06C_読みかじりの記

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2010年12月27日 (月)

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(9)

2010/12/27

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(9)

○「純粋な皇室観を」の章

18歳の彦九郎が上京して見た皇居は荒廃の極みであった。また、天明八(1788)年の京都の大火で皇居も炎上した。著者須永義夫は、「幕府は松平定信に禁裏修復を命じ、寛政二年の十一月にほぼその造営を終える。彦九郎はその造営完了と共に上京して新居を拝したのだから、その心情は輝いている。」と述べる。

■そらにきる衣やけさはほのぼのと 霞ぞかかる九重の春
■野辺に出てみればや四方の山々も 雪とけそめて緑をぞ見す
■花や人や花とも見え分かぬ 都の春は錦なりけり
■われをわれとしろしめすそや皇(すめろき)の 玉の御こゑのかかる嬉しさ

著者は、「始めの歌は明けて寛政三年の元旦に岩倉三位具選卿へ新年の賀詞として捧げたものである。次の二首は雪解けが始まって緑してくる山々、都の花時の賑わいを御代の春の晴れがましさとして描いている。彦九郎の純粋な皇室観が直接に伝わってくる歌だ。最後の歌は彦九郎の最も代表的な歌とされている。」「~、直接御声をかけられたように感激し、恐懼してこの歌を詠んだのである。」と続ける。光格天皇が公卿に高山彦九郎の事をお尋ねになったのを知ってこれほどの喜びようであたので、まさに「感激・恐懼」としか言いようがないようだ。最後の歌は太田市の高山彦九郎神社社務所近くに歌碑となって建っているとの事だ。「彦九郎四十五歳、久留米で自刃する二年前の歌である。」

追記:最後の一首は伝聞の形式であり、直接のお声掛けはなかったようだ。やはり、どこかに見えざる大きな溝があったのだろうか。何とか年内にこの読みかじりを終了したい。本日、:(高山)彦九郎 歌と生涯(10)も投稿する。

2010年12月26日 (日)

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(8)

2010/12/26

最近は温暖化が問題になっているが、冷戦時代には「核の冬」が本気で議論されていた。これはなぜ恐竜が滅びたかという問題にも通じる。核戦争、小惑星の地球への衝突、火山の噴火等で微細な粉塵が巻き上がり大気を覆うと相当長い期間空中を浮遊し太陽光を遮り地球は急激に寒冷化する。江戸時代後期の飢饉の多発もこの気候の変動の要因が大きかったようだ。今年の夏の猛暑で群馬県の稲作も品質低下と価格の低下で大きな影響を受けた。技術が高度化すればするほど想定外の問題が起きやすくなる可能性もある。稲の品種改良も食味とか良いものが残される。気候変動に強い品種は可能なのか。こしひかりは倒れやすく、倒れれば収穫の作業が難しく手間もかかり、品質も低下する。そこで、群馬県ではゴロピカリが推奨されてきたようだ。今年の猛暑ではこのゴロピカリの被害が大きかったようだ。大きな気候変動は避けられない。コメの収量が減れば米価も上がる。歌人須永義夫氏は「彦九郎 歌と生涯」の中で「八戸二万石の藩下だけの餓死者でも六万人であった。」と書いている。江戸時代、地域により飢饉に備えるための食料蓄備の郷倉が建てられていたようだ。危機管理の知恵といえるだろう。しかし、飢饉の時高値で売れる米は、貧困者の方に回ってこない。これは、江戸時代も現代も変わりがない現実だ。昨日も寒波到来で寒い一日であった。その寒さを手がかりにもう一度、高山彦九郎の歌を味わってみたい。今日風に言えば、高山彦九郎はリスクマネイジメント思想の創始者だったのかも知れない。国定忠次、西野目宇右衛門、川端宇兵衛もそういう流れで見直してみたい。

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以下本題。

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(8)

○「飢餓と、生への執着」の章

著者須永義夫はこの章を「この北国行の中で彦九郎の心底を動揺させたのは数年前の天明の大飢饉と、人間の生への執着の恐ろしさであった。」と始めて、「村人らは野草鶏犬牛馬を食い尽くし人を食う。」と彦九郎が見聞して残した記録を述べる。その悲惨さには目を覆うばかりである。高山彦九郎 記念館の高山彦九郎日記一覧表によると、この章の内容は「北行日記」(寛政2年(1790)6月7日~11月30日)に記され、この時彦九郎44歳である。彦九郎をこの旅に駆り立てた物は何か。永遠に解けない謎かもしれないが、どうしても知りたくなる。

■降りしめる雨さえいとど侘びしきに 枕に通ふ棹鹿の声
■雨に行き旅には何も詠ふべき もの荒磯の波ぞ烈しき
■身におほふものもあらぬとみちのくの 道なき民のこころさぶしも

「村々での話に彦九郎の心は押しつぶされほどであったろうが、歌ではわずかに心中の苦しさを述べるにとどまっている。だが、その抑制された心に一層歌の心を推量することができる。」と著者はこの章を終えている。第一首、「棹鹿」は「さ(接頭語)+牡鹿」の意味。著者は彦九郎が聞いた飢饉の時の様子を、人の死骸があちこちに散乱していただけではなく、「この話を聞かされた宿でも布団衣類はなく、すでに晩秋の夜に纏ったのは薄い藁畳であった。」と記している。それに加えて、雨がふりしきるのでは侘びしさもますますつのるであろう。そんな侘びしい宿でいざ眠ろうとすると牡鹿の鳴き声が枕元に聞こえてくる。彦九郎の事である、この牡鹿の声に単に哀感を味わっているだけではなく、なにか深く感じる所があったと思う。第二首は、旅に出たが、見聞きしたのは歌に読めないほど悲惨な現実だった事を示している。第三首、「道なき民」とは生きる道を失った民ととれるだろう。食だけではなく衣も欠いていたのである。人間の尊厳を全て失った民を見て彦九郎は何を感じたか。彦九郎の師は伊勢崎藩校学習堂の命名者である伊勢崎藩儒の村士玉水といわれる。青年時代には儒学等を学んでいたであろう。彦九郎にとってこの旅は儒教の経世済民の理想を確信させたのではないか。WIKIPEDIA儒教の項(最終更新 2010年11月30日 (火) 13:11 )を以下に示す。
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儒教(じゅきょう)とは、孔子を始祖とする思考・信仰の体系である。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上に渡って強い影響力を持つ。その学問的側面から儒学(中国語: Ruxue(ヘルプ・ファイル))、思想的側面からは名教・礼教ともいう。大成者の孔子から、孔教・孔子教とも呼ぶ。中国では、哲学・思想としては儒家思想という。

東周春秋時代、魯の孔子によって体系化され、堯・舜、文武周公の古えの君子の政治を理想の時代として祖述し、仁義の道を実践し、上下秩序の弁別を唱えた。その教団は諸子百家の一家となって儒家となり、徳による王道で天下を治めるべきであり、同時代の武力による覇道を批判し、事実、そのように歴史が推移してきたとする徳治主義を主張した。その儒家思想が漢代、国家の教学として認定されたことによって成立した。

儒教の特徴は簡潔に述べるならば、「修己治人」あるいは、『大学』にある「修身、斉家、治国、平天下」であり、「経世済民」の教えである。
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2010年12月25日 (土)

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(7)

20010/12/25

クリスマスは無縁のものと思っていたが、ケーキとチキンが巡ってきた。感謝。寒いが、外に新聞を取りに出たついでに温度計を見ら-4℃であった。同じ時間帯のアメダスの今朝7時の気温は-1.7℃であった。気象予報で山間部は雪と伝えていた通り寒い朝となった。気温の違いは我が家の温度計がXなのか?この温度計は養蚕をしていた時に使用した湿度計付きの物だが湿球は割れていて年代物だ。大体の気温を知るためにずっとぶら下げている。

以下本題。

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(7)

○「林子平との出会い」の章

彦九郎は祖母の喪が終わると上京し、この翌年の寛政二年の夏に、ロシア船のしばしば侵すことのあるという蝦夷地踏査の旅に上った。著者須永義夫は「この旅は長途の旅であったが、蝦夷地への渡航は禁止され、空しく引き上げる途中で同じく外夷侵略の危機を訴えていた林子平に逢う。」記し、「子平は寛政五年不遇のうちに没したが、この年は彦九郎自刃の年でもあったのである。」と振り返る。蝦夷地へ入ることが出来なかったが、岐路仙台の林子平の家に十日程泊まり親交を深めた時の歌が「北行日記」見えると、その歌を引用している。彦九郎と林子平は互いに共鳴する思想を持って行動したのでだろうが、十一月下旬雪籠もりして、酒を酌み交わしつつ何を語り合ったのか知りたい所である。

■陸奥の林に生ひし三国草 いつか雲井に実を結びけり
■伝へては我が日の本の兵(つはもの)の 法の花さけ五百年の後
■五百年の末の松山外(そと)の浜 波風立たじ蝦夷か千島も

著者は「一首目は子平の家に集まる志を持った幾人かの友が、結束固く実を結んだことを賞賛しているのだろう。」と述べている。広辞苑によると林子平は江戸の人、仙台に移住、長崎に遊学、海外事情に注目、海防に心を注ぐ云々とある。WIKIPEDIAによると「元文3年(1738年)、幕臣岡村良通の次男として江戸に生まれる。宝暦7年(1757年)、姉が仙台藩主伊達宗村の側室に上がった縁で兄とともに仙台藩の禄を受ける。」とある。「陸奥の林」と、江戸から仙台に居を移した林子平を喩え、「生ひし三国草」とは子平を慕ってあちこちから(三国)集まったきた門下生を表しているようだ。「雲井」も空高いさまとして林子平の志が実を結んだ事を感嘆しているのだろう。
「次の歌は林子平の書『海国兵談』の草稿を見ての感慨である。この啓蒙の書によって日本の目途が明らかになり、この国に花咲く後の世を願っている。」と著者は記す。別記のWIKIPEDIA記載の『海国兵談』上梓の経過を見ると、高山彦九郎に五百年後の日本の姿を思い起こさせるのに十分な衝撃を与えたと思われる。「法の花さけ五百年の後」とは何となく意味は理解はできる。しかし、なぜ五百年後なのか。彦九郎が「法」で何を意味したか定かではないが、道理、人道というような広い意味を考えていたのであろう。その対局が、非法、不法、非道理、非人道という事になるのではないか。「伝へては我が日の本の兵(つはもの)の」解釈は難しい。どこにかかるのだろうか。「我が日の本の兵(つはもの)の 法」と繋がるように思われる。それでは、「伝へては」とはどんな意味か。「伝へては、伝え、...、伝へては、伝え、...」と次から次へと伝える様が思い出される。WIKIPEDIAによると、林子平は幕臣岡村良通の次男とあり、高山彦九郎もその血筋を辿ると数百年前の武士の血を引いている。高山彦九郎も林子平も「我が日の本の兵(つはもの)」という本来の武士精神の自覚の点では共通した意識があったのではないかと思う。武士とは、その発生から武力集団として地位を築いてきた。その支配体制がほころびて来たのが彦九郎の生きてきた時代であった。高山彦九郎も林子平も近世的なな日本という国家と日本人という認識を当時の世界情勢から形成しつつあったように感じる。「また一首は、その五百年を待つ間に、蝦夷、千島に波風の立つことを憂いているのである。こうして二人が願った新しい国家体制が生まれる明治までまだ七十八年を要したのである。」と著者は述べる。三首目は法の花がさいた時を詠ったが、ようだが、彦九郎や林子平の思想が実現されれば、五百年後には波風が立つまいと詠っているようにも思える。「波風立たじ蝦夷か千島も」の「か」については意味がよくとれない。「も」の誤植か。その場合は、内陸の「松山」と沿海部の「外(そと)の浜」という対比と、「蝦夷」と「千島」の対比として理解しやすいと思うが。最近の国境問題を見るにつけ、五百年後に法の花が咲くのか。「伝へては、伝え、...、伝へては、伝え、...」と次から次へ努力を重ねて行かない限りついにその花を咲かせるDNAはとぎれてしまうのではないか。改めて、高山彦九郎の時間スケール感覚を見直した。因縁を辿ると、この世界には新しいことは無いようにも見えてしまう。
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尚、WIKIPEDIAの林子平の行を以下に引用しておく(最終更新 2010年11月2日 (火) 06:56 )。:林 子平(はやし しへい、元文3年6月21日(1738年8月6日) - 寛政5年6月21日(1793年7月28日))は、江戸時代後期の経世論家。

高山彦九郎・蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」の一人。名は友直。のちに六無齋主人と号した。

経歴・人物
元文3年(1738年)、幕臣岡村良通の次男として江戸に生まれる。宝暦7年(1757年)、姉が仙台藩主伊達宗村の側室に上がった縁で兄とともに仙台藩の禄を受ける。

仙台藩でみずからの教育政策や経済政策を進言するも聞き入れられず、禄を返上して藩医であった兄の部屋住みとなり、北は松前から南は長崎まで全国を行脚する。長崎や江戸で学び、大槻玄沢、宇田川玄随(げんすい)、桂川甫周(ほしゅう)、工藤平助らと交友する。ロシアの脅威(きょうい)を説き、『三国通覧図説』『海国兵談』などの著作を著す。『海国兵談』の序を書いたのは、仙台藩医工藤平助であった。また『富国策』では藩の家老佐藤伊賀にあて藩政について説いたが、採用はされなかった。

『海国兵談』は海防の必要性を説く軍事書であったため、出版に協力してくれる版元を見つけることができなかった。そこで子平は、16巻・3分冊もの大著を自ら版木を彫っての自費出版にて世に問う決意をする。『海国兵談』は寛政3年(1791年)、仙台で上梓された。しかし、老中松平定信の寛政の改革がはじまると政治への口出しを嫌い、消極的外交策に立つ幕閣に目を付けられ、『三国通覧図説』も幕府の危険視するところとなり、両著はともに発禁処分が下され、『海国兵談』は版木没収の処分を受けることとなった。しかしその後も自ら書写本を作り、それがさらに書写本を生むなどして後に伝えられた。

最終的に、仙台の兄の下へと強制的に帰郷させられた上に禁固刑(蟄居・ちっきょ)に処され、そのまま死去する。蟄居中、その心境を「親も無し 妻無し子無し版木無し 金も無けれど死にたくも無し」と嘆き、自ら六無斎(ろくむさい)と号した。

『三国通覧図説』はその後、長崎よりオランダ、ドイツへと渡り、ロシアでヨーロッパ各国語版に翻訳された。それは地図の正確性には乏しく、特に本州・四国・九州以外の地域はかなり杜撰に描かれているものであったが、後にペリー提督との小笠原諸島領有に関する日米交渉の際に、同諸島の日本領有権を示す証拠となった。

林子平の墓は仙台市青葉区にある龍雲院にあるが、その龍雲院の所在地は1967年(昭和42年)の住居表示の際にそれまでの半子町から、墓があることに因み子平町と改称されている。

高山彦九郎・蒲生君平ともに「寛政の三奇人」と称された。
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2010年12月22日 (水)

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(6)

2010/12/22

昨日は国定忠次没後160年の命日という事で自分なりにこの年月の重みを考えた。寿命が80や90歳は当たり前という時代になっても人間その日暮らししかできないように感じている。しかし、よくよく歴史をたどると、ある歴史事象が起こるのにも、親、その親と二代や三代まで遡る因縁があるようだ。国定忠次というイメージもそういう歴史の流れの中で現在も生きているのではないか。今朝の上毛新聞の一面に前小寺群馬県知事死去の記事が載り、まさかと思った。国定忠次の死を振り返っているその日の出来事なのだ。死といえば、高山彦九郎は47歳の時(寛政5年/1793)自刃しており、その覚悟の重さを感じる。

以下本題。

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(6)

○「親子の絆を切々と」の章

歌人須永義夫は彦九郎の子供達(幼い末子を除く)の以下の歌を掲げ、「上の三人はそれぞれ歌を記して父を慰めている。」と記している。

■しぐれして濡れにぞぬれし紅葉ばの 訪ふ人もなしあはれ世の中  せい(12歳)
■喪屋に居て越すへを見ればあはれさに 涙こぼるるおくつきのまへ  さと(10歳)
■待つといふその言の葉のちぎりもて 千代もかはらぬ敷島の友  義助(8歳)

かっこの中の年齢は彦九郎の祖母の服喪が終わる年のもので、「これらの歌にはそれぞれ子の立場から父を見つめる眼が働いている。せいは年長だけに彦九郎の志を入れ難い『世の中』にまで言及しているのが注目される」と著者は記す。

「敷島の道」は狭義には和歌の道で、義助の歌では「敷島の友」を学問の友ととり、「その大切な勉学の友をひたぶるに待つ歌である。」と解説している。これらの歌の出典や詠まれた場面については具体的に記されていないが、十歳前後の年齢でこれほどの歌を詠んだことに驚嘆する。しかし、彦九郎が三年の喪に服したという事は、この三年間は子供達と一緒に過ごしたのであり、子供達の勉学や人格形成という点では非常に貴重な期間であったと思われる。彦九郎の喪屋での行動は対社会的な面が多かったかも知れないが、家庭での夕食の団欒時等、子供達に歌の手ほどきをしたり、自分の理想を語ったりしていたかもしれないとつい想像してしまう。

せいの歌を自分なりに解釈してみたい。その前にさとの歌を理解する必要がある。父彦九郎とさと自身の位置関係である。「越すへ」とはこちらのあたり即ちせいの方へ、喪屋にいる彦九郎が視線を投げかけているその父の姿をみるとあわれさに涙がこぼれる。さとはどこにいるのだろうか。先祖代々の墓の前にいるようだ。彦九郎が喪屋から呆然と墓所に視線を投げかけて喪に服している様は子供ながらに、さとの涙を誘った。彦九郎が祖母を崇める姿勢がさとにも強烈に伝わっていたと理解できるだろう。しぐれしてとは雨が降ったり止んだりして天気が落ち着かない様を表し、紅葉ばは濡れにぬれてしまった。従って、その美しい紅葉ばを見るために訪問する人さえいない。しかし、視点を変えると時雨れるには涙をこぼして泣く意味もあり、紅葉は血の涙にも例えられる。そうすると、せいは紅葉ばにたとえて、父を訪問する人もいないような世の中を心底からつれないものと嘆いてその気持ちを歌で表現したととれる。喪に服しているので弔問に訪れた人は多かったようだ。それなのに、訪ふ人もなしと詠むのは彦九郎の志に共鳴して訪れる人もないと著者の指摘に通じる。従って、せいも父彦九郎の境遇を直情的な表現ではなく自然の姿に託して泣いているのである。せいとさとは異母姉妹である。その二人が同じように父の境遇に涙している。彦九郎は自分の娘達には気を許してなにか本当の事を言い残していたのではないかと思えてしまう。そうなると、義助の歌も単に待っているととらずに、ずっと昔から変わらない大和心を持つ同志が現れるのを待っているととれるのかもしれない。

「だがこれらの親子の絆もはかなかった。」と著者は記す。詳細の事情は記されていないが彦九郎と妻子との別離が訪れた。妻子は生家や親類に託される。著者はその原因に内縁という浅さと兄専蔵の迫害を挙げる。高山彦九郎は家族を不幸な目に遭わせて自分勝手な行動をしたので評価できないという人の話を聞いた事がある。公私、忠孝等人倫規範とバランスをとる事は難しい。親子の場合でも極限に至れば親子の縁を切るということもあり得る。見方を変えれば親子の縁を切っても命を落とすよりましである。共倒れは最悪の事態になる。彦九郎が一人行動を起こそうとする時妻子を生家や親類に託した意味を考えてしまう。

2010年12月18日 (土)

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(5)。20101218。

2010/12/18

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(5)

○「親子の絆を切々と」の章

著者は「彦九郎は生涯正妻を持たなかったが、三十二歳の時に太田大島の天野嘉右衛門の娘しもとの間に長女せいが生まれている。」と述べ、それに続けて隣村藤阿久の名主加村太兵衛の娘さきとの間に次女さと、長男義助、三女りよをもうけたと述べている。高山彦九郎記念館の資料「高山彦九郎親族一覧表(http://www5.wind.ne.jp/hikokuro/sinzokuitiran.htm)」によれば、しもを正妻、さきを後妻・妾と記している。
著者は、「彦九郎はただ一人の男子である義助に孔子に孝道の書、孝経を読めと奨めている。その時の歌は

■忘るなよ親につかふるその道の 教へにのこす古へのふみ

である。孝の道こそが忠の道に通う大道であるという彦九郎の思想がそこにあったのである。」と述べている。義助八歳の時である。孝経とは知らずに「身体髪膚これを父母に受く」と小学生の頃教えられた事を記したことがある(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2010/02/post-05a8.html)。「身体髪膚これを父母に受く。あえて毀傷せざるは孝の始めなり。身を立て道を行ひ、名を後世に揚げ、以て父母を顕はすは、孝の終りなり。」と徳目を並べると、確かに高山彦九郎の行動の源泉が見えてくるように感じる。たとえ、彦九郎がこの歌を示して、八歳の義助に孝道を教えたとしても、その本当の意味が分かるには余りにも若すぎるように感じてしまう。彦九郎の自刃が四十七歳の時で、義助は十四歳の筈だ。義助は彦九郎の残した歌や書き物から父の姿を学んでいったのではないか。前記、高山彦九郎親族一覧表」によれば、義助は「寛政6年(1794)6月21日、剣持長蔵とともに久留米に行き、遍照院で彦九郎の法要を行う。享和3(1803)6月、再び久留米の彦九郎墓を訪ねる。山田郡桐生新宿(桐生市)常見善五郎へ入り婿。孫の石九郎に高山家を再興させる。 」とあり、孝を自ら実践したように見える。

追記:昨日は又悲惨な通り魔事件があった。「あえて毀傷せざるは孝の始めなり。」という一行を改めて思う。人間関係が余りにも希薄になってしまった現代も気になる。昨日の天気。通常最低気温になるのは早朝である。昨日のアメダスデータでは6時に0.9℃を記録した。未だ氷点下にはならなかったが、一面降霜で白くなり、畑のポリ桶には数㎜の結氷があった。いよいよ本格的な冬の到来である。本日の最高気温の予測も10℃以下。防寒対策が必要だ。

追記(2020/04/24):ランキング3位に入っている。実は当サイトからのアクセスも加算されている様子。いつ頃の記事か分かるようタイトルに投稿期日を追加。ついでに高山彦九郎像もここに追加。



原ファイル名=「IOB_2020_TAKAYAMA_HIKOKUROU_高山彦九郎=2_2_20200424.jpg」
IOB=IMAGES ON Beloved Ones

■朝仕事靴下二枚霜氷

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2010年12月16日 (木)

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(4)

2010/12/16

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(4)

○「喪屋で歌作りに没頭」の章
ここには、七首の歌が挙げられている。そのうちの三首を引用する。
■くちはつる身はあだし野の露なるを はかなきものとたれも知らずや
■いろ鳥の声も哀れに墓原を かなたこなたとなき渡りける
■打ちつれて渡る雁がね雨雲を つばさにかけて声かすかなり

著者は「彦九郎は十九歳の時生母繁を失い、二十二歳の時に父正教が死去している。その後は祖母りんが一家の中心になっていたが、天明六年八月二十四日に、気丈で賢明であったりんも八十八歳の長寿を全うして亡くなった。この祖母の死に悲嘆のあまり彦九郎は三年の喪に服することになる。」と述べる。「彦九郎という人は衝動的な行為が多く奇行の人とも考えられているが、この喪屋での生活も異常であった。」と喪屋での生活と彦九郎の精神世界の関係に言及している。三年間も長期の喪に服するだけでも異常とみえるかもしれない。彦九郎は歌人としても優れた才能に恵まれていたとの事で、彦九郎の歌の世界を覗くと、その精神は世俗の些事や評価を超えた所を飛翔していたように見える。高山彦九郎記念館資料によると、墓前日記が 天明7年(1787 )41 歳の時に書かれている。47歳で自刃しているので、祖母の三年間の服喪期間は彦九郎の後半の人生のありかたを決めた充電期間のように感じる。そういう眼で歌を読み直すと、俗人には見えたり、聞こえたりしない自然や社会の摂理に耳を傾け、この服喪期間に重大な決心をしたように感じられる。祖母の孝養というプラスと売名というマイナスの両方の評価があったようだ。三年間の服喪を幕府が佳賞する段階で売名行為と誣告され、実兄専蔵との不和が深まり、江戸に登ったがそのまま江戸に留まり新しい活動を始めた。儒教では父母が死んだとき「三年の喪」に服するという。祖母の死に対して「三年の喪」に服したという事は高山彦九郎にとって特別な意味があったと理解して良いと思う。やはり、高山彦九郎においては生母以上の精神的な位置を祖母が占めていたのかもしれない。

追記1:「三年の喪」は儒教の儀礼とされているようだ。調べてみると、「シリーズ儒教・性愛・志怪1~4(http://www.geocities.jp/jukyosikai/kazoku2/tyosen.html)」における「孝における死と再生」において、「 儒教礼典に依拠する親のための喪は、「足掛け」三年で、実質二十七か月(時代によって二十五か月)である。、まるまる三年ではないとしてもそう短いとはいえない。ところが三年の喪は子の孝心の表現である。孝心やみがたく、三年という規定の喪の期日があけても喪服を脱ぐことをせずにさらに服喪を続けるといった者が時折あったらしいのである。特に三年の喪が自覚的な孝の実践形式としての慣習的定着の途上にあった後漢時代、とりわけその末期にその傾向があったらしい。この時期、さまざまな「過礼」現象、すなわち定められた基準を超過して礼を実践する傾向があったことが知られている。定めの期日を越えた喪服実践のほかにも、親の死に遭ったのが幼少時で孝の自覚をもった服喪ができなかったために、成人後あらためて喪に服す、というようなことも行なわれたという。曹操の敵対者として有名な河北の軍閥袁紹はこれを実践している。それらはおおむね皆手厚い孝心の表明として社会で称賛されたのである。ともあれ規定の三年を越えた服喪という点では、趙宣はその最も極端な例であった。」と述べられている。彦九郎の場合、儒教礼典の親に対する以上の扱いを祖母に対して行っているので、確かに世間からは目立ってしまうだろう。それも、儒教の本家ではなく、日本のつい最近の事である。しかし、祖母にたいする孝心は父や祖父に対する孝心にも通じたと思える。いわば、「三年の喪」に服したという事は、原理主義者として、原理・原則に立ち返って反省、行動する事も時と場合によっては必要だと示しているようでもある。それほど、現実が哀れな姿になっていたのだろうから。

追記2:「高山彦九郎の実像」の「高山彦九郎年表」を見ると、宝暦11(1761)に「伊勢崎の松本晩翠の塾に通う。」とある。高山彦九郎と伊勢崎の接点は更に調査が必要だ。

2010年12月11日 (土)

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(3)

2010/12/11

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(3)

○「御所の荒廃を詠む」の章
■立ち出づる心も晴れてあかぎ山 風も来よとて木葉吹くらし
■白雲をふみ分け来ても赤城山 空より高く落つる瀧つ瀬

著者は「彦九郎の生涯は尊王一途で、余裕というものが全くない感じだが、その中で安永二年の赤城行、また同六年の三夜沢赤城神社参拝は多分に余裕があって、故郷の山を懐かしみ楽しんでいる風情がある。」と述べている。赤城神社参拝の時彦九郎は31才。高山彦九郎は18才の時家に書き置きを残して出奔し、京都に遊学したとの事だ。十三歳の時に太平記を読んで歴史の世界から現実の世界に関心が広がってきたように思われる。引用の二首は共に赤城山を詠んでいる。印象に残るのが二首に含まれる「も」という助詞。赤城山と詠者の心情との微妙な関係を詠いきっているように感じる。切れず離れず。著者の評釈の通り「余裕があって、故郷の山を懐かしみ楽しんでいる」ようだ。旅に明け暮れている彦九郎を古里の赤城山が暖かく迎え、無条件に抱擁してくれているように感じる。

2010年12月 2日 (木)

読みかじりの記:安保徹著『病気は自分で治す』

2010/12/2

読みかじりの記:安保徹著『病気は自分で治す』(新潮文庫)

釈迦は生老病死という四つの苦しみから解放される道を求めて出家したようだ。以来この四苦から逃れられた人はいないようだ。あるとき、癌にかんする事が知りたくて何冊も本を買い求めた。その中に癌関係の医師の本もあったが、後で調べてみると著者の癌医が癌で亡くなられているのを知って愕然とした事があった。

人間の心身のバランスは内からと外から無限と言えるほど多くの要因をうまく制御することにより安定が保たれている。このような作用をホメオスタシスというらしいが、これを理論に乗せることは大変難しそうだ。システムの全体も要素に分解して、それを再構成すれば少し見通しが良くなる。工学はこの手の手法がうまく適用できる。現代は医学も、また全ての学問もかくて細分化に向かってしまう。かつてはストレス学説が流行った事もあったと思う。今日ではこのストレスを単純に悪とみなす傾向が強いが、ストレスも定義次第では悪にも善にも転化するのであろう。

最近、「病気は自分で治す」という魅力的なタイトルを付けた文庫本を書店で見つけたので読んでみた。確かに、ホメオスタシスで心身が安定に保たれている時に、水面下で進んでいる病気を予知して対策する事は大変だ。病状が出てから対処療法に従った方が実際的かも知れない。免疫や自律神経も正常に働いているとその有り難さに気付かない。その見えない部分を解説してくれるのが本書かもしれない。

本書の中で低体温に付いて述べていて興味を覚えた。昨年の冬は、布団に入っても足が冷えて寝付けず電気あんかを使用した。今年は、仕事でよく歩いた夜は足がぽかぽか暖かいのに気付いた。運動と血流の関係と思うが、普段気づかない事に気付いて何か新しいことをやって見るのも意義がありそうだ。そんな訳で、体温について調べてみて、テルモ体温研究所というホームページを見つけた。テルモは体温計等医療機器のメーカーでこのようなサイトを設けて情報発信しているのは有り難い。ダミーリンク:クリック後アクセスが失敗するので、wwwwをwwwとwを一つ削除(自分で入力)してアクセス:http://wwww.terumo-taion.jp/

追記:低体温が気になって、ほぼ一日、間隔はランダムだが自分の体温を測ってみた。やはり、加齢でエンジンの回転が遅くなっているのか少し低めに感じた。所が、前記のサイトを読むと体温は時刻や測定部位により異なると解説されていた。脇の下は身体の深部に近いので、そこで測る理由にも納得した。しかし、それでは仕事にならないので舌下に体温計をくわえて時間は適当に決めた。測定する時間もデータの再現性に影響するようだ。そういえば、現役時代は恒温槽で集積回路の特性を測定した事を思い出した。測定物の周辺の温度が一定になるよう空気を攪拌して温度を自動制御していた。ともかく生体も何も形のある物は温度は一定ではなく偏りがあるのだ。そこで、更に思い出すのが地球の気温。温暖化、温暖化と騒いでいるがこの地球全体の気温を誰がどのようにして測定して決定しているかを正確に知っている人はほとんどいないのではと思うこの頃ではある。病気でもない爺さんが自分の基礎体温を測って話が変なところに飛んでしまった。

2010年12月 1日 (水)

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(2)

2010/12/1

今年も鳥インフルエンザで鶏が死んだニュースが昨日流れた。宮崎県の口蹄疫の場合、感染ルートの特定が公表されていない。今回は至急で専門家を現地に派遣したようだ。初動調査と感染の拡大防止が最大の課題である。鳥インフルエンザウイルスは人に感染するように変異する可能性が多いようで流行すると大変なことになる。インフルエンザワクチンの接種も行われているが、今年はパスしている。意識的に防衛する以外に手はない。

以下本題:

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(2)

○「御所の荒廃を詠む」の章

■東山のぼりて見ればあはれなり 手の平ほどの大宮どころ

著者須永義夫は冒頭に、この歌を引用して「東山に登って御所を見下し、その荒廃を『手の平ほどの大宮どころ』と詠んでいるが、後桜町天皇の坐します宮は手入れもされず放置されて一層小さくみえたのだろう。」と述べている。

著者は高山彦九郎の行動に「勤王のための思いつめたような一途さ」を認めているが、その思想を形成した原点を「十三歳の時に太平記を読み新田義貞の忠誠に感動し、足利尊氏を逆賊として憤慨した事」などと指摘している。また、女傑というべき祖母りんの薫陶、伊勢崎藩学の影響も指摘している。

尚、高山彦九郎の出自等に関しては「高山彦九郎の実像」の中の「高山彦九郎小伝」で萩原進が、高山家の先祖が「太平記」に現れ活躍をしていた事を記している。太平記の時代と高山彦九郎が生まれた時代には400年以上の隔たりがある。高山彦九郎の行動には400年以上前の先祖のDNAが乗り移っているのだろうか。

以下2010/12/12追記:著者が伊勢崎藩学の影響を指摘しているが、高山彦九郎 記念館 ホームページ資料によると、村士玉水(すぐりぎょくすい)は伊勢崎藩儒で、「村士玉水は彦九郎の師といわれる。伊勢崎藩校学習堂の命名者。門人に服部栗斎・岡田寒泉・小松原醇斎(剛治)等がいる。父村士淡水は三宅尚斎の門人で、福山藩儒。」とあり、高山彦九郎が伊勢崎で学んだ事がその後の高山彦九郎の思想や行動に大きく影響した事が推測される。

2010年11月14日 (日)

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(1)

2010/11/14

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(1)

高山彦九郎の事を意識的に知ったのは、会社退職の送別会が冠稲荷神社の結婚式場(ティアラグリーンパレス)で行われるので、細谷駅で下車したが、時間があったので、近くの太田市立高山彦九郎記念館にぶらりと入った時であろう。一通り見て、見学の記念にと「高山彦九郎の実像」という本を購入した。拾い読み程度で、その後は書棚の隅に潜んでいた。1993年6月3日あさを社発行のソフトカバーの冊子であった。そのサブタイトルが、前段に「没後200年 混迷の世によみがえる」、後段に「維新を呼んだ 旅の思想家」とあり、高山彦九郎没後200年の記念出版でもあったようで、編集者が末尾にやや長い出版の背景等を記録している。

二十数名の執筆者の中に、歌集「山河哀唱」の著者で歌人の須永義夫氏が「彦九郎 歌と生涯」という題名で7ページの文章を書いているのを最近みつけた。須永義夫氏の意識の中には戦前の青年時代から平成の時代まで高山彦九郎への強い関心があった事がうかがわれた。

その文の冒頭で、須永氏は「彦九郎の生涯を見ると誠実で情熱的な人間が、変革の時代の中でどんな生き方をしたかが解る。単なる二百年回顧でなく、日本人の苦悩として、高山彦九郎正之という人物に焦点を当てて考えてみる必要がある。」と述べて、詳論に入っている。

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    刃物という視点で多くの事例が取り上げられている。刃のある道具の理解にも役立つ。類書が少なく貴重な一冊。「すべり変形が切断の原理」という考え方で説明している。
  • 沼田 真   : 植物たちの生( 1972年 岩波新書(青版 833))
    「ご要望にお応えしてアンコール復刊(1988年岩波新書50年記念復刊) 地球生態系の中で自然を見直す」(腰巻きのフレーズ)。植物の知恵と戦略に人類は勝てるのか。
  • 出町 誠: 14_NHK趣味の園芸:よく分かる栽培12ヶ月  カキ(NHK出版2007年)
    初心者向け柿栽培参考書(新版)。旧版と比較すると楽しい。
  • 中村三夫: 13_NHK趣味の園芸:作業12ヶ月  カキ(NHK出版1996年)
    初心者向け柿栽培参考書(旧版)。新版と比較すると楽しい。
  • 山科正平: 12_細胞を読む   電子顕微鏡で見る生命の姿
    細胞はどんな部品からできているのか。そんな疑問に答えてくれる一冊。何事も形を見るのが第一歩。μからÅオーダーの世界で、細胞をメスで解剖するように、電子顕微鏡というメスで解剖して見せてくれるので興味が尽きない。
  • 柳田充弘: 11_細胞から生命が見える
    著者の専門は分子生物学、細胞生物学。普段生物を考えても細胞レベルで止まってしまう。その細胞の中で色々な分子が働いている。細胞こそ生命の基礎だが、その細胞の中の動きを知るのに最適な一冊。疑問の発端はなぜ発根剤が効くのかということ。薬剤が細胞膜を通過して細胞内で分子と分子が作用するイメージができた。本書でできた細胞のイメージは小さな無数の穴が空いた水分が充満したヨーヨーのようなもの。そのヨーヨーの中に分子部品が詰まっている。細胞自体もタライの中のヨーヨーのように浮かんでいる。細胞図面の空白部は真空でなく水分だ。細胞の内外に水がないと細胞は生きられない。水が生命のゆりかごだ!
  • 野口悠紀雄: 10_ホームページにオフィスを作る(2001年 光文社)
    ITが輝いた時代の作品。HPの活用法は参考になる。参考:url=http://www.noguchi.co.jp/(野口悠紀雄 ONLINE)
  • 小池洋男 編著: 09_果樹の接ぎ木・さし木・とり木(農文協:2007/3/31第1刷)
    やや専門的であるが、実務専門化が分担執筆しており、その場で役に立つ一冊。
  • ノーバート・ウィーナー(鎮目恭夫訳): 08_サイバネティックスはいかにして生まれたか(みすず書房1956)
    情報と通信という現代社会に不可欠の基礎的な学問を作った著者の自伝とそれを通した科学史
  • 沼田 真(編): 07_雑草の科学(研成社1979)
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    2010/8/4:MEMO等の表示に使える。 農作業で気になる自戒の言葉 ■畑の石ころはいつまで経ってもても石ころ(早く拾って片づけよという意味か)。 ■同じ石を二度拾うな(やってみると難しい)。 ■手ぶらで歩くな。 ■三つ先のことを読め。 ■適当な観察。 ■空を見よ(気分転換、休憩、天気を読む、腰曲がり防止)