06C_読みかじりの記

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2011年2月19日 (土)

読みかじりの記:環境ホルモン きちんと理解したい人のために(1698年 筏 義人 著)

2011/2/19
冬の天気と春の天気がせめぎ合い、雨と強風で嵐のような天気であった。東京ではスギ花粉の飛散が始まったというニュースもあった。花粉症対策に決定打はなさそうだ。なぜこれほど花粉症に悩む人が多くなったのか。花粉が増えたのも一因だろうが、それでけではなさそうだ。経済の高度成長で衣食住が変わり、それに伴い人間の体質や生活習慣が変わったという見方もあるようだ。ところで、花粉も以下の環境ホルモンも人間にとっては眼に見えない異物。花粉症は免疫反応でその異物に対抗して現れる症状だ。しかし、環境ホルモンは免疫系を素通りして人体に作用するとなると人体に防御機構がないだけ怖い。環境ホルモン以外にも人工的な有害物質は多いがその挙動は十分解明されていないようだ。この自然界においてあらゆる現象は物質の動きの連鎖でもある。ウイルスや細菌は自分を守るため変異したり、耐薬剤性を強めたりする。環境ホルモンは生物の食物連鎖で人間の口に入る時に濃縮されるという。人間が作り出した極微量な物質Xに対抗した成分をスギ花粉が集めたり合成したりしてまき散らしているような事はないのだろうかとつい変な連想してしまう。スギ花粉は動物的表現を使えば、スギの精子である。スギの枝を見たら、雌花と雄花が別々に着いていた。雌雄同株雌雄異花。雌花は小さな松ぼっくりのようであった。子供の頃スギ鉄砲の弾に使っていたのがスギの雄花であった。

昨日の天気

TAVE= 7.2
TMAX= 12.1
TMIN= 3.4
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RAIN= 3.5

以下本題。

読みかじりの記:環境ホルモン きちんと理解したい人のために(1698年 筏 義人 著)

講談社のブルーバック双書の一冊である。出版当時は環境ホルモンが社会の関心を集めていた。この書物もそのような社会状況を背景に出版されたのではないかと思う。著者は今日の問題は多方面から解明する必要があるとして、高分子化学という自分の専門分野を基礎に据えて、環境ホルモンの理解を進めるべく本書を書いたようだ。十数年、書棚に隠れていたがひょっこり出てきた。一昔前と現在では状況はどう変わったのか。読み直しや過去のレビューは将来を考えるときの参考になる。

WIKIPEDIAでは「内分泌攪乱物質」(最終更新 2010年12月22日 (水) 13:34 )と学術的な記述になっている。WIKIPEDIAの研究の起源の項では「日本では1998年5月に環境庁(当時)が発表した「環境ホルモン戦略計画 SPEED '98」にて、「内分泌攪乱作用を有すると疑われる化学物質」67物質をリストしたことにより、強い不安感が高まり、一気にメディアに「環境ホルモン」の言葉が登場するようになった。 ただし、その後に検証実験事実が蓄積されるに従い、ほとんどの物質は哺乳動物に対する有意の作用を示さないことが一部に報告されている。その知見等を踏まえ、環境省は上記リストを取り下げた。現在では、リストは単に調査研究の対象物質であり、このリストに掲載されていたことをもって環境ホルモン物質もしくは環境ホルモン疑惑物質などと言うことは根拠がなくなったとされている。定義をそのまま解釈すればホルモン類似物質である医薬品をも含むことになるが、実際には、より狭義に、環境中に意図せず存在する化学物質が体内へ取り込まれる危険性が予想される場合にのみこう呼ばれている(#環境ホルモン以外の内分泌攪乱物質を参照)。本来のホルモンと同様、非常に低濃度でも生体に悪影響を及ぼす可能性があるため、有害物質が高濃度に蓄積されて初めて問題になりうることを前提とした従来型の環境汚染の濃度基準では規制できないのではと危惧され、社会問題化した。」と述べている。

著者も色々な物質が生体に悪影響を及ぼす可能性を述べているが、まだ十分解明が為されていない事も率直に述べている。そのような執筆態度には好感が持てた。特に、第5章:環境ホルモンの発生源では、問題の大きいダイオキシンに関しては、家庭の一般ゴミと産業廃棄物の焼却が発生源であるとして、その発生メカニズムを推定している。また、ダイオキシンは高温での焼却により、完全分解させれば、発生を押さえられると高温焼却の重要性を述べている。

今日では、ゴミ焼却も高温焼却炉を使用するので、ダイオキシン等の有害物質の生成は問題ないというような議論もあるようだが、ダイオキシンが生成される条件やダイオキシンが生成される素材等の組み合わせ等が十分解明され、その条件に適合した処理が確実に行えるか断言できないのが実状と思う。技術的にも高温焼却は、炉の高温損傷も激しく、焼却炉の維持経費や安全確保体制もより高度・高コストになるであろう。従って、焼却処理が万能であるとという判断は難しいのではないか。

WIKIPEDIAの「内分泌攪乱物質」の項にはダイオキシンは関連項目に記載されているだけである。出版当時は環境ホルモンという時代を反映したキーワードで、ダイオキシンの発ガン性等も
視野に入れて本書が書かれていると思う。また、生物の雌性化という本来的な微量化学物質が生体に与える効果に関しては、この十余年でどれほど科学的に解明されたのだろうか。対象物質が微量で容易にその作用機序が解明できないからその不安を放置して良いかという点も改めて考えさせられた。特に、少子化という問題が、男性の精子の減少、ホルモン作用による男性の女性化等と関係するのか、極論すると国家存亡の人口問題にまで環境ホルモンが関係するのかは、疑問はかえって増大した。環境ホルモン云々と議論する気力も失い、草食系男性とかが流行語になる時代の行く末をつい考えてしまう。人間の知識もどんどん細分化して科学的な証拠があるものだけが真実だとう事になるととんでもないしっぺ返しが待っている事もありうる。

ともかく、あらゆる生産物は、その機能が発揮されているうちは、資源・資産として各家庭や社会・産業施設内に留まっているが、その機能が不要・無用になれば廃棄物として環境に排出される運命にある。その廃棄物の処理は、リサイクル・リユースと焼却・埋め立て等のに分類されるが、焼却・埋め立てで問題が大きい。要するに、生産物でその関係者が利益を得ても、その最終処分は後世の負担として先送りしているのが現状である。著者は、第7章環境ホルモン問題解決への提言の中の⑥大量消費型から資源循環型へ社会が移行していることを確認することが重要であると本書を締めくくっている。①~⑤までは公的機関等が重たい腰を上げるよう促した課題で、本書の未解明・未解決な部分に相当する。赤字国債等は数値で負の遺産としての大きさを感じる事が出来るが、日々の快適な生活の見えないつけが廃棄物の処理量・蓄積量とともに増大し、それが知らぬ間に自分たちの生命にまで及んでくるとなると、多少の贅沢は控えようとも思う気になる。

2011年1月29日 (土)

読みかじりの記:食の自叙伝 映画評論家 淀川長治(1997年 文春文庫)

2011/1/29
昨日の天気

TAVE= 1.6
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DIFF= 7.2
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SUNS= 9.2
RAIN= 0

以下本題。

読みかじりの記:食の自叙伝 映画評論家 淀川長治(1997年 文春文庫)

食という人生の最も基本的な営為を通して、図らずも登場人物の人生を描き出している本であると感じた。登場する他の人物についても人に歴史ありと食を通して人生が語られている。初出は1991~1993年とあり、それが文庫本になったようだ。

その最初に登場するのが映画評論家 淀川長治であった。昭和41年よりTVの「日曜洋画劇場」の解説者となり現在に至ると略歴にある。当時はまだ学生という身分であり、TVを夢中で見たという記憶はない。しかし、あの太い黒縁の眼鏡の風貌とさよならさよならという最後のせりふを懐かしく思い出す。きっとTVでは淀川長治の解説を聞いたことがあるのだろう。記憶のどこかに淀川長治という人がまだ生きているように感じる。「跡取りで淀川という家を継がんならん、これにも反発して、とうとう独身を続けたでしょう。酒が飲めないから、みなが2時間勉強するとこ僕は4時間。すべてそういう気持でやってきたからね。怠けるスキを持たなかった。」こういう話を聞くと人生の重さを背負って映画に全てをかけてきた意味が何となく理解できる。

「そんなわけで僕は映画の仕事をして、映画に浸って暮らしました。映画の中の食事、何かを食べる場面、数え切れないほど見てきたけれども、食べる、ということを映画で語ったのはチャップリンですね。食べるためには働かないかん、働かないで食べるのは罪悪。食べること、働くこと、人間勉強の教科書みたいに語ったな。」チャップリンの「黄金狂時代」の中でチャーりーが靴を食べる話の意味も本書の中で解説されている。

映画も漫然とみていては真の面白さは理解できないのかもしれない。食後のデザートの部でゲリー・クーパーについて語っている。「彼がパンを小さくちぎって食べるシーンがあってね。ああ、こうやってパンは食べるものなのかって勉強になったね。ナイフとフォークも上品に使ってました。上品でしたね。」ちなみに、自分はゲリー・クーパーの映画を見た記憶はない。メンコの写真絵で格好の良いカーボーイハットをかぶっていた俳優がゲリー・クーパーだったような記憶がある。当今、飯を食べるのに感謝をしなさいとか、押しつけがましい事がまかり通っている。ああ、今日も飯を食えたという生命の充足感が先ず必要なのではないか。

2011年1月27日 (木)

読みかじりの記:私のポーチュラカ 魅せられた十年(2004年 瀧島英策 著)。20110127。

2011/1/27
昨日の天気

TAVE= 3.3
TMAX= 8.8
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SUNS= 7.2
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以下本題。

読みかじりの記:私のポーチュラカ 魅せられた十年(2004年 瀧島英策 著)

偶然に手にした一冊であった。著者は農林省で、稲、麦、菜種の育種に従事後、農業指導の仕事もされたと経歴を語る。当然、これらは食料としての品種改良で、花より種子が目標だ。84歳の時に「食べられるという点でポーチュラカの虜になった」が、その延長でポーチュラカの品種改良に10年をかけ、94歳の時にこの本を出版した。

花の育種においても、食料品種の育種という経験と思いがあったのだろうと感じた。品種改良ということで当然遺伝学の基礎知識が必要だが、84~94歳にかけてこのような品種改良をして、今までにないポーチュラカの花を作り、その種子や苗を配布し、その系統を保存していると知ると大いに元気付けられる。

さらに、松葉ボタンとの交雑種作りに意欲を示されている。また、検査機関でポーチュラカの栄養素分析もされ、食材として非常に価値が高く、今後の普及が期待できる事も述べている。

我が家では、かみさんが庭の片隅でポーチュラカを育てている。この花の名前は何かと謎を掛けられる。下手に答えると後がこわいので憮然としている。自分は雑草に追われ、それならば食べてしまえと、畑のポーチュラカの原種と思われるすべりひゆを油炒めにして試食してみたのが昨年の事であった。一層のこと、雑草代わりにポーチュラカを畑に植えて、花と食材の両面で利用するのも面白そうだと思ったりした。

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追記(2023/08/04):タイトルの後に投稿期日を追加。ランキングに入ると記憶が蘇る。

2011年1月12日 (水)

読みかじりの記:虫眼とアニ眼

2011/1/12

寒い毎日。昨日は風は少ないが底冷えする寒さと気象予報士の話。
アメダスの昨日の天気:

TAVE= 1.9
TMAX= 6.6
TMIN= -1.5
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WMAX= 4
SUNS= 4.8
RAIN= 0

以下本題。

読みかじりの記:虫眼とアニ眼

新潮文庫の一冊。養老孟司と宮崎駿の対談+αという構成である。養老孟司は解剖学者で昆虫が大好きという事で虫眼で、宮崎駿はアニメ監督でアニ眼でこの世界を語ってくれたのがこの一冊であろう。その対談があってから既に十年程度経ているが特に古さは感じない。この虫眼とアニ眼の持ち主も共に戦前の生まれで、戦後の空気を吸って、戦後に活躍されている方々である。そうして、話題はあちこちに飛ぶが、その底流あるのが環境と人間の事ではないかと思った。

自分が生きてきた生活空間と時間は良い方に変化するにしろ、その逆にしろ、完全には否定しがたい。しかし、これで良いのかという問題意識を虫眼養老孟司は解剖のメスを通して、アニ眼の宮崎駿は作画の鉛筆を通して語り合っている。このメスと鉛筆を自分の専門道具として持っている所に、一般人や評論家と異なる眼力が現れてくるようだ。

ところで「眼」とは目玉そのもの。「目」とは流し目というように、眼の働きを含め更に広い意味がある。自分は養老孟司や宮崎駿より遅れた戦後世代だがほぼ同じ環境と時代を技術者として生きてきた。戦後の文化でテレビが果たした役割は非常に大きかったと思う。自分もそのテレビ用集積回路の開発に従事した。それでは、その眼を何と言ったら良いかと考えた。TVの撮像菅やCCDを考えると電子眼で略せば電(でん)眼。もっと気取ってE_眼(イー・メ)。工学という土台を目玉と考えると工眼(こうがん)。これでは響きが悪すぎる。工学は人工物を使って視覚情報を飛躍的に扱いやすくした。すると他人や機械の目玉で見た物をあたかも自分の目玉で見た錯覚を起こしてしまう。結局、自分以外の眼という事で他眼、外眼という事になってしまいそうだ。

虫眼もアニ眼も自眼だから価値がある。養老孟司も宮崎駿、戦後大きく変わってしまった社会や環境の中で、人間性を回復するにはどうするか、そこまで大声では話していないが、その第一歩として、自分の眼をよく使い、それを信用せよと言っているように感じた。TVは一方ではニュース等の情報の伝達に多大な影響をもたらしたが、負の側面としては巨大な妄想と自己喪失をもたらしたのではないか。本の冒頭には「養老さんと話してぼくが思ったこと」と宮崎駿が描いたイラストのカラーページが続く。その終わりに「これは夢ではありません ぼくらのこころのふるさとが、どこにあるのかを考えれば実現する力も意味も、この国の人々は持っていると思います 」と結んでいる。

養老孟司氏と宮崎駿氏が単に過去や古里を振り返っているのではない。歴史の中には振幅は微かだが、波長の長い流れも潜んでいる。それに気付く人も少ない。それを幾つかの歴史上の事実に重ね合わせると見過ごされた過去や起こりうる将来の姿が浮かんでくるのではないだろうか。工学的にはノイズの中に潜んでいる情報を引き出す、相関器というのがある。養老孟司氏と宮崎駿氏が相関器になって、ちょっと位相をずらせて語り合うことにより、ノイズに埋もれた世界から何か新しい世界が覗けたように感じた。

2011年1月 8日 (土)

読みかじりの記:名人は危うきに遊ぶ;おまけ「色と数字」について

2011/1/8

読みかじりの記:名人は危うきに遊ぶ

色と数字

白州正子の「名人は危うきに遊ぶ」という新潮社の文庫本を手にした。青年期は文庫本に大変お世話になった。今日風に言えばコンテンツは堅実で、省スペース、ローコストが売りであったと思う。コストパフォーマンスが良い。

「名人は危うきに遊ぶ」のオリジナル版は、その対極にあり、美しい活字で知られた精興社の最後の活版刷りで、紙とか装幀等にこだわって出版されたとの事である。文庫本はかつては岩波文庫にも平紐のしおりが付いていた。しかし、それを付けるには手間と材料(コスト)もかかるので、しおりを止めますという記事を岩波書店の「図書」という小雑誌か何かで読んだ記憶がある。岩波書店の文庫本のしおりを止めるという選択は文庫本のパイオニアとして苦渋の選択であったと思う。新潮文庫にはそのしおりが現在も付いている。いつも使う機能ではないが、しおりにつかう紙切れを探すときなどは有り難い。所がWZエディターにもそのしおり機能がついており、使い始めると非常に重宝する。

この本の解説で赤瀬川原平氏が色と数字の関係について述べていたので関心を持った。電気技術者が最初にさせられる仕事はオームの法則を使って回路に使う抵抗値を計算する事が多いと思う。そして、回路を組む時、それに対応した抵抗器を選ぶ必要がある。小さな部品に数字を印刷する事が困難だったのか、その数字がカラーコードで記されていたので、まず色と数字の対応を先輩に覚えさせられた。もうその対応は大半を忘れてしまったが、幾つか覚えている。緑は「みどりこ」との語呂合わせで5である。紫は「紫しちぶ」で7。白はホワイト9(ク)リスマスで9だと思うが、あやしい。青二才のろくでなしという語句も思い出すがもう記憶が途切れている。そこで、JISカラーコード語呂合わせというキーワードで検索してみた。詳細はWIKIPEDIAの「語呂合わせ」(最終更新 2011年1月7日 (金) 03:37 )を参照。赤瀬川氏が第一番に赤、それもエンジ色のような赤を持ってきているには微笑んでしまった。自分のお好みの色、数字が各人にあると思う。それと同時に、ある幅を持って各人に共通する色や数字があるだろう。
4番の黒「シ」という読みは死との連想をさせる。ところでカラーコードの起源はどこにあるのだろうか。その初めは色を識別して名前を付ける事から始まると思う。本文は後回しになってしまったが、記憶や心情を辿るのに色は欠かせない。

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WIKIPEDIAの「語呂合わせ」(最終更新 2011年1月7日 (金) 03:37 )より引用

抵抗器のカラーコード

カラーコードは金属皮膜抵抗、酸化金属皮膜抵抗、炭素皮膜抵抗などの抵抗器の抵抗値や特性値の表示に多く用いられるほか、コンデンサコイルなどの抵抗器以外の受動素子の数値や特性値の表示、そのほかフラットケーブルなどの多心電線の心線の識別にも用いられる場合がある。

この中で、抵抗器などの受動素子の数値表示を表すものについて、色と数値を関連付けるために語呂合わせを使うことが多い。 語呂合わせの類では珍しく、色と数字をあらわす。

数値 乗率 精度 覚え方
0 1 - 黒いレイ服
1 10 ±1% お茶を一杯、小林一茶、茶ワン
2 100 ±2% 赤いニんじん
3 1,000 ±3% だい三しゃ、橙色のミかんだい三の男
4 10,000 ±4% きシけいこ(岸惠子)、キんシ(近視)にメガネ、黄色いシんごう、きシめんシあわせの黄色いリボン
5 100,000 - 五月みどり、みどりゴ
6 1,000,000 - ロクでなしの青二才(青二才のロクでなし)、青ムし
7 10,000,000 - むらさきシチぶ(紫式部
8 100,000,000 - はいヤー
9   - ほわいとクりすます、しろクま、白いキュウきゅう車、クしろ(釧路
- 0.1 ±5% 例一(01):五分引きの指輪
- 0.01 ±10% の弾丸、命中率1パーセント一割引り
無色 - - ±20% 二割引りの透明宝石

追記(2017/10/21):タイトルに「色と数字」を追加。

読みかじりの記:名人は危うきに遊ぶ⇒読みかじりの記:名人は危うきに遊ぶ;おまけ「色と数字」について

2010年12月29日 (水)

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(14)。101229。

2010/12/29
PARTⅡ

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(14)

○「辞世の歌に見る気概」の章

■枯れ果てて身は土となり墓なくも 心は国を守らむものを
■松崎の駅(うまや)の長に問ひて知れ 心づくしの旅のあらまし

「これは自刃の場に残されたものというから正に辞世の歌である。」、初めの歌は「彦九郎の心を率直に述べている。」、『「墓なくも国を守らむ」は「山行ば草むす屍」の古歌の気概そのものである。』と著者は記す。また「二首目は前年五月に『酌みかはす今日の別れの盃のめぐるがごとにまたも相見む』と歌って別れた碩学の友、赤崎貞幹と再び会い、そして最後の別れとなった歌である。」とその背景を解説している。そうして、「高山彦九郎正之の没後二百年、余りにも純粋であった行動の人、時代変革への先覚者、心深き歌の人、この稀なる奇傑に、われわれは一掬(いっきく)の涙を注ぎたい。」と締めくくっている。
本書が高山彦九郎没後200年を記念して出版(平成5/1993年)されてより、もうじきに没後220年を迎える。自分が高山彦九郎に関心をもつようになったのは、八幡沼開鑿の指導者である川端宇兵衛(川端宇兵衛隆久)を知ってからである。その父、川端宇兵衛広光は高山彦九郎の次の世代の人物だが、高山彦九郎自刃の頃丁度青年期にあり、その優秀な資質を認められ、川端幾右衛門広忠のむこ養子に迎えられ、学習塾の経営を任されている。川端宇兵衛広光は父は地域の有力者で年貢の減免を領主に訴えて所払いとなり一家が離散している。従って、この川端宇兵衛の三代には農民の窮状を救わねばならぬというDNAが流れているように感じる。川端幾右衛門の後裔に話を聞くと元々は武家であったとの事。家業として寺子屋を経営していた。彦九郎の師は伊勢崎藩校学習堂の命名者である伊勢崎藩儒の村士玉水といわれる。また年表によると、宝暦11(1761)年彦九郎15才の時、伊勢崎藩の松本晩翠の塾に通うという記事がある。それから時代をたどると、丁度川端幾右衛門も塾を経営していたので、同業者として松本晩翠との交流もあったと推定される。従ってなんらかの形で高山彦九郎と川端宇兵衛の間に塾を通して思想的な交流があった可能性があると推定している。更に、国定忠次に関しては新井雀里が忠次の墓碑銘を書いているが、新井雀里は伊勢崎藩儒であり、幕府から蝦夷地に派遣されていると聞いた。ここにも高山彦九郎と関連する流れがあるように感じている。断片的であり、点と点を結ぶ線ははっきりしないが今後、過去であっても未知なる出来事に光があたる事に期待したい。

追記1:歌人須永義夫の「彦九郎 歌と生涯」を拾い読みしてようやく最後まで到達できた。なにか重苦しさを感じたのも事実であった。短歌文学に母の歌を見つけてそれをまとめたのがきっかけでここまで来てしまった。もし気付かなければ数十冊にもなる冊子も処分して、自分の興味も他に向かっていたかもしれない。最近、断捨離という言葉を耳にした。物あまりの時代の苦し紛れの現象のように思えてしまう。祇園精舎の~諸行無常~と時の流れに何事も断捨離は自然に進行してしまう。あえて断捨離に翻弄される必要はあるまい。断捨離の逆は継拾接となろうか。継拾接は自然の流れに逆らってエネルギーを必要とする。身軽になるのは結構だ。高山彦九郎の旅も身軽だったのだろうか。何か押しつぶされそうな重さに耐えつつ旅をせざるを得なかったようにも感じる。軽薄短小ではなく重厚長大の世界もあるようだ。

追記2:高山彦九郎記念館の「高山彦九郎ゆかりの藩校・郷校・私塾等」の資料によると、
伊勢崎藩が安永4(1775) 年に設立した藩校学習堂の項で、「新井雀里の著「高山芳躅誌」には、伊勢崎藩校学習堂の村士玉水・浦野神村・関重嶷との交遊があったことが記されている。」とある。最近古書市で閉店間際に「高山芳躅誌」を発見。中をちょと拝見しただけで終わり、残念。「芳躅=ほうどく?」「躅」は「あと」の意味がある。高山彦九郎先生伝記というような内容に思えた。

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追記(2018/06/04):「芳躅=ほうたく(顕彰の意味)」と読むらしい。ランキング6位に入っているので再読。タイトルに日付追加。

Googleでキーワード「高山芳躅誌」を検索


下記の 国立国会図書館デジタルコレクション で読める。

高山芳躅誌

新井, 雀里, 1813-1900,新井雀里 編 雀里会 1926

新しいウインドウが開きます 国立国会図書館デジタルコレクション

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追記3:高山彦九郎記念館の「高山彦九郎ゆかりの藩校・郷校・私塾等」の資料によると、「伊勢崎藩儒であった新井雀里が著した「高山芳躅誌」(雀里会刊 大正15年)はきんからの聞き書きが元になっている。」とある。また、殖蓮公民館だより(H21/04)連載のENJOYウォーキング~ 殖蓮歴史散歩(執筆:殖蓮史談会 星野正明氏) 第69回 殖蓮 川と橋と水辺の風土記⑨宗高橋の記事に以下のように新井雀里の事が述べられている。「橋の西側、宗高町に明治維新の廃藩置県で武士に家が与えられたお建屋(おたてや)が、12 軒ありました。その1軒に江戸時代に有名な学者、新井雀里(あらいじゃくり)先生の教授する南淵塾(なんえんじゅく)がありました。この塾に学んだ人達から、伊勢崎の明治大正時代に活躍した人達を輩出しました。伊与久の細谷はま子(関東学園経営・現在の館林市にある関東短大)、星野源左衛門(伊勢崎町長)相川之賀(あいかわしが、郵便局長、相川考古館創立者)黒崎弁之助(桐生市、名校長)高柳裕五郎(国領町、岩見沢市長)矢島屯次郎(上植木、殖蓮村の実力者)等々、多くの名士を誕生させました。また、名筆の聞こえが高く、当時の名筆家、下植木の長尾慥二郎(現在の東本町)と並ぶ文化人で、文章や漢詩に長けて、多くの墓碑銘を残しています。中でも知られているのが、国定忠治の墓碑銘です。雀里先生は、国定忠治より3歳年下の同じ時代の人で、忠治の33 回忌に建てられた墓碑銘を頼まれて書いています。知識人である雀里先生による墓碑銘は、次の如く記してあります。『君ノ氏ハ長岡、通称ハ忠次郎、上野国佐位郡ノ産、頗ル遊侠ヲ好ミ、遂ニ博徒数百ノ魁ト為ル。然レドモ恒ニ剛ヲ砕キテ弱ヲ右ケ、豪ヲ挫キテ貧ヲ賑ワスヲ以テ心ト為ス、(以下、略)』と刻んであります。」新井雀里という当時の地域有数の知識人において、高山彦九郎と国定忠次の接点があったことがはっきりした。ところで、新井雀里は死ぬ前に、潔く資料や記録を処分してしまったとある人から聞いた事がある。新井雀里(文化11(1814)年~明治33(1900)年)を通して高山彦九郎や国定忠次を見直すことが可能かもしれない。

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(13)

2010/12/29

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(13)

○「消えた”九州日記”」の章

著者は「彦九郎は自刃の前日に、手許にあった日記、書類の類を尽く破棄している。」、「同志に犠牲者が出るのを怖れたのである。」と述べてから、彦九郎自刃の様子を記す。

■ことし八つと聞くにぞいとど覚ほゆる 我が子も同じ年と見るにも
■我を思ふ人は有りともあらずとも 恋しかりける故郷のそら
■酌みかはす今日の別れの盃の めぐるがごとにまたも相見む

著者は「彦九郎は妻子のことをほとんど省みない如くだが、熊本を出た菖蒲池村ではわが子と同年配の子を見て心揺らいでいる。子については普段口を噤んでいるだけにその心中が思われる。」と「筑紫日記」の中の歌を記す。「最後の歌は鹿児島県の加治木で心許した同志赤崎貞幹と別れを惜しむところである。彦九郎として天下回天の思想を説いて経めぐる旅であったろうが、歌だけはその心情に幾ばくかの距離を置いている。それが歌の道であったろうが、彦九郎の衝迫した心を救っていたとも言えるだろう。」と締めくくる。ここで著者で歌人である須永義夫の歌に対する考え方の一端が現れているように思える。短歌文学の歌の講評で歌は心情の告白とか述べていたのを思い出す。しかし、心情が歌になるまでには、脳内では色々な作業が行われる訳で、心情そのものではない作品として形を得る。やはり、歌に詠うと時には客観的な分析等も行われる。そう言う点で、歌を作るという行為が感情や心情と理性をバランスさせる働きがあるのかもしれない。

2010年12月28日 (火)

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(12)

2010/12/28
PARTⅡ

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(12)

○「尊王から倒幕への転機」の章

この章では、著者は「これについてやはり定説に近いものに尊号事件がある。」とのべて、彦九郎の転機と死の理由解明に入っているように感じる。この章には歌は無く、論述には著者の心情が溢れているように感じる。詳細は本文を参照したい。そうして著者は、「彦九郎は自らの使命も時代も終わったのだと考えたのだろう。」して、彦九郎の自刃の理由を「自らの死をもって起爆剤とすることと判じたのだろう。」と述べている。彦九郎の広い交友関係、学識、行動等があって初めてその自刃による死が、それに続こうとする人々の号砲になったと読めるのではないか。

追記:自刃は自刃した本人の全ての価値観を表す行為ともとれるであろう。高山彦九郎は切腹したが死にきれず、絶命したのは翌日であったようだ。著者の記述より凄惨な様子が目に浮かぶ。政界を引退すると公言した人がとるにたらない理由を挙げて前言を翻すような行為があたりまえになってしまった。政治家にとって政界からの引退はまさに自刃であろう。その波紋が広がり新しい波が生まれる。
著者は戦前に当時の細谷村にある彦九郎の生家を訪れ、
■ここの家に生(あ)れし正之(まさゆき)先生が国憂ひ世を嘆きとどまり難かりき
と詠んでいる。

 著者が戦前、細谷村 高山彦九郎生家跡で詠んだ歌へ

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(11)

2010/12/28

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(11)

○「役人の追求のてが」の章

「緑亀を献上した四ヶ月後に彦九郎は九州遊歴の旅にでた。」著者はその足跡と交遊状況を要約し、「だがこうして休む間もなく奔走する彦九郎を、役人等が危険人物として注目しない訳がない。」としつつ、「彦九郎の死はその理由が計り難く、さまざまに憶測されているが、この情熱的憂国士の心情を思えば、その理由も明らかにしたい感がある。」とこの章を結んでいる。いわば、この章は次の章への導入のように見える。

追記:江戸時代とはいえ旅にでれば路銀がいる。旅に明け暮れた彦九郎はその費用をどのように確保したのか気になる。「高山彦九郎の実像」の中の別の記事を読むと彦九郎の経済的な支援者もいたようだ。また、祖父が母方の高山の姓を名乗り蓮沼家より隠居分家した時相当な財産を引き継いだらしい。その金は祖父、父の思想・理想というDNAを実現するために必要になった時だけ使えと代々伝えられてきた基金のようであったらしい。彦九郎と交流した人達は最新のニュースや学問に関心が深い当時の知識人が多く、人物ネットワークがあった。そういう人々に対して出張講師、ニュースキャスターのような役回りで路銀を工面していたかもしれない。しかし、経済的にはやがて破綻してしまったのが現実であったようだ。渡良瀬川公害の解決に一生を捧げた田中正造も亡くなった時には身の回りのものしか残っていなかったようだ。

2010年12月27日 (月)

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(10)

2010/12/27
PARTⅡ

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(10)

○「純粋な皇室観を」の章

■君が代の栄えもさそな緑なる 亀の尾長き春をためしに
■玉鉾の道の栄えやよろづ世に 亀も緑の色を見すらし

著者は「彦九郎が緑亀を入手して、これこそ天皇の徳本政治の行われる瑞兆なりとし、これを叡覧に供したというのである。」と記す。これは、白亀が現れて、神亀と改元した故事にならったようだ。彦九郎がその亀を入手した説を示した後に、「然しこの数日こそが彦九郎にとって最良の時で、間もなくきびしい波乱の時が迫っていたのである」とこの章を結んでいる。改元が行われるには大きな理由・必然性が必要だろう。彦九郎がどんな目的で緑亀を献上したか定かではないが、変化が起こるエネルギーが不足していたのであろう。

追記:当地伊勢崎の八幡沼開鑿の指導者・二代目川端宇兵衛も高山彦九郎の後を追うように江戸やその他の地方を遊学したようだ。江戸行き定兵衛というあだ名があり、隣家に行くように気楽に長い旅に出てしまったという話が後裔に伝わっているとの事だ。残念ながらその記録は残っていないようだ。しかし、当時の土木技術集団の黒鍬が八幡沼開鑿に関係したのは確実なようで、四国の宇和島と関係がありそうだと、当地の郷土史家が語ってくれた。振り返ってみると、高山彦九郎は四国へ足を踏み入れていないようだ。四国の溜め池作りは空海以来、技術が高いのを知って、二代目川端宇兵衛は四国を訪問して人脈作りをしていたのではないかと推測される。一度先方の図書館に問い合わせをしたが、該当する記録は得られず以後調査は頓挫しているが、四国、高山彦九郎、川端宇兵衛という点が線で結ばれる可能性はゼロではないだろう。

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  • 中村三夫: 13_NHK趣味の園芸:作業12ヶ月  カキ(NHK出版1996年)
    初心者向け柿栽培参考書(旧版)。新版と比較すると楽しい。
  • 山科正平: 12_細胞を読む   電子顕微鏡で見る生命の姿
    細胞はどんな部品からできているのか。そんな疑問に答えてくれる一冊。何事も形を見るのが第一歩。μからÅオーダーの世界で、細胞をメスで解剖するように、電子顕微鏡というメスで解剖して見せてくれるので興味が尽きない。
  • 柳田充弘: 11_細胞から生命が見える
    著者の専門は分子生物学、細胞生物学。普段生物を考えても細胞レベルで止まってしまう。その細胞の中で色々な分子が働いている。細胞こそ生命の基礎だが、その細胞の中の動きを知るのに最適な一冊。疑問の発端はなぜ発根剤が効くのかということ。薬剤が細胞膜を通過して細胞内で分子と分子が作用するイメージができた。本書でできた細胞のイメージは小さな無数の穴が空いた水分が充満したヨーヨーのようなもの。そのヨーヨーの中に分子部品が詰まっている。細胞自体もタライの中のヨーヨーのように浮かんでいる。細胞図面の空白部は真空でなく水分だ。細胞の内外に水がないと細胞は生きられない。水が生命のゆりかごだ!
  • 野口悠紀雄: 10_ホームページにオフィスを作る(2001年 光文社)
    ITが輝いた時代の作品。HPの活用法は参考になる。参考:url=http://www.noguchi.co.jp/(野口悠紀雄 ONLINE)
  • 小池洋男 編著: 09_果樹の接ぎ木・さし木・とり木(農文協:2007/3/31第1刷)
    やや専門的であるが、実務専門化が分担執筆しており、その場で役に立つ一冊。
  • ノーバート・ウィーナー(鎮目恭夫訳): 08_サイバネティックスはいかにして生まれたか(みすず書房1956)
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    2010/8/4:MEMO等の表示に使える。 農作業で気になる自戒の言葉 ■畑の石ころはいつまで経ってもても石ころ(早く拾って片づけよという意味か)。 ■同じ石を二度拾うな(やってみると難しい)。 ■手ぶらで歩くな。 ■三つ先のことを読め。 ■適当な観察。 ■空を見よ(気分転換、休憩、天気を読む、腰曲がり防止)