2012年4月 1日 (日)

科学ニュースに独り言:福島原発事故調査に参加した国産ロボットのクィンスの謎

2012/4/1(日)
昨日は午前一時晴れ間、午後に雨と強風。天気予報通り春の嵐となった。葬儀。その後は宅内。自分が子供の頃は鉄腕アトムの漫画に夢中になった。自分の子供はガンダムのプラモデルで遊んでいた。両方ロボットだが、鉄腕アトムは曲線的でより人間に近い感じがする。ガンダムは直線・平面的でよりロボットらしさがあるようだ。福島原発事故で脚光を浴びたロボットだが、外観は更にメカニカルで一種のリモコン移動物体のような感じだ。その国産ロボットのには「クィンス」と名前が付けられている。調べると果樹のマルメロの事だった。マルメロの苗を買ったが実が生らずに枯らしてしまった。日本ではカリンと混同されている場合もあるようだ。カリンの果実は良い香りを放つ。日本の子供達はこの「クィンス」にどんな感じを持っているのだろうか。

2012/3/31(土)の天気

TAVE= 10.0
TMAX= 18.1 最高気温(℃)  18.2  12:02
TMIN= 3.9 最低気温(℃)  3.7  24:00
DIFF= 14.2
WMAX= 13.3 最大瞬間風速(m/s)   22.3(北西)  13:47
SUNS= 1
RAIN= 6.5

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科学ニュースに独り言:福島原発事故調査に参加した国産ロボットのクィンスの謎

昨年、東京電力福島原発事故の調査で、国産ロボットについて書いた。「老人の寝言:原発事故で日本のロボットの出番がないのはなぜかhttp://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2011/04/post-e58e.html(2011年4月21日 (木))」当時は、外国のロボットが先ず採用されたと記憶している。ロボットも人間にとっては機械に過ぎない。目的が達成できれば別にロボットでなくても良いわけだ。福島原発事故でロボットが必要になったのは、放射能や周囲環境で人間が入れない場所で、仕事ができるという条件が課せられた結果ロボットの登場となった。

最近、福島第一原子力発電所2号機のファイバースコープ調査が実施された。その結果、格納容器の底部の水位は60センチであったと報道された。「福島第一原子力発電所におけるロボットオペレータの手記 - PackBot編https://sites.google.com/site/fuku1robot/」に「ロボットチーム(作成日時 :2011/04/26 18:06 )」という記事があり、「新たな業務は探索ロボットの操縦です。 今後は国産ロボットも導入していくとか。 当面は、私を含めて三名で操作します。 タービン建屋の中は津波の被害がすざまじい。泥だらけ、しっちゃかめっちゃか。よくこの程度の被害で済んだと思うのが、正直なところです。原子炉建屋は、それほどでも無いです。 ロボットは有線でも使えますが、ケーブルが絡まるので無線で動かします。 プログラムを必要とするので、タフブックよりゴッツイPCを介しますが、コントローラーはプレステ等のゲーム機と同じです。 走行・アーム・グラップル・カメラ・ライト・その他補助装置は、切り替えて使います。」とある。ロボットの操作が、リモコン飛行機のようなものかと推測される。その記事の末尾の方に「もしかしたら、明日はファイバースコープのオペレーターを頼まれるかも知れません。 今日、流水音を私が見付けて(聞き付けて)しまったので、ファイバーで確認する必要が出てきました。200~300mのファイバーを有しており、ロボットよりも、どちらと言うとファイバーの扱いの方が得意なんですよぉ~。」とあった。ファイバースコープによる観測で、2号機の格納容器からは高濃度の放射能汚染水が漏れ出ていると判断できるので、この観測にはロボットが使われたのかと推測したが、はっきりした情報がつかめない。

asahi.comは、「救助ロボ 原発奮闘記;url=http://www.asahi.com/science/intro/TKY201203040180.html(2012年3月4日18時59分)」というタイトルで、「東京電力福島第一原発の事故で、災害救助ロボット「Quince(クインス)」が初出動した。設計時には想定していなかった原発事故現場で、建屋内の線量測定などの作業を6回こなした。開発チームの苦闘と、クインスの現場活動を紹介する。~ 東日本大震災の発生から4日後の昨年3月15日。千葉工業大未来ロボット技術研究センターの小柳栄次副所長は、一本の電話を受けた。「クインスを、福島第一原発に提供できますか?」。東電からだった。 クインスは千葉工大、東北大などの合同チームによる純国産の災害救助ロボだ。中越地震などで積み上げた経験を基に、2010年に誕生した。カメラや各種センサーを装備。がれきの上を走り回り、階段を上り下りする能力が高く、開発段階から救助ロボの世界大会で何度も優勝している。 」と報じた。

上記の記事より、「建屋内の線量測定などの作業を6回こなした」とあるのだが、2号機の格納容器内部のファイバースコープ観測をロボットがしたのか、人間がしたのか興味がある。しかし、原発事故後、一年でようやく、格納容器内部のファイバースコープ観測が可能になったのか、既に早い時期に観測されていたのか皆目分からない。ロボットが予備的に建屋内の線量測定を測定して、人間が作業できる放射線量かチェックするパイロットの役割は果たせていると思うが、人間の機能をどこまで代行できるかが、今後の廃炉完了までの期間を決めてしまいそうだ。

産学連携ジャーナルは、「原子炉建屋投入 初の国産ロボット「Quince」生みの親 小栁栄次先生はロボコンが原点 ;url=http://sangakukan.jp/journal/journal_contents/2011/08/articles/1108-03-2/1108-03-2_article.html(2011年8月号)(著者:平尾 敏氏)」というタイトルで、「福島第一原子力発電所の事故発生から3カ月半経過した6月24日、2号機原子炉建屋に初めての国産災害対応ロボット「Quince(クインス)」が投入された。これまで米国からの助っ人ロボットが投入されたが事態は進展しなかった。ついに真打ちの日の丸ロボット登場となるが、一番肝心な、原子炉建屋内の作業でその実力を遺憾なく発揮することが期待される。 持ち込んだのは、千葉工業大学の小栁栄次教授。鉄腕アトムをつくったのがお茶の水博士だとしたら、クインスの生みの親は小栁栄次先生である。」と報じた。

この記事によると、「Quince」生みの親の小栁栄次先生は高校教師から大学の研究者へ転じた異色の研究者との事で、高校生の指導の一貫として各種ロボットコンテスト等で成果を挙げるると共に、自らもメカトロニクスの分野の研究者として新分野の開拓に従事してきたとの事だ。ロボットとしても目的を絞ることにより、その特徴が十分発揮できる。いわば、汎用性の持つ冗長度をそぎ落として、専用性という目的に絞ったロボットの開発を目標にした事から、原子炉建屋投入可能な初の国産ロボット「Quince」が誕生したようだ。新聞報道等によれば、従来の災害対応ロボットでは、原子炉建屋内と動作環境が大きく異なるので、超高湿度、超高放射線等への対応が追加されて、ようやく原子炉建屋への投入が可能になったようだ。

人型ロボットは子供達に人気がある。人造物なのでスーパーマン的な能力に惹かれると共にその心の部分もはっきりと見せてくれるからではないか。上記と同じ号に「インタビュー 小栁栄次 千葉工業大学 未来ロボット技術研究センター副所長 想定」は仕様書、欠かせないオペレーターの訓練url=http://sangakukan.jp/journal/journal_contents/2011/08/articles/1108-03-1/1108-03-1_article.html」という記事があり、千葉工業大学 未来ロボット技術研究センター 副所長の小栁栄次氏が登場する。そこで、同氏は「今回は、われわれの地下街用の災害対応ロボットを転用しましたが、原子炉用のロボットはもともとの設計思想が違うと思います。」と述べている。

究極の原子炉廃炉対応のロボットは、その動作環境に合わせて、設計思想から練り上げる必要があるようだ。このロボットが完成しない限り廃炉は進まないのだろうか。福島原発事故直後は破損した原子炉を水棺にするか石棺にするかとかの議論があった。それから一年後、福島原発事故で破損した原子炉は容易に手を着けがたい状況になっているようだ。原発事故対応ロボットについては、「日本原子力研究開発機構の原子力災害ロボットurl=http://www.cpdnp.jp/pdf/kawatsuma.pdf」という記事があり、ロボット開発の経過や作成時点(2011年7月12日)での教訓が述べられている。まさに災害は忘れた頃に起こり、その虚をつかれると大きな混乱が生じてしまう。ハードだけでなくソフト面も不可欠のようだ。原子炉解体から完全撤去まで期間がかかりすぎると別の問題も派生するだろう。水棺か石棺にする選択は完全になくなったのか。完全廃炉への道のりは余りにも遠すぎる。人間の一世代に相当する長さだ。その時のロボットはどんな姿をしているのか。

2012年3月31日 (土)

縮伐カット&トライ/果樹を楽しむ:屋根の上に乗り出したナツメの幹を中間で切る

2012/3/31(土)
昨日は曇り午後から晴れ。穏やかな好天になった。期末処理。苗堀上げ。助っ人がきたのでナツメ(棗)の木の縮伐を手伝って貰う。新聞の集金員が来た。桜はいつ咲くかと立ち話。今、山茱萸の花が咲いていると話したが当人はさっぱりわからない。”庭の山茱萸の実の熟す時~”という歌を思い出すが、ひえつき節は”庭の山椒(さんしゅ)の木 鳴る鈴かけて ヨーオー ホイ 鈴の鳴るときゃ 出ておじゃれヨ”との事。田端義夫の「島育ち」歌詞に「赤い蘇鉄の~実も熟れるころ~」とあるらしい。どうも記憶が混線しているようだ。我が家の山茱萸の原木は台風で倒れて枯れたが、ヒコバエで育った二代目が畑の隅で花を咲かせている。あの、山茱萸の赤い実を見ると乙女の可憐さが思い出されるが、WEB情報では、「庭の山茱萸」は、実は「庭の山椒」という説があるらしい。庭に植えるのが庭木。ひえつき節が恋歌とすれば、トゲもあり、実が地味で、味も似合わない庭の山椒の木に鈴をかけるのも無粋に思える。「庭の山茱萸」なら納得。

2012/3/30(金)の天気

TAVE= 12.4
TMAX= 19.3 最高気温(℃)  20.1  15:17
TMIN= 5.9 最低気温(℃)  5.5  06:02
DIFF= 13.4
WMAX= 3.4 最大瞬間風速(m/s)   6.9(東南東)  14:36
SUNS= 6.3
RAIN= 0


Q

縮伐カット&トライ/果樹を楽しむ:屋根の上に乗り出したナツメの幹を中間で切る

なぜ、ナツメの苗を植えたのかと振り返ると、ナツメソウセキという名前の連想から。高校時代夏目漱石の小説を読んだが全然面白くなかった。ナツメの実物も見たことがなかった。それならばという安易な気持で植えた。アンズも同じような動機で植えた。何か小説に出てきた果樹のようだが、こちらは全く思い出せない。最近、かなり実を付けるが、食べるとパサパサとした甘みのないリンゴのようで、味見程度に食べるだけ。樹勢は直立性で高木になる。台風で屋根側に乗り出したように傾いた。屋根に、実や葉が落ちる。倒れると屋根を壊す。根元から切るのも忍びない。仕方ないので、少しだけ枝を残して、幹の中程で切ることにした。

切る部分が、大きい脚立が届くあたり。下手に切ると屋根に上部の幹が落下する。一人で切るのは困難。ロープで屋根側への転倒を防ぎながら切った。助っ人にはロープ引きを手伝って貰った。幹の上部を斜めと直角に切り、倒す方角を決める。それから幹の下部を周状に切り進める。倒すときは、一、二とロープを軽く引いて、弾みをつけて、三回目に思い切り引いて倒す。一回目は、全く倒れる気配なし。更に少し切り進める。二回目はミッシと音がしたが、又も倒れる気配なし。更に、切り進めて三回目にようやく、ドカッと音がして倒れた。幹が倒れても届かない所から二人で引っ張った。作業に一時間ほどかかった。

このような作業に力学の知識が役立つ。切る部分が支点となる。重心はかなり高い所にある。ロープをかける所は、重心より更に高くしなければ十分力がかからない。ロープを引いて弾みをつけるのはブランコと同じで、運動量を蓄える。最後に、ソーレヨイショと気合いを掛けるのは幹の振動位置に力の位相を合わせるため。こちらは振動論の応用だ。共同作業はかけ声と仕事の同期が不可欠。なんとか無事に縮伐ができた。適度の緊張と、注意、計画も必要だ。一応頭の中でシミュレーションをした。無理、ムラに危険が潜む。安全第一に作業をしたい。助っ人と二人で作業したのも万一の場合を考えたので。枯れるか、実が生るかは今後の楽しみ。

2012年3月30日 (金)

雑木の歌:花粉にひやり

2012/3/30(金)
昨日は穏やかな晴天。用事外出。その後ポット苗の灌水。昼食は某百均店で買ったクッキー(表示:クラッカーサンド/チョコクリーム)。産地表示はベトナムであった。カロリー表示もあり、全部食べると数百Kカロリー。産地を調べるとブルガリアというのもあった。色々外国産の食料が並ぶのも驚異か幸運か。最近は百均店への食品の進出がめざましい。銀だこ特製の天かすというのも並んでいた。有名企業も百均マーケットを無視できないようだ。百均店と言う名前が似つかわしくなくなって来た。その扱う商品を覗くと品種の数で圧倒される。商品企画をする立場になってその商品を観察すると興味はつきない。スーパーコンビニショップと名付けたい位だ。

2012/3/29(木)の天気

TAVE= 11.2
TMAX= 18.9 最高気温(℃)  19.4  15:27
TMIN= 3.8 最低気温(℃)  3.5  04:00
DIFF= 15.1
WMAX= 6.3 最大瞬間風速(m/s)   0.0(北西)  02:41
SUNS= 11.7
RAIN= 0

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昨年は、福島原発事故の放射性物質飛散と花粉の飛散の時期が重なり、マスクを着用する機会が多かった。試しに杉の実を煮出した、杉の実茶も飲んだ。昨年はスギ花粉の当たり年だったが、花粉症に悩んだ記憶は残っていない。これは杉の実茶の効果なのか、マスクを着用の効果なのか。放射性物質飛散のほうがよほど怖かったようだ。花粉症といえばスギ花粉が抗原となり発症する。人体の方にスギ花粉の影響を防ぐ抗体のでき方でその症状が変わる。広義の抗原抗体反応で、本来身体を守る作用が過剰になり、自分で苦しむ結果となる。WIKIPEDIAの「花粉症」記事は、「4 その他の原因: 4.1 遺伝要因 、4.2 環境要因、 4.2.1 自動車排気ガスによる大気汚染の関与、4.2.2 自動車排気ガス以外の浮遊物質の関与、4.2.3 寄生虫感染の減少、4.2.4 都市化の影響、4.3 栄養要因」を揚げている。花粉症の真の原因解明には疫学的な研究が必要なようだ。かつて、有吉佐和子『複合汚染』という本が話題になった。花粉症も、原因が無ければ、結果も生じないという自然の大原則を信じるとすれば、花粉症はスギ花粉等の各種花粉と排気ガス等に含まれる各種化学物質が人体に複合的に作用して起こる、複合的環境病的症状と言えるのかもしれない。花粉症が病気になる限界はどこにあるなのか。

雑木の歌:花粉にひやり

■マスク掛け サングラス掛け 店に入る 白い視線に 後で冷や汗
■眼科医は 瞳孔開き 診察後 花粉症薬 処方を尋ねる
■昨年は 貰った薬 使わずに 何とか済んだ 今年も頑張る
■副作用 免疫薬の ステロイド 悩んだ末に 使わぬ決断
■通院の 光のどけき 春の陽も 瞳孔開けば 眼が眩む夏

2012年3月29日 (木)

読みかじりの記:「経営者の条件」 大沢武志 著 (2004年 株式会社 岩波書店)

2012/3/29(木)
昨日は晴れ時々曇り。風が強かった。用事外出。日時を間違えて用事は空振りに終わった。それならばと、目的をサイクリングに変えてしばらくフラフラ乗り回す。店頭にとめた自転車が二度転倒していた。最初はいたずらかと思ったが、二度目は突風かと考え直した。最近、チベット旅行者矢島保治郎が話題になり、墓もあるよと聞いていたので、どこにあるのだろうと気になっていた。写真を見て、頂部が球状になっているのを覚えていた。もしやと自転車を止めて近づいてみると、それが矢島保治郎の墓であった。想定外の収穫ではあった。

2012/3/28(水)の天気

TAVE= 8.1
TMAX= 16 最高気温(℃)  16.6  13:26
TMIN= 2 最低気温(℃)  1.7  05:41
DIFF= 14
WMAX= 8.3 最大瞬間風速(m/s)   16.0(北北西)  15:08
SUNS= 5.6
RAIN= 0

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読みかじりの記:「経営者の条件」 大沢武志 著 (2004年 株式会社 岩波書店)

経営者を一般のサラリーマンから見れば殿上人のようで、余り強い興味は持っていない。本書を手にしたのは、日本の経営が何か元気を失っているように感じてきたことに一因がある。会社の従業員の姿はなかなか、見えないが、会社や経営者はそれなりに、社会的な存在でもあり、何となく見られたり比較されたりしている存在だろう。本書のカバーに雪印や三菱とう名門企業が、不祥事という言葉と一緒に出てくる。本書が書かれた背景に、会社がかかわる不祥事があったのも事実だろう。著者自身もリクルートの役員を経験しているようで、その体験も本書を書かせる動機でもあったことが、後書きに述べられている。

現在、かつての名門企業が不調に陥り、その再起が可能なのか、企業には寿命があり、社会的な役割の果たせない企業は、自滅か解体を辿るべきか、それとも公金を注ぎ込んででも、再生させるべきなのか、企業存立の問題さえ浮かび上がってきているのが最近の様相だ。ともかく、多彩な企業活動の司令塔が経営者であり、経営者の社会的な責任も重要になってきた。経営も政治と同じように結果責任という部分もあるが、経営には基本的なルールがあるので、そのルールを外さないで如何に目的を達成するかとうのが、経営論、経営者論の醍醐味ではないかと思われる。

しかし、その経営者が、最近では世間から余り注目を集めていない。WIKIPEDIAの「日本の高額納税者公示制度」によると、「日本では1947年から2005年まで導入された。当初の制度の目的は「高額所得者の所得金額を公示することにより、第三者のチェックによる脱税牽制効果を狙う」ことであった。初期の頃はこの目的の効果を高める為に、情報提供者に対して報償金を脱税発見額に応じて支払う「第三者通報制度」も導入されていた。しかし、第三者通報制度は、通報の動機が怨恨や報復によるものが多いなどの指摘があって1954年に廃止された。公示制度では収入額を公示していたが、1983年度からは納税額を公示するようになった。」とある。日本の高額所得者は、世間に気兼ねなくその高額所得の恩恵を謳歌できるようになったようだ。経営者の所得とその企業で働く労働者の所得は逆転する事はまずないだろう。「高額納税者公示制度」の廃止により、経営者と労働者の意識にどのような変化が生じているのか興味がある問題だろう。経営者にとっても、労働者にとても、所得と労働は共通した関心事項だろう。それを相互に確認をする手だてが無くなった。倫理観という、高度な自己規定も経営者には必要だろうが、所得と労働という労使共通の評価尺度の存在は経営そのものの位置を同定する上でも重要だろう。

経営者の姿が社会から見えなくなっている事が気になっている。見えなければ興味も湧かない、うわさもできない、人物評価などさらに不可能だ。本書にも「ノブレス・オブリージュ」等の記事があるが、これも経営者だけでなく、社会の上層に立つ人物が社会に向かう心構えともとれる。つまるところ個人の規範意識になるだろう。社会現象的には経営者個人の規範意識すら崩壊しているようにみえる時世だ。ともかく、不祥事が起きた会社やその会社の経営者を語るのはうんざりだ。語るにも”ヨイショ”だけでは面白みもない。その点、司馬遷の史記のような「経営者列伝」のような書き方の方が読ませるのではないか。良いとこ取りだけしていたら何事も薄っぺらになってしまう。

実は、本書を手にした、別の理由として、日本の電力企業の経営者の身の振り方が気になっているいるのだ。電力業界もこれから激動の時代を迎えるだろう。どのような経営者が現れるのか。どのような経営者が望ましいのか。現在の経営者は忍者の如く、その姿も外からは見えにくい。経営者として、経営を傾けさせて、それを立ち直らせることができないのは最大の不覚と言えるだろう。

JCASTニュースは、「JAL植木新社長は「片岡千恵蔵」の息子 「飛行機を飛ばすという仕事が唯一の自慢だった」;url=http://www.j-cast.com/2012/01/17119092.html?p=all(2012/1/17 17:06 )」というタイトルで、「日本航空(jal20+ 件)は2012年1月17日、臨時取締役会を開き、植木義晴専務執行役員(59)を社長20+ 件に昇格させる人事を発表した。大西賢社長(56)は会長に、稲盛和夫会長(79)は名誉会長に就任する。新人事は、12年2月に開かれる臨時株主総会後の取締役会で正式決定する。 植木氏は1975年に航空大学校を卒業し、JALに入社。35年間にわたってパイロット畑を歩み、経営破たん直後の10年2月に執行役員運航本部長に就任。会長の稲盛氏が提唱した部門別採算制度を推進した。jal20+ 件社長にパイロット出身者が就任するのは初めて。~稲盛氏は13年1月で名誉会長と取締役を退任:   稲盛会長は、会長就任から丸3年が経つ13年1月で名誉会長と取締役を退任することを明言。この時期の社長20+ 件交代になった理由について、   「航空事業は、私のような外部の者では難しい。生え抜きの人で経営してもらうことが大事。早いかもしれないが、新しいjal20+ 件の執行体制をスムーズに運営できるように、1年間の助走期間を設けられるようにした」と説明した。」と報じた。

本書の「企業倫理に対峙する経営者」の項は参考になった。特に『「メンター」の存在』の部分。経営者の心の師は求めて得られる者でもないだろう。運命的な出会いかもしれない。その師と弟子は、お互いに心のアンテナを磨き、交流のチャンスが訪れるのを待っているのかも知れない。「メンター」についてはS.Jobsの伝記にも出てきた。創業者である経営者の間では「メンター」という同志愛的な絆が生まれるのかもしれない。企業内の潰し合いや出世競争という経営環境では「メンター」に出合う機会も少ないのではないか。その点上記の記事は再生中のJALに吹いた新しい風のように感じる。上記、JCASTニュースをもう一度読み直すと、稲盛和夫会長の出処進退の姿も浮かんでくる。経営再建には、ニッサン流もあればJAL流もある。ともかく沈没しつつある企業を浮上させるには、コスト的に身軽になるのも基本的な条件だが、それを可能にする条件を作り出す手腕が必要なのだろう。これは経営者のリーダーシップという便宜的な言葉では言い尽くせないようだ。経営者には全人格的な素質・能力・経験等の全ての要因が問われるのではないか。

本書をよみかじって、いつの間にか良い経営者、悪い経営者云々と考えていた。第5章は「経営者能力をどうはかる」。経営能力をズタズタに要素に分解して、それからあるべき経営者像を描き出してもヒューマノイドの空しさを感じるだけだ。経営者を選べない、作れない、評価できないという状況では名経営者は生まれてこないと諦めるべきか。経営者を広義にとれば、企業経営者だけではなく、各界の実権保有者、指導者とも重なる。これらの人物像にも経営者としての役割が求められている。経営者にはなろうとしてもなれるものでもない。今日は、経営者が余りにも内向きになりすぎ、萎縮し、事なかれ主義に徹してしまっているのではないか。実は、これは虚像かもしれない。大多数の中小企業のおちゃん的経営者は、生身を不況にさらしつつも、健全な精神を失っていないと思う。

経営の語源を調べたら以下のブログに出合った。長塚建築設計事務所ブログ((株)ナガツカ 代表取締役(1958年創業、2002年より世代交代し二代目社長))に、「経営とは?;http://jqa.cocolog-nifty.com/koga/2005/07/post_d8da.html#more(2005年7月 4日 (月))」というタイトルで、「語源「経」と「営」 「経之営之=これを経しこれを営す」 紀元前八世紀、周の国の詩人が、「祖先文王が霊台という祭壇を築いて、建国のシンボルとしたことを追想して霊台を経始し、これを経しこれを営す。庶民これをおさめ、日ならずして成る」と謳っているらしい。土木工事や建築を始める際、まず経と営という作業を行ったというのである。〔詩経・大雅・霊台〕~ 直線の区画を切るのを経といい、外がわをとり巻く区画をつけるのを営という。併せて、荒地を開拓して畑をくぎるのを「経営」といい、転じて、仕事を切り盛りするのを「経営」という。~」とある。

上記は抜粋だが、経営を語源に遡って理解する事も参考になる。WEB英英辞書(http://dictionary.reference.com/browse/manage?s=t)で「manage」を調べると「man?age
   [man-ij] Show IPA verb, -aged, -ag?ing.
verb (used with object)
1.to bring about or succeed in accomplishing, sometimes despite difficulty or hardship: She managed to see the governor. How does she manage it on such a small income?
2.to take charge or care of: to manage my investments.
3.to dominate or influence (a person) by tact, flattery, or artifice: He manages the child with exemplary skill.
4.to handle, direct, govern, or control in action or use: She managed the boat efficiently.
5.to wield (a weapon, tool, etc.). 」とある。

難しい課題をなんとかやりくりして完成させたり、成功させるという基本的な意味が「manage」にある。「management」は「manage」の名詞だから、「manage」する事と明快である。どうも、日本人は、言葉も貰い物という事で、目先の目的に間に合えば良しとする風潮があるようだ。しかし、本当の経営者は、常にその初心を忘れずに、日々の問題、今後起こるかも知れない問題に立ち向かっているのではないか。3.11三大災害に際して、日本の国家経営者や超優良企業の経営者のふがいなさをなげいて昨年読みかじったのが以下の本。

「読みかじりの記:帝王学 「貞観政要」の読み方 山本七平 著 (1983年 日本経済新聞社)http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2011/07/1983-5736.html」の記事を再読してみた。『帝王学 「貞観政要」の読み方』が書かれたのも、「経営者の条件」が書かれたのも、社会的な著しい不祥事が背景にある。古いが、『帝王学 「貞観政要」の読み方』の迫力を再認識。

追記(20141/13):
サイト内でキーワード「読みかじりの記」を検索(https://www.google.com/?hl=ja#hl=ja&q=%E8%AA%AD%E3%81%BF%E3%81%8B%E3%81%98%E3%82%8A%E3%81%AE%E8%A8%98%E3%80%80site:http:%2F%2Faf06.kazelog.jp%2Fitoshikimono%2F)。

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2012年3月28日 (水)

老人の寝言:今まで驚くべき計画的隠蔽工作はなかったか。福島原発事故の一年後。

2012/3/28(水)
昨日は晴れ。穏やかな晴天。青空が見える。以前の台風で屋根の上まで傾いたナツメの木の縮伐を始めた。うまく作業をしないと屋根を壊す。方法を考えながら途中まで作業。三月中頃からだろうか、早朝ケンケンとけたたましく鳥が鳴いている。人が活動を始める時刻になると鳴き止む。かみさんと近所で飼っているクジャクだろうとかと話題になった。鳴いている時に外に出たら、方角が違う。どうも雉らしい。人家が並ぶ場所で雉が鳴くのも今までなかったように思う。山野が住み難くなったのか。郊外が住み易くなったのか。NHKのニュースで福島原発2号機のファイバースコープ調査画像が放映された。原子炉に注水された水は高濃度放射能汚染水となって炉外に流出していたことになるが、いままで報道はその真相を伝えたのか。

2012/3/27(火)の天気

TAVE= 8.1
TMAX= 15.3 最高気温(℃)  15.8  15:04
TMIN= 1.2 最低気温(℃)  1.0  05:09
DIFF= 14.1
WMAX= 4.7 最大瞬間風速(m/s)   9.3(東南東)  16:52
SUNS= 11.8
RAIN= 0

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老人の寝言:今まで驚くべき計画的隠蔽工作はなかったか。福島原発事故の一年後。

2012年3月27日 (火)の記事「老人の寝言:昨年の今頃は放射能汚染水が心配だったが、問題は更に大きくなっていないか」で、放射能汚染水の保管危機の問題を考えた。当局はステップ1の冷温停止が実現して、ステップ2に入ると実績を誇示して見せた。ところが、最近の2号機のファイバースコープによる、炉内調査で、格納容器の水位はわずか60センチに過ぎないと、新聞各紙が報じている。以下、は、日本経済新聞が報じた内容だ。

日本経済新聞は、「福島2号機の格納容器、水位わずか60センチ
内視鏡で確認 注入水の大半漏出か ;url=http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C93819595E0E4E2E08B8DE0E4E2E1E0E2E3E09F9FEAE2E2E2(2012/3/26 20:37)」というタイトルで、「東京電力は26日、福島第1原子力発電所2号機の原子炉格納容器内に工業用内視鏡を入れ、格納容器にたまった冷却水を初めてカメラで撮影したと発表した。水面は容器の底から約60センチメートルの位置にあった。水深は当初4メートル以下とされたが、大きく下回った。27日には内部の放射線量を測る。 炉心溶融を起こした1~3号機の中で線量が低い2号機から調べたが、それでも注いだ水のほぼすべてが漏れ出る損傷があるとみられる。廃炉作業では格納容器に水をためて放射線を遮蔽する計画で、作業の難しさが改めて浮き彫りになった。 東電は水温がセ氏48.5~50.0度だったことから「格納容器底部に落ちた燃料は水につかって冷却できている」(松本純一原子力・立地本部長代理)としている。水漏れは圧力抑制室やそこに続く配管が損傷している可能性が高いという。」と報じた。

原子炉には、毎時数立米の注水が行われている。日量にすれば100立米前後にはなるだろう。水温は風呂の温度より少し高い程度なので、蒸発する水量は少ないだろう。そうすると、注入した水のほとんどが、格納容器外部に流出している事になる。当然、この流出した水は、原子炉の炉心を洗うように流れるだろうから高濃度放射能汚染水という事になるだろう。ところで、昨年9月の以下の「地下水3万5千トン流入」という記事が思い出される。建屋への地下水流入の原因は建屋のコンクリート壁に地震による亀裂が入ったからというもっともらしい理由が並んでいる。、

asahi.comは、「福島第一原発、建屋に地下水3万5千トン流入;url=http://www.asahi.com/national/update/0921/TKY201109210686.html(2011年9月22日0時50分)」というタイトルで、「東京電力福島第一原発で、敷地内の建屋などにこれまでに流れ込んだ地下水の累積は約3万5千トンと見積もられることがわかった。大雨のシーズンを迎え、地下水の流入を抑えながら汚染水があふれ出すのも防ぐ微妙な水の管理が必要になる。 東電が汚染水を浄化して注水する循環注水冷却を始めた6月末時点で、1~4号機の建屋と集中廃棄物処理施設の高濃度汚染水の量は約12万1千トンだった。3カ月間の浄化処理の後、本来なら約6万トンに減るはずだったが、実際には約9万8千トンが残っている。 東電はその差から、外から供給した冷却水を差し引いた約3万5千トンの大半は、建屋の亀裂などを通じて流入した地下水とみる。1日あたりの流入量は200~500トンという。 」と報じた。

上記の記事を書いた記者はどんな記者感覚で取材したのだろうか。素人ながら、たとえ、地震により亀裂が入った建屋のコンクリート壁から、地下水が入ってきても、地下水自体は、地下への放射性物質の拡散がないかぎり、きれいな水の筈だと思わなかったのか。恐るべき事に、上記記事の水量はすべて「高濃度汚染」として計算されているように見えるのだ。そうして、各原発に注入された一日分の水量を目の子で計算すると 100立米程度X4基分で数百立米程度になる。トン数でいえば、まさに上記の記事の日量数百トンと符合するのだ。格納容器に亀裂が入って、冷却水がジャジャ漏れになっていることを想定して、巧妙なトリックが仕込まれているような情報開示がされたように思われるのだ。流入したのと流入させたのは正反対だ。

3.11三大災害から一年を経て、各方面で検証作業が進められている。しかし、新しい事実が公表されるのは意識的に遅らされているようにも感じる。こんな状況なのだから、検証は毎年行い、毎年年次報告を出し、廃炉後も検証作業を続けて本当の事実は記録に残すべきではないか。単なる区切りをつけるだけの形式的な検証では将来の事態に何の役にも立たないのではなかろうか。福島原発事故は津波による全電源喪失が直接的な原因とされているが、老朽化による耐震能力の低下が基本的に存在するという専門家の意見がある。このような基本的な信頼性問題を真摯に検証することが求められているのではないか。当局は、M9.0の巨大地震でも、原子炉は止まったと胸を張り、津波さえなければという恨み節を通そうとしているようだが、原子炉システムの耐震能力が高ければ、あるいは福島原発事故は避けられていた可能性も否定できない。未だ、地震発生から1~3日間程の分秒レベルの動きは正確に捉えられていないブラックボックスの状態にある。原発の水素爆発事故も格納容器からの大量の水素漏れが原因だろう。その原因を更に突き詰めれば格納容器の破損に繋がることは科学的な必然に近いのではないか。この仮説が正しければ、上記日本経済新聞の内容とも辻褄があってくるのである。

もう一つ、奇妙な大きな謎がある。M9.0の地震で、原子炉は全て停止した。それなのに、原子炉建屋の基礎部分になる、コンクリート壁の亀裂で、日量数百トンの浸水があると伝えられているが、それほど原子炉建屋が脆弱なものかという疑問、というよりは疑惑である。原子炉の経年劣化はすべての原子炉にやがて訪れる末期症状である。この事実を隠蔽して、全ての原発事故原因を津波に押しつけようとするのは明かな意識的な隠蔽工作ではないか。

「福島第一原子力発電所;。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E7%AC%AC%E4%B8%80%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E7%99%BA%E9%9B%BB%E6%89%80#.E4.BA.88.E5.AE.9A.E5.9C.B0.E3.81.AE.E7.94.B1.E6.9D.A5。」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。(最終更新 2012年3月26日 (月) 12:43)(http://ja.wikipedia.org/)の一部引用=「配置計画 [編集]:なお、その後の技術誌には標高35mの台地と書かれている。これを標高10mまで掘削整地し、海岸線に平行してタービン建屋を設置、その陸側に原子炉建屋、主変圧器などを設置することとした。事務本館はタービン建屋の北側に設置し、超高圧開閉所は標高35mの台地上に設置した。台地を掘削したのは原子炉建屋など重要度の高い建物を岩盤に直接支持させるためであったが、津波の可能性は一定のレベルまでは考慮していた[59]。」

原子力発電所立地の地質は岩盤の上であり、海面から数メートルの標高で、原子炉建屋に日量数百トンの浸水を起こさせる程の地下水位があるのか疑問に感じる。実態は、保管設備(タンク)が直ちに確保できないので、緊急避難的に原発建屋の地下を貯水タンクとして代用したのが真相ではないか。原発建屋の地下に高濃度汚染水を一時保管するとしたなら、原発建屋の地下の健全性は不可欠である。よくよく突き詰めてみると、何重もの疑問符が付くのである。当局がやってきたのはマッチポンプのような芝居に見えてしまう。事実の本質を隠し、責任逃れをしつつ、全てを後回しにする。そこには膨大な機会損失も生まれる。一分一秒の遅れが限りなく増幅された損害として降りかかってくる。風評被害がその一例だ。以上を自分なりにまとめると、原子炉はM9.0という地震の一撃で損傷を受けて、その結果が継続している途中に津波が襲い、津波対応で対応が後手後手となり、収束がつかなくなり、被害が拡大したのではないかと推測する。当局は、福島原発事故当初は原子炉の健全性は確保されていると懸命に説明したが、それが事実でないことは白日の下に示された。やはり、原子力発電所の安全性の基本は原子炉や原子炉管理システムの堅牢性にあるのではないか。地震対策が不十分の上で津波対策をしても屋上屋を築くだけではないか。

ここまで書いて、もう一つ盲点に気付いた。汚染水の浄化循環システムが稼働して、高度放射能汚染水の外部環境への流出は問題にならない程度に減少したと思っていたが、注入した水量よりやや少ない程度(即ち大量)の高度放射能汚染水が依然流出している事実が明らかになったのではないか。汚染水の浄化循環システムが稼働しているから安全というのは真相の全てを語ったていないように思われるのだ。

2012年3月27日 (火)

老人の寝言:昨年の今頃は放射能汚染水が心配だったが、問題は更に大きくなっていないか

2012/3/27(火)
昨日は晴れ。早い内に落葉樹を切ろうとしているがついつい先にのびる。夕方外出。水栽培のチューリップが伸び出している。根は伸びないが葉の伸びが早くなったようだ。しばらく東京電力のホームページを見ていなかったが、東京電力ホームページは、「当社原子力発電所の全基停止について;url=http://www.tepco.co.jp/index-j.html(平成24年3月25日)」というタイトルで、「当社福島第一原子力発電所、福島第二原子力発電所が停止する中、柏崎刈羽原子力発電所につきましては、順次定期検査に入っておりますが、明日3月26日より柏崎刈羽原子力発電所6号機の定期検査を開始いたします。これにより、当社の原子力発電所全てが停止することになります。 昨年発生した東北地方太平洋沖地震以降、柏崎刈羽原子力発電所の運転にご理解いただきましたことについて、周辺地域の皆さまに厚く御礼申しあげます。今後、柏崎刈羽原子力発電所につきましては、定期検査を安全に進めることと並行して、安全性に関する総合評価を実施し、設計上の想定を超える地震や津波等に対する安全裕度を確認していくとともに、津波に対するさらなる安全性・信頼性向上に向けた取り組みを着実に進めてまいります。」と報じた。日本で、現在稼働中の原子力発電はたった一基だけとなった。11年3.11より一年以上経過して、東京電力福島原発事故もの記憶も少しずつ薄らいできているように感じる。忘れてならない事は減ってはいないのだが。

2012/3/26(月)の天気

TAVE= 5.7
TMAX= 10.5 最高気温(℃)  10.7  13:58
TMIN= 1.2 最低気温(℃)  0.6  05:35
DIFF= 9.3
WMAX= 7.5 最大瞬間風速(m/s)   14.3(北北西)  11:32
SUNS= 10.7
RAIN= 0

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老人の寝言:昨年の今頃は放射能汚染水が心配だったが、問題は更に大きくなっていないか

技術断想:福島原発破局回避のシナリオ(原発谷側に巨大な貯水池を作れ)http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2011/04/post-0324.html(2011年4月 7日 (木))が、昨年必死に考えた放射能汚染水流出防止対策だった。原子炉を水で冷却を続ける限り放射能汚染水が出る。究極の解決法は完全に循環させる事だが、原子炉の状態がいまだはっきりしていない。どこかに漏れている放射能汚染水は全くないのか。ともかく、放射能汚染水は溜まる一方だ。東京電力のホームページに、今後の貯蔵方式が出ていた。スペースが無いので、地面に穴を掘って、三重シートを敷いて、そこを放射能汚染水の貯水槽にするというアイデアだ。何か、素人の自分のアイデアに似ている。自分の場合、浸水防止は当然コンクリートを考えていた。巨大な池を作れという事だが、環境への拡散まで考えるゆとりもない。ともかく可能性として検討した。東京電力の資料によると、土木関係で三重シートは実績があるので、本気で進めそうな気配だ。しかし、よく考えてみると、ほとぼりが冷めた頃、信頼性が保証できなくとも、コストが安い方式に、切り替えようとしているのではないかという疑いが生じた。鉄タンクも、やがて敷地面積等で限界が来ることを承知で進んできたのではないか。たとえ三重シートでも、面積が広ければ、材質の不均一が生じ、ピンホールも生じる可能性が高い。ともかく、水圧がかかるのだから、各シートに小さな穴が一ずつあいても、地下への放射能汚染水の拡散は起こりうる。完全な循環方式を大至急実現して、鉄タンクや樹脂シート貯水槽はあくまでも、短期間の時間稼ぎにつかうべきではないか。以下は、東京電力の計画案だが、場合によれば、数十年以上の保管が必要になる。それ程長い信頼性が保てるのか。一般土木の問題とは別次元の問題なのだ。
Cyozoutank_sheet_housiki_s
 上図の引用元:運営会議第3回会合(2012年2月27日)【資料3】個別の計画毎の検討・実施状況
http://www.tepco.co.jp/nu/fukushima-np/roadmap/images/m120227_05-j.pdf

2012年3月26日 (月)

日々農天気:ミカンの凍害2012年(20120326)

2012/3/26(月)
昨日は晴れ。朝の屋外周囲温度はほぼ0℃。容器の水は薄く氷結しているのもあるが、氷結していないのもある。用事外出。その後、凍害で傷んだ蜜柑樹の手入れをした。地球温暖化は本当か疑問に思うこともある。地球の長い歴史の中では冷害・凍害もくり返しているようだ。

2012/3/25(日)の天気

TAVE= 7.0  
TMAX= 13.5 最高気温(℃)  13.7  14:01
TMIN= 1 最低気温(℃)  0.5  05:36
DIFF= 12.5  
WMAX= 8 最大瞬間風速(m/s)   13.4(西北西)  15:54
SUNS= 8.1  
RAIN= 0  

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日々農天気:ミカンの凍害2012年(20120326)

今年の冬の寒さには参った。大雪の被害も目立った。ヨーロッパにも寒波が押し寄せた。身近な例では、野菜の値段が高騰した。大根一本が200円近い値段になった。2011年に植えたミカン苗も、まだ体力不足で、枯れたり、枯れかけたりした。今まで、若い苗は、ある程度防霜対策をしていたが、昨年はそれをさぼった。夏~秋に伸びた枝を切らずに置けば、その部分が最初に霜で枯れても、春伸びた枝は生き残るだろうと甘く考えた。

京大の農薬ゼミのホームページに、「8章 省農薬園の評価とその可能性;url=http://dicc.kais.kyoto-u.ac.jp/KGRAP/archive/report/Chap8/Chapt8.html」というタイトルで、「 1983年の冬は異常寒波が全国的に襲来した。とくに標高が300メートルもある本園は寒波の影響をより激しく受けた。当時カイガラムシ対策として冬季マシン油を散布していたが、2月中は散布液が散布機およびホース中で凍結し、散布が困難となったほどである。このような低温期の連続はミカン樹に多大の被害を発生させた。いわゆる凍害の発生である。凍結したミカン葉は融解後も葉は巻いた萎凋症状を呈し、潅水したものは比較的早期に回復するが、直射日光にさらすとその萎凋の回復が遅れる。つまり、夜間に凍結した葉が日中の直射日光にさらされ、溶解するという過程を数日間くり返すと、萎凋程度は進み、まもなく落葉する(カンキツの気象災害、小中原実著、農文協、1988)とされている。本園もこの凍害にみまわれ、全園が凍結した。ただし、園の右側(東部)は日中も直射日光に当たらない地形であるため、一日中凍結状態が保持されていたが、左側(西部)は日中の数時間は直射日光が当たる部分であり、融解し、夕方から再び凍結する状態が継続したため、萎凋状態から落葉に至った。結局、調査園の約三分の一の樹で全葉が落葉した。 このような凍害によって枯死樹が発生することもあるが、本園では幸い枯死に至るものは少数であった。しかし、樹勢の回復は困難で、前章で記載したように本園左側部分(西部)の樹勢が低く、改植数が多いのはこの年の凍害の影響も手伝っての結果であろう。」という記事があった。

このホームページは「-農薬を少しでも省いた農法(省農薬栽培)の可能性を探ってきた『京大 農薬ゼミ』- その活動や省農薬ミカン園の様子を紹介していきます。」という目的で運営されているようだ。我が家の、蜜柑樹の枯れ方を見ると、上記の記事に似ている。気象庁によると、今年の寒さにはラニーニャ現象が影響しているようだ。1983年の冬は異常寒波もラニーニャ現象が原因だろうか。これは別途調べたい。ミカン樹は常緑樹だが、常緑樹は葉が更新する時等は自然の落葉がある。これは一種の生理現象で、植物ホルモンと外部条件の相乗効果で起こるのだろう。今年の冬は、枯れた葉が落葉せずに、枝に残っているのが多い。また、枝の表側が茶色に変色しているが、裏側には緑色が残っている枝もあった。急激な寒波で、細胞が即死しているような印象である。中には、枯葉がポロポロ落ちるが、枝はまだ緑色をしているのもある。これは、樹体が一時的に落葉樹のような振る舞いをして、エネルギーの消費低減や体力の減衰を避けているように見える。ともかく、枯れ枝を切除し、枯葉はもいだ。暖かくなり芽を吹くのを待つ以外にない。

追記:「災害をもたらした気象事例 昭和58年6~7月の低温:http://www.data.jma.go.jp/obd/stats/data/bosai/report/kanman/1983/1983.html」に低温災害の例がある。この年の冬は?

以下のWIKIPEDIAの記事が参考になる。

「寒冬;。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%92%E5%86%AC。」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。(最終更新 2012年3月7日 (水) 00:20)(http://ja.wikipedia.org/)の一部引用=「1983 - 1984年:
    平均気温は全国的に平年を大幅に下回り、東日本や西日本を中心に観測史上有数の寒冬となり1944 - 1945年に次いで2番目の低温であった。特に1月中旬から2月にかけては全国的に平年を7 - 8℃下回る日が続き冬平均(12 - 2月)でも東日本、西日本で平年より2℃以上低かった。寒気団が日本列島を覆って全国的に低温となり、日本海側では記録的低温と大雪に見舞われ多くの死傷者を出した。また南岸低気圧の通過により東京都心をはじめ関東地方でも度々大雪となったほか、西日本の多くの都市でも大雪に見舞われた。東京都心では冬期間(12 - 2月)の総降雪量は89cmに達した。五九豪雪も参照。さらにこの年は3月以降も異常寒春である(関東甲信以西の太平洋側でも3月にも関わらず6日以上も冬日を記録、さらに前年11月及び4~5月も異常低温になり梅雨期まで半年以上に亘り低温傾向は解消されず4月下旬から5月上旬に北日本で季節外れの豪雪に見舞われた)。1983年秋から日本に寒波と豪雪をもたらすラニーニャ現象が断続的に発生していた。」。

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追記(2014/2/18): 「日々農天気:ミカンの凍害2012年(2012/3/26(月))」の記事が当ブログのランキングに入った。先日の大雪がその理由だろうか。我が家のミカン樹の被害状況もまだ十分掴んでいない。雪で押しつぶされているのもある。手当てが必要か?ミカンは常緑樹で雪が積もると相当大きな加重を受ける。以下に過去記事をメモしておく。

先日の大雪による倒木の例: 「愛しき古里:平成26年の記録的大雪で倒れた鯉沼の古木(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2014/02/26-1259.html)。(2014年2月17日(月) )」。

過去の柑橘(たぶん八朔)の枝が股裂きになった例。この時は、切り口が乾かないうちに枝をかなり切り落とし軽量化して手当てをした結果、一年後に癒合した。

「雑草句録:戦力外(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2011/02/28/)。(2011/2/28)」

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追記1(2019/02/23):アクセスランキングで2位に入っているがその理由が分からない。昨年は、愛媛県等のミカン産地で大きな災害があり、それと関連して検索されているのか。古いデジカメ画像を見ていたら、ミカン樹が落葉した写真があったので、ここに掲載しておく。

Iob_2019_mikan_tougai_2012_20120320
原ファイル名=「IOB_2019_MIKAN_TOUGAI_2012_ミカン凍害20120320.jpg」
IOB=IMAGES ON Beloved Ones

追記2(2019/02/23):2012年の凍害の記事を見ていて気付かなかったが、アメダスの気温データで比較できるだろうと思いついた。そこで今年作った日最低気温と2012年の日最低気温のグラフを並べてみた。落葉に気付いて上記のDSC撮影をしていたが、2012年は既に1~2月でかなり低温ストレスを受けていたと推定出来る。

Iob_2019_amedas_min_temp_2012vs2018
原ファイル名=「IOB_2019_AMEDAS_MIN_TEMP_2012VS2018_アメダス21012と2018の最低気温比較.jpg」
IOB=IMAGES ON Beloved Ones

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2012年3月25日 (日)

技術 回顧と展望:明治の文明開化から始まった電気利用は今後どうなるか

2012/3/25(日)
昨日は午前は曇り。午後より晴れ。用事外出。古本屋でDOSの本を探す。100円ショップでマスクを購入。花粉症対策。昨年の福島原発事故直後は、店頭から売り切れや買いだめでマスクが消え、入荷未定の張り紙があちこちに出ていたのを思い出す。たまたま、トイレの暦を見ていると3月25日は電気記念日と一行だけ書かれていた。電気記念日は馴染みが無く調べてみた。

2012/3/24(土)の天気

TAVE= 8.7
TMAX= 14.3 最高気温(℃)  15.6  13:40
TMIN= 5.6 最低気温(℃)   4.9  23:12
DIFF= 8.7
WMAX= 11.2 最大瞬間風速(m/s)   16.9(北西)  14:51
SUNS= 3.8
RAIN= 0

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技術 回顧と展望:明治の文明開化から始まった電気利用は今後どうなるか

「電気記念日」をWIKIPEDIAで調べてみたが内容が貧弱であった。日本電気協会のサイトで調べた。社団法人日本電気協会は「明治25年の「日本電燈協会」発足に源を発し、その後幾度かの改変を経て、大正10年10月に設立された、日本で唯一の電気関係総合団体です。」との事だが、こちらも余り馴染みがない。

日本電気協会のサイトには、「 電気記念日の由来 ;http://www.denki.or.jp/about/origin.html」というタイトルで、「毎年3月25日は、電気記念日です。 明治11年(1878年)3月25日、工部省電信局は、万国電信連合に加盟する準備として東京・木挽町に電信中央局を設け、その開局祝賀会を東京・虎ノ門の工部大学校の講堂で開催しました。 祝賀会は、大臣や各国行使など150名を越える人々が参加し、盛大に行われました。夕方、大学校の車寄せに多くの来賓を乗せた馬車が次々と到着し、玄関から2階の講堂へ案内されていきました。」とある。

いわば、「電信中央局 開局祝賀会」というメインイベントを盛り上げるためのサイドイベントが電灯の点灯だった。WIKIPEDIAの「電信」によると、「アメリカ合衆国 [編集]:1836年にアメリカの科学者デイビッド・オルターがペンシルベニア州エルダートンで電信機を発明した。
日本 [編集]:1854年、ペリーが持ち込み、日本に電信がもたらされた。ペリーは電線を1km程引き、公開実験をおこなった。このとき、「YEDO, YOKOHAMA」(江戸、横浜)と打った。1869年、電信による公衆電報が東京・横浜間で開始された。」とある。当時では、電信は通信革命と言えただろう。明治維新(WIKIPEDIA=開始時期については諸説あるが、狭義では明治改元に当たる明治元年旧9月8日(1868年10月23日)となる。)直後から文明開化の波が押し寄せているのが分かる。

「電気記念日の由来 」はさらに電灯点灯の様子を、「この日、会場に電気灯を使用するよう、工部卿伊藤博文から特に命ぜられていた英国人エアトン教授は、グローブ電池50個を使い、講堂の天井に設置されたアーク灯(「デュボスク式アーク灯」)を点灯するため、自ら難しい調整にあたっていました。 やがて6時、エアトン教授の合図とともに、目もくらむような青白い光がほとばしり、講堂をくまなく照らし出しました。その場にいた来賓たちは、「不夜城に遊ぶ思い」と驚嘆の声をあげたといいます。 これが、日本で電灯が公の場ではじめて点灯された瞬間でした。 翌年の1879年10月21日には、米国でエジソンが白熱電球を発明し、日本にも輸入されました。明治19年(1886年)には東京に電灯会社が生まれ、電灯に動力にと、電気の時代が幕を開けました。~動力への利用は電灯よりも少し遅れて、明治23年(1890年)11月、東京・浅草の凌雲閣(12階)のエレベーター運転用として、7馬力電動機に供給されたのが初めてです。明治28年2月には、京都伏見線で電気鉄道が初めて営業運転を行いました。このように、3月25日は日本の電気事業にとって忘れることのできない日です。
これを記念するため、昭和2年に開催された日本電気協会の総会において、3月25日を「電気記念日」と定めました。以来、翌年の昭和3年から毎年3月25日頃に全国各地でさまざまな記念行事が開催されています。」と記す。

上記の記事から、設置されたのはアーク灯(空中放電)であり、調整が難しいことが分かる。この問題を解決したのがエジソンの白熱電球という事になる。当地区では、父が幼少の時電灯がともり、大喜びをしたと昔話が伝わる。大正時代の中頃まではランプの生活をしていたのだ。その後、終戦まで、家庭での電気の使われ方は詳しく分からない。電灯中心の利用だと思う。終戦後、地域に共同風呂があり、これは電熱利用だったそうだ。我が家でも、卵から鶏の雛をかえした頃があり、その時は保温に電球を使っていたようだ。脱穀機も足踏み式からモーターを使った電動式に代わった。

電気は便利だが見えないという性質があり、ついついその存在と有り難さを忘れてしまうが、そのエネルギー利用の安定性に不安が目立ってきたのが現代だろう。「心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(4)http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2012/03/post-f7fe.html」に、明治12年の交通事情として、「当時を物語る記録では、行啓は、大夫・書記官・侍医等150名からなる従官を伴って御馬車に乗り、途中大宮・熊谷・高崎に泊まり、山道に入ってからは御興しに乗り換えこの地に辿り着いた」という記事がある。明治11年の「電信中央局 開局祝賀会」と対比するとするとその格差にも興味を感じる。電気利用も単なる、熱、光、動力から、それらを自由に制御する情報通信化時代に入っている。「電気記念日」も電気の歴史を振り返り、未来のエネルギーのあり方を考える上で意義ある日に違いない。

2012年3月24日 (土)

科学ニュースに独り言:光速より早いニュートリノは実験ミス?

2012/3/24(土)
昨日は曇り午後より雨。朝方は定例の仕事。科学は見えない物を見せてくれる。物と物の関係を教えてくれる。今日、科学の知識が無くなると仮定すると、世界の見え方ががらりと変わるのではないか。残念ながら、この科学知識は先天的に獲得できない。人間の学習能力の上に後天的に積み上げてゆく必要がある。幼少時に母親に、「太陽は火かい、月は水かい」と聞いたことがあったらしい。子供の頃の失敗では、沸騰する鉄瓶のお湯の温度を測って、温度計を割ってしまったり、早く育てと植物に石鹸水を与えて、父に笑われた事を覚えている。おばさんから、磁石の不思議のようなことを書いた本をもらったのが科学らしい物への最初の出会いだったと思う。見えないものを見ようとするのは人間の要求の一つと言えるだろう。ニュートリノという粒子の不思議さは未だ完全に解明されていない。その多さと微少さで、人体中にも無数のニュートリノが飛び交っている。それを捉えるには巨大な装置が必要だ。

2012/3/23(金)の天気

TAVE= 8.5
TMAX= 10.7 最高気温(℃)  11.1  10:34
TMIN= 5.9 最低気温(℃)   5.8  20:37
DIFF= 4.8
WMAX= 4.7 最大瞬間風速(m/s)  .7(西北西)  04:11
SUNS= 0
RAIN= 7.5

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科学ニュースに独り言:光速より早いニュートリノは実験ミス?

昨年だったか、ニュートリノが光速より早いという実験結果が出て、世界中を騒がせた。アインシュタインの相対性原理が成立しなくなる現象として関心を集めた。自分も、本当か?と情報を集めてみたが所詮素人で、本質的な事は皆目分からない。しかし、その実験がGPSシステムを使った測定で、そのデータが、統計処理されている事は何となく分かった。測定系の各部分に統計誤差が生じるので、その誤差を処理すると、有意なデータが残り、ニュートリノの走行時間が光の走行時間より短いと結論したようだ。最初に疑問に思ったのは、何故GPSシステムかという事。GPSシステムは数個の人工衛星を使って距離を算定するシステムだが、システムとしては複雑すぎるのではないかと思った。いわば、実験として何秒早いかという問題設定とどちらが早いかという問題設定が可能だろう。測定系としては、後者の方が単純になり、誤差の評価が簡単になる。陸上の走行競技と同じだ。中間の条件は問わない。光とニュートリノを同時に発射し、ゴールでどちらが先に着くか、その確率が50%なら、光とニュートリノの速さに有意さはないといえるのではないか。ともかく、精密実験では、光とニュートリノを同時に発射も、発射の同時性も問題になると思うが、距離を測定してから、時間を逆算するという手順では、システム誤差が入りそうだと思った。

CNN.co.jpは、「ニュートリノ、検証実験で光速超えず 当初結果にまた疑問符 ;url=http://www.cnn.co.jp/fringe/30005947.html(2012.03.17 Sat posted at: 14:42 JST )」というタイトルで、「(CNN) スイスにある欧州合同原子核研究機関(CERN)の国際共同研究グループOPERAが昨年9月、素粒子ニュートリノが光より速く飛んだとする実験結果を公表し科学界に衝撃を与えた問題で、イタリアのグランサッソ研究所は16日、CERNとの間の検証実験でニュートリノは光速を超えなかったと発表した。 CERNは先月、時間計測に使った光ファイバーケーブルに緩みがあったなどの欠陥が見付かったとも発表しており、光速を超えたとする当初の実験結果は間違いだったとの見方がさらに強まりそうだ。 CERNによると、9月の実験結果の「最終的な検証」のためグランサッソ研究所で今年5月、計4回の実験を実施する。 OPERAは昨年9月、1万5000個以上のニュートリノを使い、ジュネーブ郊外にあるCERNと約730キロ離れたグランサッソ研究所の間の地中で粒子加速器を用いて実験。ニュートリノの飛距離と時間などを10億分の1秒単位まで厳密に計算し、光より速かったと発表していた。」と報じた。

上記ニュースを読むと、その後の検証で実験が誤りであった可能性がより高まったようだ。しかし、それだけで、この実験の幕引きはできないだろう。少なくとも、光とニュートリノの速度は、誤差X%の範囲で同じであったという結論を出してもらいたい。「時間計測に使った光ファイバーケーブルに緩みがあったなどの欠陥が見付かったとも発表」したのなら、それらの不具合を一掃して再実験を行うべきではないか。この欠陥自体、余りにもお粗末な理由に過ぎない。予備実験をしていれば完全に除去できる問題だ。測定系は校正をして初めて正確性・精度が保てるのだ。物理原則をひっくり返すほど重大な実験結果を発表するのだから、データの評価、発表は万人を納得させるだけの慎重さが必要であったろう。既に、超新星爆発により発射された、光とニュートリノの速度からOPERAの実験結果に疑問が出されていたようだ。ともかかく、違った方法で同じ結果が得られるという事実も重要だろう。OPERAの実験には、多くの科学者が参加していたようだ。科学実験が巨大になり、OPERAと同じ実験を別の機関が行うのは相当な困難が伴うだろう。真偽・確実性を犠牲にして、それが真実ならノーベル賞は疑いなしという初名のりという成果を急ぎ、万一それが誤りであってもその実験結果を否定するのは自分達しかないという甘い考えはなかったか。科学者の役割が余りにも細分化して、群盲像をなでるという状況はなかったか。実験系だけでなく、機構・組織の検証も必要ではないか。巨大科学の余りにも早い自己否定は、単なる誤りで片づけられないような危機・不安を感じる。

2012年3月23日 (金)

心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(6)

2012/3/23(金)
昨日は曇り一時晴れ間。用事外出。ついでに工作に使うため強力マグネットを百円ショップで調べた。磁力の強さは数十ミリテスラとあった。http://staff.aist.go.jp/nakashima.yoshito/nouzei/magnet.htmによると、地磁気:0.3-0.5ガウス=0.00003-0.00005テスラ、磁気ネックレス:0.13テスラ、病院の超伝導磁石を用いたMRI:1.0-1.5テスラ(1T=10000G)との事だ。この磁気というのも、人間は見ることも感じることもできない。以前、脳ドッグを受けたとき、MRI装置の磁力は1.5テスラとの表示があった。検査が終わって担当員に1.5テスラという磁気の強さはどの位か聞いてみた。ボールペンをその装置の上で離すと浮いてしまった。一目瞭然とはこのこと。あの、ガンガンという音を検査の内容毎に変えているのだそうだ。

「核磁気共鳴画像法;。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B8%E7%A3%81%E6%B0%97%E5%85%B1%E9%B3%B4%E7%94%BB%E5%83%8F%E6%B3%95。」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。(最終更新 2012年3月20日 (火) 10:09)(http://ja.wikipedia.org/)の一部引用=「核磁気共鳴画像法(かくじききょうめいがぞうほう、英語: magnetic resonance imaging, MRI)とは、核磁気共鳴 (nuclear magnetic resonance, NMR) 現象を利用して生体内の内部の情報を画像にする方法である。断層画像という点ではX線CTと一見よく似た画像が得られるが、CTとは全く異なる物質の物理的性質に着目した撮影法であるゆえに、CTで得られない三次元的な情報等(最近のCTでも得られるようになってきている)が多く得られる。また、2003年にはMRIの医学におけるその重要性と応用性が認められ、"核磁気共鳴画像法に関する発見"に対して、ポール・ラウターバーとピーター・マンスフィールドにノーベル生理学・医学賞が与えられた。」。

2012/3/22(木)の天気

TAVE= 6.9
TMAX= 14.2 最高気温(℃)  14.6  16:38
TMIN= -1.1 最低気温(℃)   -1.4  05:10
DIFF= 15.3
WMAX= 5.3 最大瞬間風速(m/s)  10.4(北西)  17:15
SUNS= 1.3
RAIN= 0

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心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(6)

吉田松陰の名前の名乗りの理由を推測してみたが、楫取素彦の場合はどうかと推測してみた。既に、どこかに正解があるのかも知れないし無いのかもしれない。

高山彦九郎が自ら名乗った名前があるか知らないが、IKIPEDIAによると、「高山彦九郎http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%BD%A6%E4%B9%9D%E9%83%8E」に、「上野国新田郡細谷村(現群馬県太田市)の郷士高山良左衛門正教の二男として生まれ、諱を正之という。」とある。「正之」とは「正しい道を行く」の意味にとれるだろう。そこで、WIKIPEDIAで「諱(いみな)」を調べた。

「諱;。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B1。」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。(最終更新 2012年2月9日 (木) 15:23)(http://ja.wikipedia.org/)の一部引用=「概要 [編集]:諱という漢字は、日本語では「いむ」と訓ぜられるように、本来は口に出すことがはばかられることを意味する動詞である。 この漢字は、古代に貴人や死者を本名で呼ぶことを避ける習慣があったことから、転じて人の本名(名)のことを指すようになった。諱に対して普段人を呼ぶときに使う名称のことを、字(あざな)といい、時代が下ると多くの人々が諱と字を持つようになった。 諱で呼びかけることは親や主君などのみに許され、それ以外の人間が諱で呼びかけることは極めて無礼であると考えられた(詳細は、実名敬避俗(じつめいけいひぞく)及び避諱を参照)。 また、僧侶が受戒するときに受ける法名のことを、仏弟子として新たに身につける真の名前という意義から諱(厳密には法諱(ほうい、ほうき))といった。 日本では時代が下ると、僧侶の受戒が、俗人の葬式で死者に授戒し戒名として諱を与える儀礼として取り入れられた。このため、現在では諱は諡と混同され、現代日本語ではしばしばほとんど同義に使われることもある。」。

高山彦九郎が存命中の当時は、親や自分は本名「正之」を使ったのではないか。松本淳氏のホームページに、頼山陽の「高山彦九郎傳」の原文と現代語訳が紹介されている(http://kambun.jp/kambun/rai-takayama-yaku.htm)。この、「高山彦九郎傳」で頼山陽は高山彦九郎を「正之」と記している。この訳文を読むと上州人気質の義理人情ぶりが高山彦九郎の中にも流れている事を感じる。更に、自刃の様子も活写されているが、その自刃の理由については「正之はこうして死んだ。彼の死は、京都、江戸、大阪の三都に伝わったが、誰も彼が自殺した理由を知るものはなかった。」と記し当時から謎であったようだ。その訳文の結語に、「父は正之の伝記を作ろうとしていたが、果たさぬうちに亡くなってしまった。私は最近、ある人が正之のことを書いた記事を読んだのだが、それには正之のことをまるで叛徒のように書いてあった。これはまったくの濡れ衣である。そこで、私は父から聞いたことを書いたのだ。」とある。頼山陽(WIKIPEDIA:頼 山陽(らい さんよう、安永9年12月27日(1781年1月21日) - 天保3年9月23日(1832年10月16日))は江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人である。幼名は久太郎(ひさたろう)、名は襄(のぼる)、字は子成。山陽は号である。)がこの「高山彦九郎傳」を後世に残そうとした理由もやはり高山彦九郎のDNAを温存させることにあったのではないか。高山彦九郎の自刃の理由は謎とされている。その謎を解く鍵の一つに、「松陰以白居士」があるのかも知れない。高山彦九郎は自分をどのように名乗ったか分からないが、その志を継いだ人が「松陰以白居士」という戒名を以てその理想を名乗らせてやったように感じてしまう。

御蔭松の石碑に刻まれた明治十二年において、明治維新という激動は治まり、社会はその歴史を回顧できる状況になってきたと思われる。その年は、吉田松陰没後20年でもある。吉田松陰の獄死は、その時点では、いわば二昔前の事になる。世間では、吉田松陰の名前も忘れられかけていたかもしれない。加藤健太郎氏の記事にある、楫取素彦は「歴史の仲介役」という指摘は的を射ていると思われる。更に、上記の記事に、「そんな人物の墓が、山口県防府市にある。かつては三田尻の地名で知られたこの街は、ちょうど同県の中央、瀬戸内海側に位置し、幕末長州藩が慶応3年末に朝敵の汚名を返上すべく王政復古・討幕を期して上京する際の出発地となった場所である。そこに諸隊参謀として楫取素彦の姿があった。この年まで楫取は小田村素太郎を名のっていた。」と記している。

WIKIPEDIAによると、小田村素太郎が楫取素彦を名乗ったのが慶応3年(1867年)9月との事。その翌年、明治元年(慶応4年)明治天皇が即位し、明治維新となる。三省堂 大辞林:「楫取」には、「かとり 【楫取】:姓氏の一。」、「かじとり(舵取:「かじとり(舵取)」の転。[日葡])」とある。「彦」:男子の美称、才徳のすぐれたひと。水をかいて船を漕ぐ具で、櫂は長い、楫は短いものを意味するとの事だ。小田村素太郎から楫取素彦への改名の正確な由来は知らないが、この激動の時代に身を処す決意を込めた改名(名乗り)に思われる。この時、楫取素彦38歳である。尚、名乗りには、武士が戦場で名や素性を告げる意味があるとの事。名に命と名誉をかけた武士の真剣勝負を思い起こす。

以上のような経緯を見た上で、我々現代人は、楫取素彦が渋川市の御蔭松の碑文に託したメッセージを読み解く以外にないのだろう。今、正に吉田松陰が志した夢は実現し、自分が県令であるこの地の、この御蔭松の下に、皇太后をお迎えできた。松陰が生きていれば...。楫取素彦の碑文は吉田松陰については黙して語らないように見える。それは、高山彦九郎の戒名「松陰以白居士」と同様に永遠の黙示録かも知れない。

渋川市の「御蔭松」と「御蔭松の碑」に出合ったのは2012/3/6の午後であった。前日、雪が降り、翌日その雪が解けて、碑面の苔が濡れていた。その苔を指で撫でて、浮かび上がった幾つかの文字を手帳に書き残しただけだった。改めてその碑の写真を見ると漢文のようである。碑文の解釈や理解はその場では不可能であった。碑文を読めば理解は進むだろう。是非誰かに解読をお願いしたいところだ。WEB上の色々な情報を参照させていただき空想を広げてこの記事を私的メモとして書いた。渋川市の「御蔭松」と「御蔭松の碑」に関してはどこかに正確な記録があるかも知れない。行政上の「御蔭」という住所は既に町村合併等で消滅しているが、「御蔭地区」という、呼び名はまだ残っているようだ。手帳のメモによると碑があるのは、県道南側の小さな公園で御蔭公園とあった。また、ゴミ出し場所のような看板には御蔭自治会とあった。地元では地名の由来も伝承されていると思う。ともかく、地名に「御蔭」が残っているので、歴史を辿ればその由来はある程度解明できるだろう。御蔭公園には、もう一つ、角形のより大きな石碑があった。この碑に、関連の情報が記されていたかもしれないが、確認のゆとりもなかった。更にもう一つ、道路面に向いた石碑らしいものがあった。標識的な石造物かもしれない。高山彦九郎が明治維新のさきがけとなる人物である事には間違いないだろう。平成24年は楫取素彦没後100年、平成25年は高山彦九郎没後220年の節目の年となる。歴史を辿れば、群馬県は高山彦九郎、吉田松陰、楫取素彦という見えない線で結ばれているようだ。伊香保から県道33号線を下り渋川に向かう小さな徒歩の旅で、渋川市の御蔭松と楫取素彦の名が刻まれた石碑に出会い、それをきっかけに始まった歴史上のヴァーチャルの旅が思わぬ方向に進んでしまったが、思い出に残る寄り道になった。

2012年3月22日 (木)

心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(5)

2012/3/22(木)
昨日は晴れ。風が強くスギ花粉が飛んだようだ。ポット苗の除草と灌水。ようやく一巡。マスクをせずに屋外作業をしたので、眼が痒くなり、くしゃみが出た。花粉症の症状だ。蕗の薹が出ていた。一握り収穫。煮込みうどんの上にほぐした蕗の薹をばらまいて食べる。独特な苦みに春を感じる。この苦みは外敵から花を守るためなのかと思う。

2012/3/21(水)の天気

TAVE= 5.9
TMAX= 10.5 最高気温(℃)  11.1  14:55
TMIN= 1.5 最低気温(℃)   1.2  06:12
DIFF= 9
WMAX= 9.5 最大瞬間風速(m/s)  16.6(北西)  09:39
SUNS= 10.5
RAIN= 0

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心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(5)

楫取素彦は初代群馬県令を経て、大正元年(1912年)8月14日没(享年83歳)。吉田松陰の夢も明治維新として実現された。吉田松陰は高山彦九郎と同様、生きてその志は果たせなかったが、高山彦九郎生地の群馬県令在職中に、皇太后の群馬県行啓があり、感無量の境地にあったのかも知れない。「御蔭松の碑」に記された群馬縣令楫取素彦という文字には、この「御蔭松の碑」は楫取素彦や吉田松陰の気持を御蔭松に託した後世へのメッセージであると語っているように感じられた。「御蔭松」こそ、「松陰」の名前を密かに盛り込んでいるのではないかと謎のように思われるのだ。楫取素彦がそれ以外の理由でそこに碑を建てる理由があったのか。御蔭松こそ松陰のシンボルに見えるのだ。現在では、高山彦九郎、吉田松陰、楫取素彦も、既に過去の人物になってしまい、ほとんど脚光を浴びていない。

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楫取素彦の名がある石碑(DSC=2012/3/6)

上毛新聞ニュースは、「;url=http://www.raijin.com/news/a/2012/01/22/news02.htm(更新日時: 2012年1月22日(日) AM 07:11)」というタイトルで、「本県近代化の礎を築きながら、県民にあまり知られていない初代群馬県令、楫取素彦(かとり・もとひこ、1829~1912年)。今年が没後100年となるのを記念して功績を再評価し、顕彰する動きが活発化している。県民有志が近く「楫取素彦顕彰会」を立ち上げ、胸像や足跡を記した顕彰板設置に向けて活動開始。出身地の山口県萩市と友好都市提携している前橋市は、市制施行120周年の一環としてパネル展を計画している。
 楫取は1876(明治9)年に成立した第2次群馬県の初代県令。養蚕・製糸業振興に尽力し、小学校就学率を向上させるなどで本県を全国有数の教育県に押し上げた。廃娼(はいしょう)運動に力を入れたことでも知られている。 こうした功績をより多くの県民に知ってもらおうと有志が顕彰会を発足し、県庁北西の高浜公園に新年度、功績を紹介する顕彰板を建てるほか、胸像を造る募金活動を始める。将来は県庁前や臨江閣など目立つ場所に碑を移設することも検討する。 前橋市は萩市と2002年に友好都市となり、今年で10周年。萩市が9~10月にパネル展を開いた後、前橋市も11月に資料展示を予定している。 前橋市は楫取について「前橋への県庁移転を決定付け、その後の市の発展に大きな影響を与えた。市民にもっと知ってほしい」と期待。萩市は「吉田松陰、高杉晋作に比べると楫取の知名度は低い。前橋市とともに再評価する機運を盛り上げたい」としている。 県議会は新年度、議会棟展示ホールを移設するのに伴い、廃娼運動を推し進めた2代目議長、湯浅治郎とともに楫取の資料も展示する方向で調整している。 楫取に詳しい中村紀雄県議は、楫取の妻の寿(ひさ)と、寿の死後に妻となった美和子がともに楫取と親交が深かった吉田松陰の妹だったことに着目。「松陰と楫取の2人にスポットを当てる企画展などを開けば、観光や地域振興につながるのではないか」と期待する。 県立歴史博物館の学芸員、手島仁さんは「楫取は生涯の中で県令時代が最も輝いていた。功績は語り継がれるべき」と話している。」と報じた。

楫取素彦とゆかりの深い山口県では、昨年の百回忌を迎えて顕彰の動きがあったようだが、群馬県では、最近ようやく、その動きが出てきた段階のようだ。

「幕末掃苔屋」サイトで、加藤健太郎氏は、「楫取素彦夫妻の墓―山口県防府市桑山大楽寺墓地―http://kawachisoutai.chu.jp/tanboko2.html」というタイトルで、以下のように書いている。楫取素彦夫妻や関係者の墓参拝を通して、貴重な見解を述べている。掃苔という活動は、墓の持つ歴史性・人物性・メッセージ性を除去しては成立しないだろうと感じた。以前、歴史人物に興味を持つ人の後について、墓巡りした経験があるが、それに傾倒しなければ長続きはしないと思った。

以下上記よりの引用
*********************************************
「楫取は確かに歴史上の人物ではあるが、我々と歴史の仲介役であると思う。なぜなら、生前の吉田松陰と親密な交流があったことはもとより、松陰の文章が他人の良き教訓となるからと、松陰が生きているうちから世に紹介しようとしたことによる。松陰没後もその遺墨が翻刻されるや序文や解説文を送り、顕彰に余念がなかった。松陰の実兄杉民治と提携して、群馬県令という職務の合間にそのような活動を積極的に行ったのである。これが実に松陰と我々を繋ぐ梯子役になっているという意味で、筆者は楫取を歴史の仲介役と称しているのである。  楫取は激動の幕末にあって、元号が慶応ともなると、松陰のみならず、義弟である久坂玄瑞、実兄松島剛蔵や従兄弟の玉木彦助が戦争や内乱などで相次いで亡くなることに、何処か置き去りにされた観があった。それは次の詩によって心情が読み取れる。

うとまれて物のかずにもあらぬ身を
            うとまぬ人は君ならで誰ぞ

これは「物のかず」の部分が南北朝時代南朝方の楠木正行の詩に

  かへらじとかねて思へば梓弓
            なき数に入る名をぞとどむる

とあるのによく似ている。幕末に相当もてはやされた楠木正成の影響を楫取も例外でなく受けていたように筆者には思われる。  長州藩の尊王攘夷派として決して派手ではないが、楫取も自宅に幽閉される憂き目に遭った。その時、禍を畏れて親類縁者も見舞いをはばかる中にあって、楫取の心が折れなかったのは、妻ヒサの母、即ち松陰の母による「うとまぬ」励ましのおかげであった。そしてその傍らには松陰の講義を親身に聞いていた妹の妻としての支えがあったのである。妻ヒサは、残念ながら明治一四年(1881)一月一三日、帰らぬ人となった。彼女の生涯は、楫取自身が青山霊園の墓碑に「君」として事績を刻んでいる。その後、楫取は松陰の三妹で久坂玄瑞未亡人の文(美和子と改名)を後妻に迎えたことは、松陰一家と楫取の一体感をよく示している。
  楫取は、群馬県令を十数年の長きにわたり勤め、教育や生糸を中心とした産業振興に尽くし、同県の発展の基礎を築いた。その後元老院議官、貴族院議員、宮中顧問官などを歴任し、大正元年(1912)八月一四日、八四歳の天寿を全うしたのである。ちなみに生年は文政一二年三月一五日(1829・4・18)である。」
*********************************************以上引用終わり

上記の加藤健太郎氏の記事を読むと渋川市の御蔭松とそこにある楫取素彦の石碑の謎が少し解けてくるように感じる。同氏は「楫取は確かに歴史上の人物ではあるが、我々と歴史の仲介役であると思う。」と述べている。また、「松陰の実兄杉民治と提携して、群馬県令という職務の合間にそのような活動を積極的に行ったのである。これが実に松陰と我々を繋ぐ梯子役になっているという意味で、筆者は楫取を歴史の仲介役と称しているのである。」とも述べている。渋川市の「御蔭松」と「御蔭松の碑」は、吉田松陰の蔭(かげ:影響、関わり等の総称として)を背負って、日本の近代化に身を投じてきた楫取素彦が、吉田松陰の志を顕彰しようとしているのではないかと感じる。楫取素彦が群馬県で活躍したのが50歳前後で、時代の舵取り役として、最も充実した仕事ができた年齢であったように思われる。そういう意味で、渋川市の「御蔭松」と「御蔭松の碑」は、吉田松陰と強く・太い絆で結ばれ、吉田松陰の志を密かに背負って、日本の近代化に邁進した楫取素彦自身が直接関与して、吉田松陰を顕彰した貴重な歴史資産ではなかと思われる。碑文の全文が読めないのが残念だ。

*************************
追記(2014/2/16): 記事=「心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(5)」が当ブログのランキングに入ったので関連記事を追記しておく。

「0017_「楫取素彦」関係記事(目次)(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/0017_KATORI_MOTOHIKO_KIJI_MOKUJI.html)。」 関連記事へのリンク。

サイト内でキーワード「高山彦九郎OR吉田松陰OR楫取素彦」を検索(https://www.google.com/?hl=ja#hl=ja&q=%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%BD%A6%E4%B9%9D%E9%83%8EOR%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%BE%E9%99%B0OR%E6%A5%AB%E5%8F%96%E7%B4%A0%E5%BD%A6+site%3Ahttp%3A%2F%2Faf06.kazelog.jp%2Fitoshikimono%2F)。

追記2(2014/3/17):
現在ランキング:上位8位。
関連記事(御蔭松とその碑の画像は)は下記に掲載。
「半端道楽:写真で俳句る:渋川の御蔭松には深い謎が?(畏くも 松陰語る 御蔭松。)(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2014/03/post-ed95.html)。(2014年3月16日(日))」

追記3(2014/3/18):
現在ランキング:上位6位。
関連記事(御蔭松とその碑、書き出した碑文は)は下記に掲載。
「心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(7)(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2014/03/post-9850.html)。(2014年3月18日(火) )」

追記(2014/10/2):本記事がランキング10位に入った。NHK大河ドラマ「花燃ゆ」効果なのか。前人気も上昇中のようだ。しかし、よく考えると、受信料を取って公共の電波を使って、大金をかけた娯楽番組を流すのも、勿体ないように感じる。ともかく、一時のフィーバーで歴史が洗い流されるような事態にならないよう願うばかりだ。

WIKIPEDIA「花燃ゆ。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E7%87%83%E3%82%86)」。

自分が、「高山彦九郎」を知ったのは、偶然に高山彦九郎記念館を訪問した事による。ここで、「高山彦九郎の実像 維新を呼んだ 旅の思想家」という冊子を購入した。没後200年を記念して編集されたようだ。

太田市立 高山彦九郎記念館のホームページ:http://www5.wind.ne.jp/hikokuro/

その中に、「(高山)彦九郎 歌と生涯」須永 義夫(歌人)という記事を見付けた。須永義夫氏が主催していた短歌会に母が通っていたので、同氏の歌集が数冊あった。そこで、高山彦九郎の歌を鑑賞してみようという気持ちになった。

サイト内でキーワード「高山彦九郎 歌と生涯」を検索(https://www.google.com/?hl=ja#hl=ja&q=%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%BD%A6%E4%B9%9D%E9%83%8E%E3%80%80%E6%AD%8C%E3%81%A8%E7%94%9F%E6%B6%AF%E3%80%80site:http:%2F%2Faf06.kazelog.jp%2Fitoshikimono%2F)。

サイト内でキーワード「高山彦九郎 AND 吉田松陰 AND 楫取素彦」を検索(https://www.google.com/?hl=ja#hl=ja&q=%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%BD%A6%E4%B9%9D%E9%83%8E%E3%80%80AND%E3%80%80%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%BE%E9%99%B0%E3%80%80AND%E3%80%80%E6%A5%AB%E5%8F%96%E7%B4%A0%E5%BD%A6%E3%80%80+site%3Ahttp%3A%2F%2Faf06.kazelog.jp%2Fitoshikimono%2F)。

これも、偶然だが、楫取素彦の名前が刻まれた記念碑に遭遇した。殖蓮史談会の会長は、高山彦九郎の通った道を探索した事があったそうだ。戦前は、高山彦九郎は地域の偉人として顕彰されたが、戦後は一転して、疎んじられているようだ。

色々な縁で、高山彦九郎、吉田松陰、楫取素彦の関係を調べているが、そこで遭遇した謎が、「御蔭松の碑」ではあった。最近、「楫取素彦伝 -耕堂楫取素彦男爵伝記-」が発行された。この中に、「御蔭松の碑」の碑文も掲載されている。煥乎堂で購入したがまだツンドク状態である。

以下に「御蔭松の碑」の表面に書かれた和歌を上記伝記より以下に引用しておく。崩し文字なので全く読めなかった歌だ。

「芝中ノ松ノヤドリニ千代カケテ残ルハ君ガ御蔭ナリケリ」。

追記(2014/10/3):「御蔭松の碑」周辺MAPを追加。

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2012年3月21日 (水)

心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(4)。20120321。

 2012/3/21(水)
昨日は晴れ。最高気温(℃) = 14.2  14:24となり、穏やかで暖かい日であった。墓参。花は周辺に咲いている水仙、菜の花、ハナダイコンを摘んで供えた。今年の寒波で枯れた蜜柑樹の手入れをした。枯葉や枯れ枝を除去。新しい目を出して復活して欲しいところだ。丸ごと枯れた蜜柑樹も多い。枯れ方のひどい蜜柑樹はやはり、寒風を受けたり、実を付けたまま放置した株が多い。植物も外部からのストレスと内部からのストレスが生死に関係するようだ。今年は特記すべき寒さのようだ。梅園の観光客にも影響が多いらしい。

2012/3/20(火)の天気

TAVE= 6.7  
TMAX= 13 最高気温(℃)  14.2  14:24
TMIN= 0.3 最低気温(℃)   -0.2  06:15
DIFF= 12.7  
WMAX= 6.7 最大瞬間風速(m/s)  12.9(西北西)  22:25
SUNS= 11  
RAIN= 0  

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心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(4)

高山彦九郎の戒名の解釈で、前回『高山彦九郎の心の叫び「~以て、自分は潔白であると申す」という意味にとれるのではないか。謎は、「~以て」の部分だろう。』と書いた。戒名「以白」には謎が多い。しかし、「以白」の部分が別の名前であった場合、吉田寅次郎がどれほど、「松陰」という名前に共鳴したか分からない。この部分に、吉田寅次郎が自分の運命を重ねる事ができたから、高山彦九郎への共感が高まったのではないか。以上は「以」の扱いが中途半端かもしれない。「松陰」と「以白」を別々に解釈する事も可能だろうし、「松陰」と「以白」を関連づけて「松陰を以て自ら潔白を申す」ともとれるし、「以」を「~して、~にして」と接続詞のようにもとれそうだ。その場合「松陰にして、あきらか」というような常識的な解釈も可能だろう。通称吉田寅次郎が吉田松陰を名乗る事になった真の理由は、今となっては知る由もないのかもしれない。

広辞苑によると「御蔭」には、「太陽を避けて、蔭となる所、殿舎の意味と恩恵の尊敬語という意味がある。「御蔭松」とは、「太陽を避けて、蔭となる松の木で、殿舎の代用」という意味になるだろう。渋川市の「御蔭松の碑」は皇太后が伊香保に向かう途中休憩された松とその事跡記念するために建立されたものと思われる。楫取素彦が作成した碑文の解明が待たれる。
Mikage_matu
渋川市の御蔭松(DSC=2012/3/6)

伊香保凌雲閣 ホームページには、「凌雲閣 当館の由来;url=http://www.ikaho-ryounkaku.com/onsen.stm」というタイトルで、「この伊香保の地に、明治12年7月、明治天皇の御母君にあせられる英照皇太后陛下(考明天皇の皇后)が親しく行啓せられました。この行啓は、伊香保が保養地として全国から注目されるようになり、皇族として最初のことであり歴史的な出来事でありました。当時を物語る記録では、行啓は、大夫・書記官・侍医等150名からなる従官を伴って御馬車に乗り、途中大宮・熊谷・高崎に泊まり、山道に入ってからは御興しに乗り換えこの地に辿り着いたと言われ、陛下の御座所にこの「楽山館」を当て、他は隣接6件の館を当て、7月17日から8月2日まで滞在したとのことであります。 こうしたことから現凌雲閣の位置は、歴史に残る由緒ある場所であります。」とう記事がある。この記事の内容は、「御蔭松の碑」と対応するようだ。皇太后の行啓が7月とすれば、その暑さは推測ができる。途中の休憩に松陰が使われてたという事は、行程に人家もなく、当時の旅の事情が推察される。

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追記(2014/3/27): 現在ランキング10位に、「心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(4)(2012/3/21(水))」の記事が入った。一応、その事実だけでも記録に残して起きたい。実は、この「松陰」というキーワードを通して、高山彦九郎、吉田松陰、楫取素彦、さらには地元の先覚者川端宇兵衛をつなぐ何かを探っているのだが、自分が自由にイメージを膨らませるだけの自由度があるのだろう。最近、「心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(7)(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2014/03/post-9850.html)。(2014年3月18日(火) )」を書いたが、謎はまだ謎のままだ。

昔の人名に関しては、出世魚の鰤のように、いくつもの名前を持つ人物が多かった。こういう複数の自称を許す社会だから、いろいろな人物が生まれたのかもしれない。人は自分を名乗る事によって生まれ変わるのではないか。現代では、人名は完全に個人特定ツールに成り下がって、国家に従属している。傑作な人物が出ない理由かもしれない。

高山彦九郎は自分から、院号を「松陰以白居士」と名乗った訳ではなさそうだが、高山彦九郎の自刃を受けて、この院号を高山彦九郎に授けた僧(誰かは知らないが)もまた、歴史を見抜いていた人物だったように感じる。「松」は文法的には名詞だが、その植物の性質からいろいろな象徴的な意味を持つ。「陰」は光とそれを遮る障害物があって初めて現れる現象で、もの自体ではない。象徴性は松以上に広く深い。そのような二つの漢字を合体させて、「松陰」を「以て、白す」と高山彦九郎の生涯と事績を見事一つの戒名にまとめた。

吉田寅次郎は、「松陰以白居士」という戒名から、100万ボルト以上の衝撃を受けたのではないか。吉田寅次郎が吉田松陰を名乗る事により、どれほどの変化が起きたのか。それは歴史が語るだけだろう。これは、車寅次郎では起こりえなかった事かもしれない。

自分の人生で、楫取素彦という人名を知ったのはつい数年前だった。調べてみると、本ブログで楫取素彦が最初に出てくるのが「読みかじりの記:帝王学 「貞観政要」の読み方 山本七平 著 (1983年 日本経済新聞社)(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2011/07/1983-5736.html)。(2011/7/21)」であった。その翌年3月に何かの縁で、渋川市の御蔭松に遭遇する。そこに立っている、御蔭松の碑の撰文と書を楫取素彦がしているので、御蔭松は、その裏に松陰が潜んでいるのではないかと妄想するようになった。この「草冠のある陰」もまた象徴性が強い。この妄想の効果を、最高に享受するには、「松陰以白」というキーワードだと思うが、今ひとつ切り札不足だ。「白」は動詞にとる。電子辞書の漢字源によれば、「申す」に通じる。Google翻訳で「以」は英語で「With」になった。「白」は英語で「White」になったがまだ不十分。「字源」によれば「申す」で建白、敬白の例がある。

高山彦九郎が何故自刃したかを語るような院号にしたら、自刃に追い込まれる人物が続々出るのではないかという、配慮もこの院号には込められているのではないか。それを読んで理解できる人が理解した通りに受け取れば良い。吉田寅次郎は「松陰以白」という暗号めいた院号から一瞬にしてその意味を悟った。楫取素彦は当然、義兄吉田松陰の名前が、高山彦九郎の「松陰以白」から出ていることを知っているだろう。それでは、楫取素彦は「御蔭松」という暗号をどのように解いたか。この愚問にも正解はないかも知れない。

御蔭松の碑の表は「御蔭松」という碑題が書かれている。その碑の裏側(碑陰)にこそ楫取素彦が撰んだ碑文がある。多分、義兄吉田松陰の御蔭で、現在があるのだという雰囲気を感じるのが、現在では精一杯なのだが。

WIKIPEDIA「吉田松陰(生涯)。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%BE%E9%99%B0#.E7.94.9F.E6.B6.AF)」

そういえば、高山彦九郎も吉田松陰も、その志を遂げずに無残に果てたが、その志が順次志士達に引き継がれて、理想が実現されて行く。このような歴日本の中に、「松陰以白」という一つの旋律が流れているようにも感じる。「松」とは歴史の主体であり、「陰」とは歴史の主体が作る影即ち歴史状況そのもの。楫取素彦は御蔭松を松陰の如く見ていたのかもしれない。その歴史ドラマと共に。

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追記1(2015/1/13):「心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(4)」の記事がランキング3位に入った。NHK大河ドラマ「花燃ゆ」効果かも知れない。歴代大河ドラマの視聴率調査を比較すると低調な出だしのようだ。NHKは当然、制作企画を立てて放映していると思うが、全然別の見方もできるのかも知れない。かみさんに気兼ねして濡れ落ち葉的付き合いで見ているが、どうも味付けが甘すぎるように感じる。今は故人となった歴史愛好家が、俺は家族をほっぽり出して諸国を歩いた高山彦九郎は嫌いだと言った事を今も覚えている。高山彦九郎と吉田松陰の行動パターンにどこか似た所があるように感じている。

「身辺雑記・田舎老人徒然草:太田の高山神社と高山彦九郎遺髪塚で出会った紋章は?;嘘始め 元旦と書く 年賀状。 (http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2015/01/post-0e28.html)。(2015年1月 4日 (日))」

「09D1_群馬県令楫取素彦がつなぐ吉田松陰と高山彦九郎(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/09D1_KATORI_MOTOHIKO_CTNG_SYOIN_AND_HIKOKUROU.html)。」

「09D2 初代群馬県令 楫取素彦 没後100年記念(2012年)(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/09d2_KATORI_MOTOHIKO_MEMORIAL.html)。」

県庁近くの公園にあった、楫取素彦の記念碑が最近移設されたようだ(http://www.oknst.jp/2014/11/17/%EF%BD%8E%EF%BD%88%EF%BD%8B%E5%A4%A7%E6%B2%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E-%E8%8A%B1%E7%87%83%E3%82%86-%E6%A5%AB%E5%8F%96%E7%B4%A0%E5%BD%A6%E7%A7%98%E8%B7%A1%E7%A7%BB%E8%A8%AD%E5%B7%A5%E4%BA%8B/)。

萩市から贈られた、ナツミカンの木も移植されたようだ。参考に高浜公園に植えられていた時の画像を掲載しておく。

Iob_natumikantakahamap 

追記2(2015/2/22):「心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(4)」の記事がランキング10位に入った。当BLOGで楫取素彦を取り上げているのは「花燃ゆ」以外の関心がある事による。そこに登場するのが、高山彦九郎だ。

キーワード「高山彦九郎」でGoogleサイト内検索(https://www.google.co.jp/webhp?tab=ww#q=%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%BD%A6%E4%B9%9D%E9%83%8E%E3%80%80site:http:%2F%2Faf06.kazelog.jp%2F)。

高山彦九郎は戦前には、持て囃されたようだ。戦後は、その反動なのか無視されているようにも感じる。吉田松陰が高山彦九郎からどのような影響を受けたのか、歴史家も余り関心を示していないようだ。関心があっても、つきつめると何かを感じてしまうのか。

吉田松陰と二宮尊徳に関して、教科書的には二宮尊徳が無難なようだ。今後、国定道徳教科書で、吉田松陰を教えるようになるのだろうか。

「読みかじりの記:二宮尊徳の仕法と仕分(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2010/11/post-37c9.html)。(2010年11月 5日 (金))」

追記3(2015/5/28):

Iob_natumikanmaebaship 萩市から贈られたナツミカンの株。かなり幹も太ってきたようだ。2013年の画像でも結実しているので、こちらの方が陽当たりも良いので、今後も実が楽しめそうだ。

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追記(2023/09/15):タイトルの後に投稿期日を追加。本日のランキングは5位。楫取素彦に関して渋川市の御蔭松は素晴らしい素材だと感じて色々な記事を書いたのを思い出す。明治維新とは、吉田松陰とはと色々考えたが、未だ十分咀嚼出来ていない。自分が開いた記事でもランキングが変動するが、読者がいてランキングに入ったのは確かなようだ。少ないながら読者はいるようだ。読者に感謝。

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2012年3月20日 (火)

心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(3)

2012/3/20(火)
昨日は晴れ。早朝大風:最大瞬間風速(m/s)  17.2(北西)  04:20。まだ寒い。ポット苗の除草と灌水。知人がまた、件のノートパソコンを持ってきた。DOSの一太郎が立ち上がってうれしいらしい。次は富士通のワープロファイルをテキストファイルに変換したいらしい。「どすこい」というソフトを持ってきたがDUAL FLOPPY対応らしくお手上げ。ファイル操作もファイルの場所も分からないらしいので付き合いきれない。昔、懐かしいFDというファイルマネジャーがインストールしてあったので、それを起動する、たった2行のバッチファイルを作って渡した。これだけでも頭がくらくら。キー配列が違い、リセットの方法が分からないのでイライラ。携帯のマイクロSDカードからDSCデータを取り出した。ついでに、青空文庫の銀河鉄道の夜100K程度のファイルを11分割して入れた。ファイルが大きいと重すぎて動きが鈍い。暇つぶしの時間に読むため。スマホならラクチンかも。

2012/3/19(月)の天気

TAVE= 6.2
TMAX= 8.8 最高気温(℃)   10.1  00:13
TMIN= 2.6 最低気温(℃)   2.6  24:00
DIFF= 6.2
WMAX= 11 最大瞬間風速(m/s)  17.2(北西)  04:20
SUNS= 10.2
RAIN= 0

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心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(3)

もう一度、戒名の構成に立ち返ると、広義の戒名は、「院号」+「道号」+「戒名」+「位号」という僅かな文字数でその人物が生まれて死ぬまでのドラマを語っているように思われる。「白」は白黒という色。黒は光を吸収するが、白は光を反射する。これから、「しらむ」、「しろくなる」、「夜が明ける」の意味になり、更に「いさぎよい(潔白)」、「あきらか(明白)」と自然現象から人事現象に意味を広げている。それが更に意味を転じて、「もうす(敬白、建白)」につながる。従って、「以白」の「白」も多義的であり、高山彦九郎の心の叫び「~以て、自分は潔白であると申す」という意味にとれるのではないか。謎は、「~以て」の部分だろう。高山彦九郎の自刃から戒名の授かるまでの流れから「~」は自刃ともとれる。狭義の戒名「以白」は正に、高山彦九郎の人生の総仕上げのドラマを漢字二語に集約しているようだ。道号の「松陰」は正に、高山彦九郎が生前辿ってきた数々のドラマを漢字二語に集約しているようだ。

自分が高山彦九郎に興味を持つのは、その時代の閉塞感を感じ取り、それをあるべき方向に正そうとして、旅を続け、人と知識のネットワークを広げた先覚者の姿をそこに見るからだ。このような、行動のパターンは郷土の指導者川端宇兵衛にも共通に見られるのだ。高山彦九郎が東北の旅で何を見たか、歌人須永義夫は「高山彦九郎 歌と生涯」でそれを解説している。幕藩体制が弱体化して、地方が疲弊し、困民救済という重い課題に気付き、その旅で新しい時代の実現を胸に刻んだのではないか。奇しくも、吉田寅次郎も嘉永4(1851、松陰21歳)年、東北の旅に出て、水戸の会沢正志斎を訪問して、彦九郎の存在知ったとされる。この時、またはその前後に高山彦九郎の戒名「松陰以白居士」を知り、その意味を一瞬に覚ったのではないか。吉田松陰が刑死したのが安政6(1859)年、享年29歳。高山彦九郎が「松陰以白居士」として発信していたメッセージを正確に受け止め、それを骨肉としたのが吉田松陰ではなかった。それにしても、吉田松陰が吉田松陰という名前で活躍した期間は10年足らずのようで、改めて激動の時代を生きていた姿を見る思いがする。

2012年3月19日 (月)

心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(2)

2012/3/19(月)
昨日は曇り一時雨。平均温度は高くなっているが体感的には寒い日だった。町内行事。夜、知人が98ノートを持って遊びに来た。カラーノートパソコンの初期の製品らしくHDDは100M以下でOSはDOS。CPUはインテルの486クラスのようだ。一太郎V6程度が起動して感激していた。当時は自動車一台分位高価だったとか。自分はデスクトップはエプソンの98互換機を使っていた。自宅で仕事をするためNECのモノクロPC98ノートに外付けHDDをつないで使った。主に使ったソフトはマイクロソフトのワークスだった。その後はDOS/Vの自作機を主に使った。CPUは安価なインテル互換のサイリックス製を使った。古いパソコンを引っぱり出して使ってみるのも遊びとしては面白そうだ。

2012/3/18(日)の天気

TAVE= 8.3
TMAX= 10.3 最高気温(℃)   10.5  13:15
TMIN= 3.8 最低気温(℃)   3.6  05:07
DIFF= 6.5
WMAX= 4 最大瞬間風速(m/s)  7.9(西北西)  23:58
SUNS= 0
RAIN= 1

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心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(2)

高山彦九郎については、伊勢崎の歌人須永義夫の「高山彦九郎 歌と生涯」という著作を読んでそれを記事にした事がある。その最終回が、「読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(14)http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2010/12/post-64fd.html」である。高山彦九郎の辞世の歌は、

■枯れ果てて身は土となり墓なくも 心は国を守らむものを
■松崎の駅(うまや)の長に問ひて知れ 心づくしの旅のあらまし

須永義夫は、「二首目は前年五月に『酌みかはす今日の別れの盃のめぐるがごとにまたも相見む』と歌って別れた碩学の友、赤崎貞幹と再び会い、そして最後の別れとなった歌である。」とその背景を解説している、調べてみると松崎の駅(うまや)とは、筑後松崎宿の事のようだ。筑後松崎のホームページに筑後松崎宿への歴史上の来訪人物が紹介されているhttp://matuzaki.orz.ne.jp/yado.files/06main.htm。。高山彦九郎は「寛政5年(1793)6月13日、死の2週間前に松崎宿の旅籠柳川屋に来ている。http://matuzaki.orz.ne.jp/turu_siryo/matu_isin.html」との事だ。改めて、辞世の第二首目を読んでみると、旅に生きた思想家高山彦九郎は、その最後の旅の目的を、あえて残さないと述べているかのような印象を受ける。自刃の意味も語られていない。見方によれば、それは高山彦九郎の自刃の影響力を最大かつ最長に保つ唯一残された方法であったようにも思われる。高山彦九郎の自刃の衝撃は、高山彦九郎の周辺から、徐々に広く深く伝わったのではないだろうか。

吉田松陰に関しては、キーワードの「松」のイメージが強い。「松下村塾 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%B8%8B%E6%9D%91%E5%A1%BE」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。(最終更新 2012年2月13日 (月) 07:54 )(http://ja.wikipedia.org/)の一部引用=「松下村塾(しょうかそんじゅく)は、江戸時代末期(幕末)に長州藩士の吉田松陰が講義した私塾である。長州萩城下の松本村(現在の山口県萩市)に、松陰の叔父である玉木文之進が1842年(天保13年)に設立し、松陰も学んでいる。」。「松下村塾」の「松下」も、「松本村」の「松本」も意味としては極めて近いと感じる。吉田松陰の名前は、幼名:虎之助→吉田家に養子入り後:大次郎→通称:寅次郎と変わっている。名前を変える毎に、自己のアイデンティティも形成されてきたのではないか。一方、「字源(大正12年初版)」によれば、「松:まつの木の長寿にして歳寒にも色を変えへざるより、節操・長寿などの譬に用いふ。」とある。松竹梅も冬の寒さに耐える姿から目出度い意味を持つようになっている。松竹梅=「松竹梅:【意味】 松竹梅とは、松と竹と梅。めでたいものとして祝い事の景物などに使われる。品物などを三階級に分けた際の等級の呼称。一般的には松が一番で竹、梅の順となる。url=http://gogen-allguide.com/si/syouchikubai.html」。

吉田松陰は「松陰」という号を、高山彦九郎の戒名「松陰以白居士」よりとっているという説がある(太田市立 高山彦九郎記念館 http://www5.wind.ne.jp/hikokuro/8sho-tenmatu.htm)。そこには、『嘉永4年(1851)江戸遊学中の長州藩吉田松陰は水戸の会沢常蔵(正志斎)が著した「高山彦九郎伝」で彦九郎の存在を知り、「武士たるものの亀鑑このことと存じ奉り候」と兄に書き送っています。松陰はその後も彦九郎への思索を深めていきます。松陰の辞世「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置きまし大和魂」と、彦九郎の辞世「朽ち果てて身は土となり墓なくも心は国を守らんものを」との呼応は彦九郎の影響が大きかったことを物語っています。また、吉田松陰の号の由来はこれまで「出典不明」とされ、松陰の出生地松本村にちなんでいるとの説が示されてきましたが、彦九郎の諡(おくりな)の「松陰以白居士」との関連が指摘できます。』と記されている。同サイトには、「幕末の志士に高山彦九郎が与えた影響http://www5.wind.ne.jp/hikokuro/ataetaeikyou.htm」」の中に、高山彦九郎自刃後の様子は、『寛政5年、1793年:6月27日、高山彦九郎は筑後国久留米城下、森嘉膳宅で謎の自刃、28日朝8時過ぎ没する。6月29日、高山彦九郎の遺骸を森嘉膳の宅庭に仮埋葬する。8月29日、自刃した家の主人森嘉膳から唐崎士愛宛ての返事の手紙に高山彦九郎の戒名について回答している。11月11日、彦九郎の遺骸を高山家と同宗旨の真言宗寺院、寺町の遍照院内に改葬する。戒名は「松陰以白居士」』と記されている。

調べると、真言宗の戒名は戒名(広義)=道号2字+戒名2字(狭義)+位号2字との事。高山彦九郎の場合、位号の「居士」は、広辞苑の「学徳が高くて仕官しない人。」という、原義がぴったりあてはまるように感じる。それでは、「松陰以白」が伝えようとしているメッセージは何か。これは、道号=松陰と戒名=以白に分解されるだろう。「字源」には、「松影=ショウエイ(まつのかげ)」、「松下=ショウカ(松の木のした)」という類語がある。従って、「松陰=ショウイン(松の木の木陰)」と解釈できる。更に詳しくは、松の木が投影された形のある影ではなく、松の木に覆われた形のない日陰が「松陰」の意味だろう。和英・英和辞典で調べると「陰=shade」、「影=light 、reflection」で、「陰」には光の量は少なく色も形も定かでないが、「影」には光の量は多く、色も形もあるとみなせる。ところで、道号は仏道に入った後の号との事だ。戒名は、本来は受戒の際に与えられる名前だが、後に死者に与えられるようになった。高山彦九郎の場合の戒名「松陰以白」、まさに、辞世の歌「松崎の駅(うまや)の長に問ひて知れ 心づくしの旅のあらまし」を受けて与えられたように感じられる。

WEB上で遍照院のイメージを検索すると、その庭園や境内には松の木らしい木が見える。高山彦九郎記念館サイトの記事から、高山彦九郎関係者で、戒名の相談や確認があった事が想像される。寛政5(1793)年、高山彦九郎自刃享年47歳。高山彦九郎の志操の高さを松の古木に喩えたのではないか。広辞苑によると、「陰」には、「物の後の、暗いまたは隠れた所、それから転じて、『他の者をおおうように及ぶ、その恩恵・庇護』」という意味があり、その時は「陰」「蔭」を使うとある。高山彦九郎が自刃で、後世に伝えようとしたメッセージがこの「松陰」という戒名に込められているように感じる。それでは「以白」の意味は?ここで、また思考が止まった。

2012年3月18日 (日)

心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(1)

2012/3/18(日)
昨日は曇り一時雨。用事外出。ミニスイセン、ヒヤシンス、小梅、紅梅が一斉に咲き出していた。自分の花暦には、梅の花:2月11~15日とあった。ミニスイセンは3月6~10日であった。早咲きの梅の開花はかなり遅く、ミニスイセンも一週間以上遅れているようだ。以前一人で県道33号線を下った時、色々な歴史的な遺産にであった。そのなかで、渋川市の御蔭松は印象に残っているが、まだその謎が解けない。いつの間にか忘れてしまいそうだ。ともかく、自分の想像としてメモにしてみた。

2012/3/17(土)の天気

TAVE= 6.7
TMAX= 10.2 最高気温(℃)   10.8  15:39
TMIN= 3.6 最低気温(℃)  3.4  01:25
DIFF= 6.6
WMAX= 3.2 最大瞬間風速(m/s)   6.4(西北西)  11:45
SUNS= 0.2
RAIN= 0.5

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心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(1)

歴史上の人物は何か見えない線で結ばれているのではないかと感じる事がある。それも、確実性より予感、希望にすぎない場合もあるだろう。人間の思考や行動も、ある人物からある人物に伝えられる何物かが影響しているのではないか。すでに過去となってしまった歴史的な事実に関して、その真偽を証明する事は非常に難しいだろう。歴史の楽しさは真偽とは別に空想や思い込みにもあるのではないか。それは一つの仮説といってよいのかも知れない。吉田松陰と高山彦九郎も深い関係がある。当地の八幡沼開鑿の指導者川端宇兵衛も、新井雀里等を介して高山彦九郎に繋がる線があるように感じている。

先日、伊香保から渋川に向かって県道33号線を下った。伊香保町から旧渋川市に入った頃か、県道南側に小さな公園があった。ゴミ出し場所のような看板とトイレらしい家屋があって、何となく通り過ぎようとしていたが、碑のような物が目に入ったのでふらりと中に入った。碑は2~3基あって、どうも「御蔭松」に関するものらしかった。よく見ると、松の大木の幹の下方だろうか、屋根のある建物の中に保存されていた。やや丸みをおびた碑の後面を見ると、何と「明治十二年 九月 群馬縣令 楫取素彦 撰並書」と刻まれていた。残念ながら、碑文の内容はよく分からない。どうも、皇太后が伊香保に向かう途中、この松の木の下で休憩をとられたことを記念している碑のようだ。WEB情報では楫取素彦を顕彰した碑は存在するようだが、楫取素彦が直接関与した碑の存在は未だ見ていない。楫取素彦はこの碑で、何を後世に残そうとしたのか。それが、謎のように頭の隅にあった。

吉田松陰と楫取素彦の関係も並々ならぬものがある。WEB情報では、楫取素彦は吉田松陰の妹を妻に迎え、義弟と述べられているが、年齢を調べてみると、楫取素彦は吉田松陰より一年長じている。昔のこと、長幼の序は、今より人間関係に重くのしかかっていたのではないか。それなのに、楫取素彦は吉田松陰に兄事しているように感じる。楫取素彦は、明治9年(1876年)の熊谷県改変に伴って新設された群馬県令となり群馬県と関係が生まれた。「御蔭松」の碑は明治12年。吉田松陰没後20年の時だ。この時、楫取素彦は50歳。吉田松陰が29歳で斬刑に処されなければ、49歳の吉田松陰が生きていたはずだ。楫取素彦は生涯、吉田松陰と心の中で深く・強く結ばれていたのではないかと思う。そうであれば、吉田松陰が私淑した高山彦九郎の戒名を引き継ぎ、自ら自分の号として「松陰」を名乗った事も、楫取素彦が高山彦九郎生誕地である群馬県の初代県令として赴任してきた事も因縁浅からぬものがあるように感じるのである。

それでは、楫取素彦と「御蔭松」の関係は? 直感的だが、「蔭松」と「松蔭」と「松陰」はその意味において、全く同じだと感じた。この碑には、楫取素彦の吉田松陰に対する思いがこめられているのではないかと思った。なぜ、「御蔭」という場所に、楫取素彦撰並書の「御蔭松」の碑があるのか。大きな謎に突き当たった。

更に、県道を下ると、庭掃きしている年輩の男性がいたので、「御蔭」という地名には何かいわれがあるのですかと尋ねた。実は、自分は何十年かここで暮らしているが、この地の生まれでないので、地元の歴史は詳しくは分からない。長老に聞けば分かるかもしれないという事だった。その男性は、渋川の歴史の本も持っているので、後で調べてみたいとも話した。いつ頃か忘れたが、昔はここから、あそこま辺までの人家の数はたった30戸程度だった話してくれて、郷土史も勉強しているようであった。軽率なことは話したくないという様子も窺えた。携帯のデジカメで碑を写したがそのデータはまだ取り出していない。今年、楫取素彦没後百年になるので、この碑の存在と由来が解明されれば意義深いと思われる。楫取素彦という人物は未だ十分評価されていないようだが、吉田松陰と重ねて見ると興味深い。

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  • 山科正平: 12_細胞を読む   電子顕微鏡で見る生命の姿
    細胞はどんな部品からできているのか。そんな疑問に答えてくれる一冊。何事も形を見るのが第一歩。μからÅオーダーの世界で、細胞をメスで解剖するように、電子顕微鏡というメスで解剖して見せてくれるので興味が尽きない。
  • 柳田充弘: 11_細胞から生命が見える
    著者の専門は分子生物学、細胞生物学。普段生物を考えても細胞レベルで止まってしまう。その細胞の中で色々な分子が働いている。細胞こそ生命の基礎だが、その細胞の中の動きを知るのに最適な一冊。疑問の発端はなぜ発根剤が効くのかということ。薬剤が細胞膜を通過して細胞内で分子と分子が作用するイメージができた。本書でできた細胞のイメージは小さな無数の穴が空いた水分が充満したヨーヨーのようなもの。そのヨーヨーの中に分子部品が詰まっている。細胞自体もタライの中のヨーヨーのように浮かんでいる。細胞図面の空白部は真空でなく水分だ。細胞の内外に水がないと細胞は生きられない。水が生命のゆりかごだ!
  • 野口悠紀雄: 10_ホームページにオフィスを作る(2001年 光文社)
    ITが輝いた時代の作品。HPの活用法は参考になる。参考:url=http://www.noguchi.co.jp/(野口悠紀雄 ONLINE)
  • 小池洋男 編著: 09_果樹の接ぎ木・さし木・とり木(農文協:2007/3/31第1刷)
    やや専門的であるが、実務専門化が分担執筆しており、その場で役に立つ一冊。
  • ノーバート・ウィーナー(鎮目恭夫訳): 08_サイバネティックスはいかにして生まれたか(みすず書房1956)
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    2010/8/4:MEMO等の表示に使える。 農作業で気になる自戒の言葉 ■畑の石ころはいつまで経ってもても石ころ(早く拾って片づけよという意味か)。 ■同じ石を二度拾うな(やってみると難しい)。 ■手ぶらで歩くな。 ■三つ先のことを読め。 ■適当な観察。 ■空を見よ(気分転換、休憩、天気を読む、腰曲がり防止)