毎に演奏は盛り上がってゆく。最後には屋台のOG、OB達も飛び入りして最高に盛り上がった。ウチの連中が叩くと鉦も破れてしまいそうだとベテランの呟きは満足そうだった。

2012年8月12日 (日)

愛しき古里:お祭りに花を添える恵みの雨

2012年8月12日日曜日
昨日は曇り時々晴れ。最高気温(℃) 35.3 13:22。雲はやや厚かったが猛暑日。ざっそう句:お祭りに 景気を付ける 恵み雨。朝飯前に苗移植。2回目。土が乾き、さらさらしているのでテンガを使っても土が刃に付かない。最初は雲が厚かったが、やがて日射が強くなり中断。たまたまムクゲの幹を見たら、カブトムシが何匹も集まっていた。先日、丹波の黒豆の除草をしたが、地面や葉の下にカナブン?が多数動いていた。黒豆の葉はもう透けて見えるほど穴だらけになっている。農薬を使わないで退治する方法はあるのか。午後は、空模様を気にしながらお祭りに加わる。

2012年8月11日の天気

TAVE= 27.8
TMAX= 33.6 最高気温(℃) 35.3 13:22
TMIN= 24.5 最低気温(℃) 24.4 23:58
DIFF= 9.1
WMAX= 3.2 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 8.7(南東) 16:11
SUNS= 4.9
RAIN= 2

Q
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愛しき古里:お祭りに花を添える恵みの雨

恒例の地域のお祭りは、一年ごとに時を刻む。そのお祭りに向けて、地域住民は屋台囃子の練習をして、万端の準備を進める。一つの目的に向けてエネルギーを集中できないとお祭りは不発に終わる。前回7 月の地区のお祭りでは、雷雨の影響で最後の演目が多少影響を受けたが、抽選会が終わった頃恵みの雨となり無事閉幕。8月のお祭りは市内最大のスケールで行われる。日頃の練習の成果をアピールできる待望の舞台だ。子供や父兄、関係者の期待と不安は大きい。また雨になると、子供が可哀そうだ。そんな話をしながら巡行の時間を待つ。

15時過ぎ、天気予報の通り、パラパラと雨が降り出した。最近の天気予報は良く当たると言う声。父兄等は屋台の屋根に登り、雨除けの透明シートを設置する。今回の雨は、ゴロ、ピカ、ザーという典型的な雷雨ではなく、小降りで降ったり止んだりするおとなしい雨だった。AMEDASによると、祭りの時間帯の降雨は1.5㎜。傘をさした観客もいたが、祭りの参加者は傘無しで済んだ程度の雨。

たまたま、声をかけた隣地区の人と雑談。話が進むと、あの人を知っているかい。うちの遠い親戚だ。エッ、うちからも遠い親戚ですよ。祭りがとりもつ不思議な縁を感じる。何人かの知り合いと声をかけあう。お互い元気にやっているなと感じる時だ。傑作なのは、白いワイシャツ姿で祭りを見ていたビジネスマン風の人が、法被姿で御輿を担いでいる中に入り込んで、一緒に御輿を担ぎ出した光景。御輿を見る人と担ぐ人が一体となった。

18:30の二回目の巡行時は、雨も止み、わずかに降った雨が打ち水効果を発揮して、祭りは盛り上がった。父兄も屋台の周辺を囲んで、大ウチワで景気を付け、屋台にぶら下がり、跳んだり跳ねたりと盛り上がった。演奏は見事で、行き交う観客も足を止めて見入った。屋台の歴史の中では、大雨で泣く泣く引き返したという話が出た。昨日の雨は、行事の運行にほとんど支障もなく、事故もなく、記憶に残る恵みの雨となったと思われる。

2012年8月11日 (土)

愛しき古里:屋台の太鼓に関する愚問

2012年8月11日土曜日
昨日は晴れ。最高気温(℃) 33.6 13:47 の真夏日。ざっそう句:子供屋台 練習仕上げ 虫の声。朝飯前に、灌水、トロ箱苗の移植。移植適期ではないが、弱りかけているので決行。地面は砂埃が立つほど乾燥。植え溝に水を流してから移植。更に数回灌水後カンレイシャを二重にかける。一服してから墓の掃除。二人だったので早めに終わった。子供屋台は練習の総仕上げ。気合いが入り本番さながらだった。

2012年8月10日の天気

TAVE= 27.3
TMAX= 33.2 最高気温(℃) 33.6 13:47
TMIN= 21.9 最低気温(℃) 21.6 05:11
DIFF= 11.3
WMAX= 3.8 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 8.2(東) 13:30
SUNS= 9.6
RAIN= 0

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愛しき古里:屋台の太鼓に関する愚問

屋台のベテランに聞くと、昔の本屋台では、屋台を引きながら演奏する。その時の演奏パターンは、相手の屋台の状況に合わせて変わったそうだ。お祭りだが、一種の競演、喧嘩のムードも漂い、それによって祭りが盛り上がる。その状況をリードするのが笛吹役。次に鉦たたき役だそうだ。笛の演奏をマスターするには長い期間がかかり、自然と屋台全体が見渡せるようになるのだろうと勝手に想像した。ところで、太鼓の向きは、毎年変えるのかと愚問を発してしまった。こちらは、太鼓をいかに長持ちさせるかと考えていた。力一杯バチで太鼓をたたけばやがて摩耗してしまうだろうから。喧嘩だから、勝つのが第一。太鼓の皮を張ると時は、ピンピンに張るよう注文するとの事。叩いて良い音が出る面を使うのだ。それでダメになれば張り替えれば良い。躍動する太鼓叩きの動きを見ていると我が愚問も吹き飛んでしまった。
Isesakimaturi_yatai_2006
2006年いせさき祭りの屋台

2012年8月10日 (金)

文化と文明雑感(ちょっとした旅の思い出):「楫取素彦没後100年」を思う

2012年8月10日金曜日
昨日は晴れ。最高気温(℃) 32.6 14:53 。夏日だが、朝冷えてクシャミ連発。夏風邪要注意。雑木の歌:今もなお 偉人の徳を 偲ばせる 楫取素彦 百一回忌。苗に灌水。駐車スペース周辺の刈払。1:25の混合ガソリンを作ってから開始。メーカーは旧タナカ。現在、(株)日工タナカエンジニアリングとなっている。そのホームページには「日立工機グループの一員として設立され、2007年5月1日よりエンジン工具の製造販売の事業をタナカ工業株式会社より譲り受けました。」とある。調べてみると2002年9月に購入したのでもうじき10年になる。小型で馬力がないが、余り無理な使い方をしなかったのが長持ちしている一因かも知れない。

2012年8月9日の天気

TAVE= 26.4
TMAX= 32.3 最高気温(℃) 32.6 14:53
TMIN= 21.8 最低気温(℃) 21.5 05:25
DIFF= 10.5
WMAX= 5.6 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 10.1(東南東) 18:53
SUNS= 8.4
RAIN= 0

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文化と文明雑感(ちょっとした旅の思い出):「楫取素彦没後100年」を思う

もうじき8月15日の終戦記念日となる。「伊勢崎空襲。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E5%B4%8E%E7%A9%BA%E8%A5%B2(最終更新 2012年7月12日 (木) 07:53 )」『フリー百科事典ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に「伊勢崎空襲(いせさきくうしゅう)とは、1945年(昭和20年)8月14日深夜から翌8月15日未明にかけて群馬県伊勢崎市とその周辺地域が受けた米軍による空襲。太平洋戦争において秋田県秋田市の土崎空襲や神奈川県小田原市の小田原空襲等と並んで米軍最後の日本本土空襲となった。~[編集] 概要:1945年(昭和20年)8月14日深夜、84機の米空軍B24爆撃機・戦闘機が伊勢崎市と周辺の佐波郡3村に飛来し614.1tの焼夷弾、27発の爆弾を投下した。空襲は終戦日となる8月15日未明まで続いた。この空襲で罹災者8,511人(人口罹災率21.3)、死者29人、重軽傷者150余人、1943戸の家屋が焼失(共に伊勢崎市の被害のみ)した。市街地の約40%が焼失したが、空襲当日が無風状態だったことや広大な防空空き地を設置していたために類焼が食い止められ、人的被害は最小限に抑えられた。」とある。

近所のおばさんの話では、その頃学徒動員で、電車で通勤して、中島飛行機で部品の製造に従事していた。空襲があっても家と連絡もとれず、家に帰った時は真夜中になっていたとの事。「中島飛行機株式会社その軌跡(http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/nakajima/nakajima31.html)」によれば、「小泉製作所への空襲は最初は1945年2月25日で太田製作所と同日に米国海軍艦載機が来襲し、111発の通常爆弾を投下し43発が東半分の建屋を中心に命中し、組立中の銀河43機に損害がでて、更に治工具に被害が及びその後の銀河の生産が極めて困難となった。また死傷者も21名に及んだ。(右写真は米軍機撮影)2回目は4月3日の夜間でB29が通常爆弾24発と焼夷弾4発を投下し、約半数は工場に命中して板金工場が壊滅的損害を受けた。」とある。伊勢崎が終戦の前日に空襲を受けたのと異なり、太田(大泉)は軍用機工場があったので、それより先に何回か空襲の対象になっていたようだ。また、空襲の時、松の木に上ったか、その木の下に逃げて助かったという男性の話を聞いた事もある。空襲体験者は既に80才代だろう。

8月14日は、初代群馬県令楫取素彦の命日で、今年で楫取素彦没後100年となる。今年の3月たまたま楫取素彦が建立した渋川市にある御蔭松の碑に出会って、楫取素彦という人物に興味を覚えた。楫取素彦と有縁の人たちが建てた顕彰碑は、大きく立派なものだった。楫取素彦が建立した御蔭松の碑はその対局にある。自分としては「御蔭松の碑」の謎めいた部分により深い関心があるのだが。

今年の8月14日が楫取素彦の没後100年という情報に接して、一度「前群馬県令楫取君功徳之碑」を見たいと思っていた。たまたま、その近くへ出かける機会があった。事前調査もしないで出かけたので、いざ歩いて探すとなると、猛暑の中かなりきつい苦行となった。前橋公園の中にあるという話も聞いたので、ともかくきょろきょろしながら探す。最初に虎姫観音堂周辺を探したが見あたらなかった。前橋公園に北に向かって歩いていると、右手に小さな公園があった。その奥の方に石碑らしいものがあった。それが、探していた碑であった。見逃して、前橋公園の中に入ってしまったら大変だった。公園も、夏までに伸びた樹木で鬱そうとしている。願わくば、公園入り口に、公園名、碑の存在を示す標識程度は設置して欲しいと思った。

とりあえず、「前群馬県令楫取君功徳之碑」をデジカメに納める。この篆額部分は画像処理してかろうじて、そう読めるだろうと言う画像しか写せなかった。ともかく大きな碑であった。周辺の樹木が邪魔をして碑全体を納めるアングルが制限を受けている。また、樹木の影がと日射がまばらに映り、碑面の明暗のばらつきが大きい。碑文は、楫取素彦の功績である、養蚕振興の部分らしい文字をデジカメに収めた。碑の隣に説明版、その隣に、「楫取君功○(?)碑賛助人名」という建碑者名を記した碑があった。「功徳之碑」の背面には有志者が之を建てたとあり、その有志者が別の碑に記されている。旧伊勢崎町の有志者の部分だけをDSCに納めて合成した。人名の最初に、佐位郡伊勢崎町織物業組合が掲載されており、当時織物業が盛んであった事を如実に示している。伊勢崎町の有志者氏名の中に、町長武孫平、県会議員下条弥一郎等の有力者の名前があった。

賛助人を記した、「楫取君功○(?)碑賛助人名」という碑名の「○」の部分の漢字が電子漢和辞典で調べたが、分からない。偏が「云」作りが「懐古」の「懐」の作りである漢字のように見える。実質的には「功懐」と同じ意味か。当時の「前群馬県令楫取君功徳之碑」を建てた賛助人にとっては、楫取素彦の「功績」だけでなく、「徳性」を讃える意味で「功徳」としたのだろうか。「功懐」とは、楫取素彦の功績を、しみじみと懐かしむという意味にとれるのではないか。任地を去る、行政官としては、これほど名誉なことは無いだろう。「楫取君功○(?)碑賛助人名」の碑の「功懐(?)」は賛助者が楫取素彦を見つめる視線を感じる。同時に「功徳」の「徳」には、楫取素彦が賛助者を見つめる視線を意識しているように感じる。そういう意味で、群馬県の近代化は楫取素彦と群馬県の指導者層との相互作用で進んだように見える。

尚、碑文の書を成した金井之恭(ゆきやす)についてはWIKIPEDIAに記事がある。

「金井之恭。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E4%BA%95%E4%B9%8B%E6%81%AD(最終更新 2012年4月10日 (火) 04:38 )」『フリー百科事典ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に「金井 之恭(かない ゆきやす、天保4年9月18日(1833年10月30日) - 明治40年(1907年)5月13日)は幕末期の志士、明治期の官僚、書家。通称は五郎。字は子誠。号は金洞(こんどう)・梧樓・錦鶏など。長女は弁護士で政治家の小川平吉に嫁ぐ。~略歴:幼少の頃から文学を好み、また書もよくした。明治維新の際には尊王を唱えて討幕を試みたが、計画が露呈し、幽囚となった。しかし、生還した後に東京に入り、明治2年からは制度寮行政官に就任、その後内閣書記官、元老院議官、貴族院議員を歴任した。また、大久保利通が清に渡った際は、井上毅らとともに随行している。書は初め中沢雪城に学び、のち貫名菘翁の書風に傾倒した[1]。明治書壇の有数の大家であり、日本書道会・書道奨励会の会長等を歴任し、明治9年4月に明治天皇が大久保利通邸を訪問した際には、日下部鳴鶴とともに席書を行った。~[編集] 年譜:1833年(天保4)9月、上野国佐位郡島村(現在の群馬県伊勢崎市)に画家で勤皇家の父・鳥洲の三男として生まれる。」

昨年死亡した知人は、当地区の「八幡沼の碑」に関して、どんな立派な碑ができても、百姓は汗水垂らして働くだけで、そんな碑を見るひまなど無いと話していたのを思い出す。今年、当地区の私有地にあった「開拓記念之碑」が区有地に移設された。地主の都合で、記念碑の居場所がなくなってしまったのだ。当時、里山であった山林を開拓して畑地に換える事業の完成を記念した碑である。このような事業により、現在の地区の骨格が変わってきた事をしるのも有意義なことと思う。碑は、建立の当事者が未来に向けたメッセージであろう。「前群馬県令楫取君功徳之碑」をじっくり読んで見たいが、まだWEB上ではその文と読み下し文に出会っていない。この碑は、我々現代人にどんなメッセージを伝えようとしているのか。

Katori_kensyougd
「前群馬県令楫取君功徳之碑」。右:全体。中:文字面(着色加工)。左:説明版。

Katori_kenpisyagd
「楫取君功○(?)碑賛助人名」の碑。右:伊勢崎町有志氏名。左:碑の上部篆額部。

上記二枚の画像はDSCデータを合成・加工したもの。

関連リンク(2012/9/5);:WEB PAGE 「09D2 初代群馬県令 楫取素彦 没後100年記念(2012年)。http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/09d2_KATORI_MOTOHIKO_MEMORIAL.html」 へ。

2012年8月 9日 (木)

技術 回顧と展望:(愛しきもの 道具達)デジタルウォッチ

2012年8月9日木曜日
昨日は晴れ。最高気温(℃) 32.3 13:22 。猛暑日を脱したが真夏日。ざっそう句:夏草は 蚊群放射器 めげず抜く。朝飯前仕事で通路の草取り。苗灌水。用事外出。夕方トウモロコシの後かたづけ。先日、刈払作業をした後、腕時計を見たら針が止まっていた。一度、自分で電池を入れ替えた物なので、アナログ表示の新品に買い換えた。腕時計は何となく見るので、アナログに親しみを覚える。携帯の時計は見る気がしない。

2012年8月8日の天気

TAVE= 26.1
TMAX= 31.2 最高気温(℃) 32.3 13:22
TMIN= 22.1 最低気温(℃) 21.9 04:19
DIFF= 9.1
WMAX= 4.1 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 7.9(東南東) 18:37
SUNS= 8.4
RAIN= 0

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技術 回顧と展望:(愛しきもの 道具達)デジタルウォッチ

時を刻む道具は技術と共に進化してきた。一般家庭に時計が入ったのは明治以降だろう。柱時計として大きな物で設置場所は固定が原則だ。時計を持ち運べるようにしたのが懐中時計だろう。これは腰にぶら下げたり、ポケットやフトコロに入れた。ハイカラさんや身分をアピールするシンボルでもあった。その後は腕時計。腕時計は戦前は貴重品であった。父は、従軍する時、大正時代に渡米した人からもらった記念の腕時計をはめていたとの事。戦況が悪くなり、持ち場を撤退(当時は転進と言った)する時、持ち物はすべて地下に埋めよという命令が出て、その記念の時計を満州の地に埋めざるを得なかったと残念がっていた。身軽にするだけでなく、捕虜になった時、身分が分かる物を捨て、さらなる追跡を避ける目的もあったと思われる。

柱時計は、自分の幼少時代にも健在だった。鴨居に掛かっていたので、踏み台にあがって、ゼンマイを巻いた記憶もある。この柱時計は、連続して時を刻む要素が揃っている。この一体になっているメカを柱時計の外箱に固定しているようだ。メカ固定のネジがゆるんでガタガタになったので引退させた。その後は、電池時計に変わる。まだ、時を刻む心臓部はメカ式だったと思う。更に後になって、水晶時計に変わる。クォーツ式で時計の精度は向上した。

自分の腕時計を持ったのは高校入学から。一応ブランド物で、水晶何石とかあったと思うが、これは可動部に摩滅の少ない水晶部品を使ったものだったらしい。クォーツ式クロックは小型化が進み、ウォッチへその技術が投入され、デジタルウォッチ全盛の時代になる。日本の時計メーカーは、この水晶発振器と周辺回路をモジュール化して外販したので、実質的なデジタルウォッチの日本の占有率は相当高かった思われる。また、ウォッチの性能・信頼性も向上したものと思う。そこで、差出てくるのが外形のデザインやアフターサービス。

在職中、電波時計用の集積回路の開発に従事していた同僚がいた。容量が少ない電池で、電子回路を何年間も動作させるために集積回路も消費電力を極限まで下げる必要がある。低消費電力用集積回路の歴史をたどると、ストレート方式のAMラジオ用集積回路がある。この集積回路も電池一個の電圧で動いた。たまたま縁あって、電波時計用集積回路の市場導入を手伝った。当時、日本の有力時計メーカーは、今後開発する時計は電波時計にするとアナウンスしていたような記憶がある。電波ウォッチも現在では当たり前の時代になった。

昨年、東京電力福島原発事故の影響を受けて、おおたかどや山標準電波送信所からの標準電波の送信が停波した(url=http://jjy.nict.go.jp/Pub/JJY40/index_2011.html)。下記がそのときの記事。電波時計の狂いでメーカーに問い合わせがあったようだ。

「停波のご報告 : 40 kHz 2011年。おおたかどや山標準電波送信所において、地震及び地震被害回避のため下記の日時(日本時間)に停波しました。2011年03月11日(金)14:48:31~14:48:32
2011年03月11日(金)14:48:35~16:40:12 電波時計や周波数基準源として標準電波をご利用の
皆様にはご不便をお掛けしました。 」

また、「避難指示に伴い、」その後のかなりの期間停波した。下記がそのときの記事。

「停波のご報告(速報) : 40 kHz 2011年。おおたかどや山標準電波送信所において、福島原発
関連の影響に伴い、下記の日時(日本時間)に停波しました。2011年03月12日(土)19時41分頃から2011年04月21日(木)13時53分頃まで電波時計や周波数基準源として標準電波をご利用の皆様にはご不便をお掛けしました。 」

以前、百円ショップでデジタルウォッチを購入したが、温度による明暗の変化が大きすぎて継続使用を断念した。店頭で時刻を比較したが、時刻は揃っていた。設定時からのばらつきは少なかったが表示部では問題があった。LCDは単独ではコントラストの温度変化を受けやすい。在職中の半導体メーカーではその温度特性補償用の集積回路も生産していた。百円ショップの商品も改良されると思われる。今回は、ホームセンターで購入した日本メーカーの物。日本製ムーブメントを使っているという宣伝文句が目を引いた。

技術も基本的には科学と同じで、日本だけ優位という常識は通用しない。物を長期間作り続けている所に技術も人も集まり、技術の層は厚くなるだろう。百円ショップの商品と言えども、世界的に見れば、それを必要とする人は多いし、その市場規模を考えると侮れない。最近は、百円ショップにブランドメーカーの品も並んでいる。今回買った時計のメーカーの名前は初めて見た。ファブレスのメーカーだろうか。ともかく、気長につき合うモニター製品が出来た。

2012年8月 8日 (水)

読みかじりの記:星降る夜のパソコン情話 中村正三郎 著 (1996年 株式会社ビレッジセンター出版局)

2012年8月8日水曜日
昨日は晴れ。最高気温(℃) 35.7 13:43 。またも猛暑日。かみさんから高温注意報が出ているからと禁足令が出る。雨が降ったから水くれも不要だろうと言う。宅内で残務整理。廃品回収業者が古い農機を目当てにやってくる。昔の農機は、個人で買うには余りにも高価だったので、同じ作物を作る者数人が出資して共同購入をした。ゴボウを掘るトレンチャーという機械がもう2~30年ほど前から休眠している。ゴボウ栽培は長続きせずに、いつの間にか全員撤退。健在の出資者やその後継者から処分を任されているが、捨てきれない。

2012年8月7日の天気

TAVE= 29.3
TMAX= 35.3 最高気温(℃) 35.7 13:43
TMIN= 23.9 最低気温(℃) 23.6 01:31
DIFF= 11.4
WMAX= 5.8 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 10.8(北) 16:56
SUNS= 12.9
RAIN= 0




読みかじりの記:星降る夜のパソコン情話 中村正三郎 著 (1996年 株式会社ビレッジセンター出版局)

日本のパソコン普及の前史として、コンピュータキットの販売があった。その後、コンピュータキットを箱に入れたようなマイコン時代になったが、価格も高く各社各様の仕様で、ガラパゴス状態となった。ゲーム器メーカーもコンピュータに参入。国内家電メーカーが相乗りしたMSXも、一時のブームの後収束した。パソコンもゲーム用、汎用、ビジネス用と分化。

本書が扱うテーマは、パソコンがようやく一般に普及を始めた頃のパソコン事情である。MAC OSの他社ライセンスの話題なども出てくる。豊富な話題がてんこ盛りの本で、当時の事情を懐かしむには最適な本だろう。パソコンの可能性にチャレンジして、いろいろな試みが行われたが、結局ユーザーの支持が得られなかった試みは消えていったようだ。そういう点で、本書は何が消え、何が残ったかをひっそり楽しむには最適だ。

かつて、DOS時代はIBM互換機に近いと言われた東芝のノートPCダイナブック等を主に使っていた。文書作成は、VZエディターを使用。その流れで、ウィンドウ版のWZエディターを今も使っている。追記:VZエディターにはファイル操作が出来るファイラー機能があったのでこれを便利に使用していた。

「VZ Editor。http://ja.wikipedia.org/wiki/VZ_Editor。(最終更新 2012年5月26日 (土) 12:35 )」『フリー百科事典ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に「[編集] 概要:愛知県の名古屋工業大学出身のプログラマ、兵藤 嘉彦(ひょうどう よしひこ、c.mos)がアセンブラで記述し、1989年5月に株式会社ビレッジセンターから発売した。兵藤が設計したエディタ「EZ98(EZ Editor)」を基に[1]、兵藤が自ら改良・機能強化を施し、改称して出荷した。フロッピーディスクには、実行プログラムの他、アセンブラのソースコードも同梱されていた。 当時、ビレッジセンターは、アメリカフリーソフトウェア、シェアウェアの店を営業しており[2]、英語ソフトウェアの日本の機種への移植製品や、GNUなどのフリーソフトウェア関連製品の販売をしていた。そう言った経緯があり、開発者である兵藤の名が前面に出るといったユニークな販売スタイルとなった[3]。 1992年頃のVer.1.5の対応機種はPC-9801シリーズとその互換機用に東芝のJ-3100シリーズ、AXマシン用が添付、そのほかにDOS/Vマシン、日本IBMのPS/55シリーズ用を別途用意していた[4]。」

本書が、株式会社ビレッジセンターから出版されたのも、当時の雰囲気を反映しているのではないかと思う。この記事もWZ エディターで書いているが、そのバージョンを調べると、3.00Dと出た。著作権表示は1995-1997、株式会社ビレッジセンターとあり、本書の出版時期に重なる。思えば、WZ エディターも長寿ソフトの部類だろう。

「WZ EDITOR。http://ja.wikipedia.org/wiki/WZ_EDITOR(最終更新 2012年2月10日 (金) 13:05 )」『フリー百科事典ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に「WZ EDITOR(ダブルゼット エディタ)は、山口 敏郎(やまぐち としろう、TY)が開発し、株式会社WZソフトウェアが販売するWindows用テキストエディタである。 1995年6月、株式会社ビレッジセンターよりバージョン1.0が発売された。 C言語の文法によく似たTX-Cと呼ばれるマクロ言語を実装しており、柔軟なカスタマイズが可能である。 通常のテキストファイルの編集だけでなく、C言語のプログラムファイル、HTMLファイル、縦書きや体裁文書など、様々な文書ファイルを作成できる。また、カスタマイズをすることにより、独自のファイルフォーマットのファイルの編集を行うことが可能である。 1988年発売のMS-DOS用テキストエディタ「VZ Editor」から2003年10月発売の「WZ EDITOR 5.0」までを販売してきた株式会社ビレッジセンターは、2008年4月に株式会社WZソフトウェアに対して「WZ EDITOR」関連事業を移譲し、2008年11月末に会社を解散した。「WZ EDITOR 5.0」はバージョン5.03が最終版となった。」

パソコンも基本的には、機械語の命令で動く機械に過ぎない。その命令書がソフトになるわけだが、命令書はアルファベット文字と数字等のわずかな字数で構成される。このわずかな文字でコンピュータという機械を、更にはインターネットというヴァーチャルな世界を支配しようという意欲は何か日本人に不足している才能のように見える。

2012年8月 7日 (火)

老人の寝言:本物のクッキーならありがたいが「HTTP cookie」とは何か

2012年8月7日火曜日
昨日は午前曇り一時雨。午後曇り一時晴れ。不安定な天気だった。猛暑日から真夏日になりややしのぎやすい。ざっそう句:爺似合う ジニア咲く道 人も無く。ようやくジニアが本格的に咲き出した。朝飯前仕事で小豆の土寄せ。平行して除草。未明のわずかな雨で土が黒くなっていた。オクラを数本収穫。その後また降雨。午後雨が止んだので公共スペースの刈払。ブラウザでアクセスするサイトからクッキーが大量に送られていた。

2012年8月6日の天気

TAVE= 26.9
TMAX= 31 最高気温(℃) 31.8 15:05
TMIN= 24.7 最低気温(℃) 24.6 23:49
DIFF= 6.3
WMAX= 4.5 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 9.9(北東) 16:55
SUNS= 1.6
RAIN= 2.5

Q
Q

老人の寝言:本物のクッキーならありがたいが「HTTP cookie」とは何か

WIKIPEDIAには本物のクッキー項目と「HTTP cookie(http://ja.wikipedia.org/wiki/HTTP_cookie)」項目があった。ブラウザの設定が以前のものと異なるのか、頻繁に「cookie」を許可するか否かを聞いてくる。今まで、それを気にしなかったと言うことは、「cookie」を許可していた事と思う。

前期WIKIPEDIAによれば、「概要:HTTPは元来ハイパーテキストにおいて単にファイル転送を行うために開発されたため、同じURLへのアクセスならその状況によらず同一の資源[1]を提供することが前提となっている。動的なコンテンツ生成の仕組みとしてフォームが導入されているが、これは要求に直接対応する応答だけに影響をおよぼす。言い換えるとHTTPでは、同じ瞬間に同じ内容の要求を行っていれば、そのクライアントが以前にどのような通信を行っていても区別されない。HTTPはその意味で現在においてもステートレスなプロトコルである。」との事だ。

何かよく分からないが、「cookie」を食べさせられると、食う前と食った後の情報が判別できるという事なのか。「cookie」を許可するか否かを一つ一つ判断するとなるとかなり手間がかかる。信用できる安全なサイトを選べというのが今回の教訓らしい。

2012年8月 6日 (月)

老人の寝言:大正用水の草刈りもしんどくなった:120806。

2012年8月6日月曜日
昨日は晴れ。連日の熱帯夜・猛暑日。最高気温(℃) 36.5 15:24。雑木の歌:たそがれて 持て余し気味 大正用水 産めよ増やせの 突貫工事。大正用水の草刈り。昨年は8時現地集合。今年は6時現地集となり、熱さ対策として効果があった。帰路、近所のおばさんとその実家訪問。周辺地帯を軽くドライブ。実家周辺なので地理が明るい。昔は、実家まで2里の距離を歩いたとの事だ。おみやげにカボチャを持たされて途中で投げ捨てたいと思った事もあったとか。インターネットの距離測定でその直線距離を測ってみた。距離:7.9km ( 7856 m )、9820 歩 ( 歩幅 80 cm )、2 時間 27 分 ( 3.2 km/時 )と出た。意外だが、話と合った結果が出てきた。昔は、自転車すら貴重品であった。必要ならかなりの時間をかけて徒歩で行き来した。実家に帰る事にも苦労した。楽しみがあるから苦労も我慢できた。それが思い出として残っているのだろう。夕方、百姓先生夫婦と生徒夫婦で先生が作った大きな黒スイカを食べる。四人でも食べきれない。それから苗に灌水。

2012年8月5日の天気

TAVE= 29.9  
TMAX= 36 最高気温(℃) 36.5 15:24 
TMIN= 25.6 最低気温(℃) 25.5 04:49 
DIFF= 10.4  
WMAX= 3.8 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 8.9(東南東) 17:00 
SUNS= 7.6  
RAIN= 0  

Q
Q
追記(2018/02/23):タイトル文字を太く、日付を追加

老人の寝言:大正用水の草刈りもしんどくなった

大正用水の草刈りは、用水の水を切って一斉に行われる。地域ごとに担当の場所が決まっている。稲作農家はその仕事にかり出される。用水管理は稲作の基本中の基本。この大正用水工事は戦時中の食糧難を突破口にして突貫工事で行われたようだ。現在80才前後の当時の学徒もかりだされ、シャベルとモッコで作業をしたという話を、数人の経験者から聞いた事があった。以前の関係記事。
「食料不足http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2009/09/post-0090.html(2009年9月 2日 (水))」

大正用水工事の発案は「伏島近蔵」にまで遡ると「大正用水史」にあったと思う。「伏島近蔵」でGoogle検索すると約 1,690 件ヒット。

以下にWIKIPEDIA記事を全文引用する。富岡製糸場等が世界遺産登録に動き出したが、群馬県特産の蚕種や絹糸の外国輸出に関してはまだ知ることが少ない。

以下WIKIPEDIAの引用
**********************************
「伏島近蔵。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E5%B3%B6%E8%BF%91%E8%94%B5。(最終更新 2011年1月21日 (金) 07:29 )」『フリー百科事典ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事全文。

伏島近蔵
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伏島 近蔵(ふせじま ちかぞう、1837年(天保8年) - 1901年(明治34年))は、江戸幕末から明治にかけて活躍した横浜の実業家であり、横浜商人の代表的人物の一人である。

目次
1 生涯
2 頌徳碑と銅像
3 田辺屋の屋号
4 板垣退助に心酔
5 参考文献

[編集] 生涯
伏島近蔵は上野国新田郡藪塚村(現群馬県太田市)の地主の家に生まれた。1865年(慶応元年)に、妻こうを伴い横浜にきて、当初は横浜-神奈川間の行商や、妻の蝋燭小売により生計を立てる。その後商館「アメリカ一番館」に勤務し才能を示し、商人として頭角をあらわした。1868年(慶応4年)に同館を持し独立し、唐物、蚕卵紙(さんらんし、蚕の卵をつけた紙)等を扱う商売をし財産を成したが、その後一旦帰郷し家業に従事するようになる。

帰郷後は家業に従事する一方で、渡良瀬川大間々町(現群馬県みどり市)から鳥の郷(現群馬県太田市)に至る用水路を開削し、その功績により1876年(明治9年)の明治天皇東北御巡幸の際には特に拝謁を仰せ付けられ、奈良晒二匹を下賜された。その後アメリカ一番館の日本人惣番頭の死により再び横浜に戻るが、小学校への寄付や鉱泉事業等への協力等、故郷の発展のために生涯多大な貢献を果たした。

横浜に戻って後はアメリカ一番館の大番頭となり、1877年(明治10年)の西南戦争における羅紗(ラシャ)の取引等で巨利を得るが、1878年(明治11年)には再び同館を辞し、他の有力横浜商人と共に第七十四国立銀行の設立に参加し自ら初代頭取となる。一方彼は貿易商人としての活動も続けていた。

横浜開港以来蚕卵紙の輸出の多くは外国商人により壟断(ろうだん)され、彼らはそれにより巨利を得ており、日本への利益の還元は少なかった。1880年(明治13年)に彼は蚕卵紙直輸を決意し、現地商人と交渉すべくイタリアへと渡るが、すでに横浜の外国商人と結託したイタリア商人の妨害により交渉は難航。駐伊大使鍋島直大も仲裁したが、その間蚕卵が孵化し商品とならなくなり大損害を蒙り帰国した。その間253日間に及ぶ旅行記は当時の第一級資料である。大胆豪放の一面、思慮極めて周到周密な彼の人間があらわれている。

帰国後彼は悪影響を考え、第七十四国立銀行頭取の職を同郷高崎出身の茂木惣兵衛に譲り商業活動に専念したが、折に触れ局外協力は行った。その後横浜市民への良質な飲料水の不足を見た彼は、大田初音町山に横穴を掘削し清水を得て、清水販売(飲料水販売)を実行し再び巨利を得た。彼は事業を株式会社組織とし揺光社(ようこうしゃ)をおこした。

彼は外国における港湾都市の土地値上がりを知り、不動産事業への進出を決意、揺光社の株式を売却し野毛山一体の地所を買占め、1884年(明治18年)の市による野毛山貯水池設置にあたり売却し利益を得て、その後も積極的に不動産事業を行った。

また外国における港湾都市の実見により、港都横浜の発展には陸上施設の完備が肝要であることを痛感した彼は、その後積極的にその方面での活動を行う。特に現在の大通り公園にあった新吉田川や、新富士見川の運河の開削や、隧道や橋等の整備に力を入れ、私財を擲(なげう)つことも厭わなかった。

彼の事業は順調であったが、1901年(明治34年)北海道開拓を決意し、同年官林の払い下げを受け、その実地検分のため北海道に渡ったが、札幌にて病となり、その後稚内まで達するも現地で病死した。享年64。墓地は横浜にある。

[編集] 頌徳碑と銅像
横浜お三の宮日枝神社境内と太田市に彼の功績を称える頌徳碑があり、故郷藪塚には銅像があり郷土の偉人として功績を称えている。

[編集] 田辺屋の屋号
伏島近蔵の店は田辺屋として知られていたが、屋号の由来は定かではなく彼も由来を語ることはなかった、一説には恩人の苗字と言われている。

[編集] 板垣退助に心酔
横浜は自由民権運動の盛んであった土地であり、当時の市民は商人派(立憲改進党支持)と地主派(自由党支持)に別れ鎬(しのぎ)を削っており、商人派の巨頭は原善三郎、地主派の巨頭は伏島近蔵であった。彼の北海道開拓は自由党の党勢拡大の目的もあり、実地検分では当時の自由党幹部も同行している。彼は上州気質、任侠精神が強く、板垣退助の高潔な人格に深く心酔していた。

[編集] 参考文献
横浜開港資料館報 「開港のひろば」(Number95) 2007年(平成19年)1月31日(水)発行
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=伏島近蔵&oldid=35977226」から取得
カテゴリ:日本の実業家横浜市の歴史群馬県出身の人物1837年生1901年没
**********************************
以上引用終わり。

最近、伊勢崎市の文化財になっている旧時報鐘楼建立の資金を寄付した小林佳助の事を調べた。小林佳助も横浜に出て成功した商人だが、その取り扱う商品が薬種、当世風に言えば、薬剤だった。生糸を扱ったかは定かではない。

明治前期に於ける生糸直輸出の位置(http://www1.tcue.ac.jp/home1/k-gakkai/ronsyuu/ronsyuukeisai/45_1/tomizawa.pdf)、高崎経済大学富沢氏の記事に「明治14年1月:伏島近蔵、イタリアに赴いて蚕種を直売、50万円余の負債を被る。」という記事がある。

群馬県出身の、伏島近蔵、小林佳助、横浜、国際貿易云々というキーワードで蚕種、生糸、日本特産品(薄荷)等の流通面の歴史が見えてきそうな気がした。小林佳助も横浜の商人。伏島近蔵と小林佳助の接点もあったように思う。大正用水は群馬県の農業を支える基礎的な基盤であるが、それを維持することが今後益々困難になるように感じる。先人たちの偉業とインフラを見直すことも日々の活動の動機付けになるのではないか。

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    刃物という視点で多くの事例が取り上げられている。刃のある道具の理解にも役立つ。類書が少なく貴重な一冊。「すべり変形が切断の原理」という考え方で説明している。
  • 沼田 真   : 植物たちの生( 1972年 岩波新書(青版 833))
    「ご要望にお応えしてアンコール復刊(1988年岩波新書50年記念復刊) 地球生態系の中で自然を見直す」(腰巻きのフレーズ)。植物の知恵と戦略に人類は勝てるのか。
  • 出町 誠: 14_NHK趣味の園芸:よく分かる栽培12ヶ月  カキ(NHK出版2007年)
    初心者向け柿栽培参考書(新版)。旧版と比較すると楽しい。
  • 中村三夫: 13_NHK趣味の園芸:作業12ヶ月  カキ(NHK出版1996年)
    初心者向け柿栽培参考書(旧版)。新版と比較すると楽しい。
  • 山科正平: 12_細胞を読む   電子顕微鏡で見る生命の姿
    細胞はどんな部品からできているのか。そんな疑問に答えてくれる一冊。何事も形を見るのが第一歩。μからÅオーダーの世界で、細胞をメスで解剖するように、電子顕微鏡というメスで解剖して見せてくれるので興味が尽きない。
  • 柳田充弘: 11_細胞から生命が見える
    著者の専門は分子生物学、細胞生物学。普段生物を考えても細胞レベルで止まってしまう。その細胞の中で色々な分子が働いている。細胞こそ生命の基礎だが、その細胞の中の動きを知るのに最適な一冊。疑問の発端はなぜ発根剤が効くのかということ。薬剤が細胞膜を通過して細胞内で分子と分子が作用するイメージができた。本書でできた細胞のイメージは小さな無数の穴が空いた水分が充満したヨーヨーのようなもの。そのヨーヨーの中に分子部品が詰まっている。細胞自体もタライの中のヨーヨーのように浮かんでいる。細胞図面の空白部は真空でなく水分だ。細胞の内外に水がないと細胞は生きられない。水が生命のゆりかごだ!
  • 野口悠紀雄: 10_ホームページにオフィスを作る(2001年 光文社)
    ITが輝いた時代の作品。HPの活用法は参考になる。参考:url=http://www.noguchi.co.jp/(野口悠紀雄 ONLINE)
  • 小池洋男 編著: 09_果樹の接ぎ木・さし木・とり木(農文協:2007/3/31第1刷)
    やや専門的であるが、実務専門化が分担執筆しており、その場で役に立つ一冊。
  • ノーバート・ウィーナー(鎮目恭夫訳): 08_サイバネティックスはいかにして生まれたか(みすず書房1956)
    情報と通信という現代社会に不可欠の基礎的な学問を作った著者の自伝とそれを通した科学史
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