010_東北の海よ

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2013年3月 1日 (金)

東北の海よ:釜石湾にあった巨大構造物はクレーンだったのか

2013年3月1日金曜日
昨日は晴れ。最高気温(℃) 17.6 15:20 。ざっそう句:何時吹くか 花粉も怖い 春一番。宅内閑居。お陰で電話番ができた。最近はコンピュータ発信の無機的な電話やあやしい勧誘電話も多いが。ところで、なぜ電話は受ける側がタダなのか。お互い利害が均等ならば、一通話の料金を半分ずつ負担するというのが原点なのか。通話相手が不特定の場合、掛ける方の都合なので発信側が全額負担するというのは一見合理的だが、相手の迷惑になる電話まで許されないだろう。ICTが発展しても通話を選別する技術は遅れているようだ。

2013年2月28日の天気(AMEDAS)

TAVE= 10.0
TMAX= 16.3 最高気温(℃) 17.6 15:20 
TMIN= 5.3 最低気温(℃) 4.6 02:37 
DIFF= 11
WMAX= 5.4 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 10.8(北西) 10:04 
SUNS= 10
RAIN= 0

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東北の海よ:釜石湾にあった巨大構造物はクレーンだったのか

もうじき、東北地方太平洋沖地震から二年目になる。釜石湾も津波では大きな被害を受けたようだ。「技術 回顧と展望:東日本大震災の復興に際し、湾口防波堤はもっと強固にならないか(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2011/04/)。(2011/4/30)」湾口防波堤はどのようになるのか。ともかく、コンクリートというハード技術だけでは、お金が回らない時代になれば新たな問題が生まれるだろう。そこで防風林の延長で防潮林のような物を長い年月をかけて形成する方法もあるのではないかと思った。それを維持管理する事が、地震津波に対するソフトになる。業者任せではなく、地域住民の参加がその条件だろう。

「かみつけ女流歌人 雅:陶の鉢((身辺雑記:リフレシュ休暇の東北旅行))(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2011/03/post-970a.html)。(2011/3/23)」で在職中の東北地方の旅を振り返った。

「老人の寝言:「鉄は国家なり」はどこまで正しいか(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2013/02/post-908b.html)。(2013年2月11日月曜日)」ここで、「釜石港 クレーン」を検索した。震災後の映像が多いようだった。もう一度、当時の写真アルバムを見ると、巨大なクレーン状の構造物が写っていた。ただ、宿に着いて、海岸沿いの散歩で何となく写していた一枚に過ぎない。もう、この画像も完全に過去の物になってしまったのか。ともかく、製鉄という産業が栄えていた時期を偲ばせてくれる画像かもしれない。港湾施設として不要になり撤去されたのか、津波で流されたのか分からないが、自分のアルバムの中に残っていた。当時の写真をデジカメに収めた物。
Bopix_kamaisiwan_kyodaikouzoubutu

なお、更に調べてみると、日商岩井社友会のホームページに同じようなクレーンが掲載されていた。見る角度が異なるので同一とは断定できないが、蟹の足のような構造が類似している。「東日本大震災 1年後の写真記録(http://nic.main.jp/?p=6508)」。その説明には「ほぼ復旧した桟橋風景;手前の二機のクレーンは日商岩井が納入した橋型クレーンです。」とある。参考のため、古い画像と前記復旧後の最近の画像を並べてみた(縮小画像)。「橋型クレーン」という説明で「巨大構造物」の正体が掴めた。
Bopix_kamaisiwan_crane_hikaku_2pix

尚、上記ホームページには、「昨年3月11日の津波の巨大さは、映像はもとより、一昨日亡き親族の命日に被災現場に立って、改めてその巨大さを認識致しました。それだけに街の復興計画がなかなか決まらず、今年に入ってようやく基本となる防潮堤の高さ等が決まりました。 概略申し上げますと、釜石市内は高さ6m、両石町は従来どおり12m、鵜住居は高さ14.5mに幅70m、それに国道を 3m嵩上げする。大槌町は14.5m、宮古市は10.4m、大船渡市は7.2m、陸前高田市は12.5mに、住民等の希望を加味したものとなったようです。 釜石の場合は、これに湾港防波堤が加わることになります。昨年の大津波では、釜石市街地は、この湾港防波堤と新日鐵の石炭ヤードが壁となって、相当の減災効果があったと証言されています。今回決まったこの高さは、東日本大震災のような巨大津波には巨額の費用がかかり過ぎて対応出来ず、百年に一度程度の津波を想定し、3m高い道路及び鉄道の敷設により減災、更に避難路、避難設備を充実したものとなっております。(http://nic.main.jp/?p=6315)」との記事もあり、復旧が始まっているようだ。

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2013年2月26日 (火)

東北の海よ:二年前の気仙沼の震災被害を振り返る

2013年2月26日火曜日
昨日は晴れ。最低気温(℃) -2.8 05:57。最高気温(℃) 6.4 12:31。ざっそう句:奥州路 芭蕉に詠ません 気仙沼。朝老人モードで用事外出。僅かな時間だが寒さで指が麻痺しそうな感覚になる。宅内閑居。安倍総理はTPP参加に傾いていると報道されている。国際間通商において物の取引である、第一次産業の農林水産物、第二次産業の工業生産物は大体想像が付きやすい。しかし、第三次産業のサービス部門になると想像が付かない。日本でも第三次産業の比重が高まっているが、その地位は依然低く、国際競争力も脆弱だ。商業流通業界、医療保険業界、弁護士弁理士業界、金融業界等々。国際間通商では、何事も丁々発止英語で交渉する必要がある。価格交渉、契約交渉、口喧嘩すら英語だ。日本人はまともに英語で口喧嘩できるレベルにあるのだろうか。TPPが実現すると、第三次産業が軒並みアメリカの下請けになるような予感すらする。アベノミックスどころか、アベノモウテン、アベノヘルに突き落とされるのではないか。もう、これ以上地獄を見るのはご免こうむりたい。

2013年2月25日の天気(AMEDAS)

TAVE= 0.9
TMAX= 5.7 最高気温(℃) 6.4 12:31 
TMIN= -2.7 最低気温(℃) -2.8 05:57 
DIFF= 8.4
WMAX= 8.1 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 15.1(北北西) 15:38 
SUNS= 10.6
RAIN= 0

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東北の海よ:二年前の気仙沼の震災被害を振り返る

昨年、三月に伊香保である講演を聞いた。「大震災のもたらしたもの 気仙沼からの報告」という題名であった。丁度、東北地方太平洋沖地震から一年になる前の事である。その講演のメモが部屋の片隅から出てきた。当時、気仙沼在住の自分の甥もしばらく消息が確認できなかった。必死に、インターネットで情報を探し、何とか無事だろうと親に伝えた。後で聞いた話では、車は津波にさらわれたとの事だ。もしも、その時車の中にいたなら...。その講演のメモによると、気仙沼では、携帯は7~8日、ソフトバンクは1ヶ月ほどつながらなかったとある。海岸の石油タンクが燃えた大火災の映像は今でも忘れられない。生死を分ける状況が至る所にあった。

講師は寺の住職なので、当時の現地の話に引き込まれた。寺は海岸から離れた場所にあるが、震災避難者の対応に追われたようだ。震災による死亡者も多数あったが、塔婆も花も無い。行方不明で遺体のない死亡者もある。遺体の代わりに念持仏を添えて葬儀をしたとのこと。位牌や仏壇を失った家庭もあり、組立式の段ボール仏壇を使ったとの事。また、火葬も行えず、仮に土葬をして、その後遺体を堀上げて火葬にしてから納骨という初めての事態もあったとの事だ。停電で火葬炉も稼働できなかったので当然だが、便利な電気に頼る文明のもろさが意外なところに現れていた。死者の供養の大切さ・切実さは、その時になって本当に理解できるのだろう。

「仁和寺に、慈尊院の大藏卿隆曉法印といふ人、かくしつゝ、かずしらず死ぬることをかなしみて、ひじりをあまたかたらひつゝ、その死首の見ゆるごとに、額に阿字を書きて、縁をむすばしむるわざをなむせられける。(方丈記通読:いとしきもの。http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2010/03/post-6601-1.html)(2010/3/20)」を思い出した。この部分は、死者を成仏させるために僧侶が活動した様子を鴨長明が記した記録である。この当時は、地震・旱魃等の災害後に、食料が途絶し、飢餓で死亡した人が多かったようだ。この状況は、現在でも全く変らないのではないか。

震災後、6月頃になると暖かくなり腐敗が始まり、悪臭が発生、ハエも発生するので、ペットボトルに砂糖と酢を入れた、現代版ハエ捕り器も活躍したようだ。終戦後は衛生状態も良くなく、ガラス瓶を使ったハエ捕り器が必需品だったのを思い出す。

途中に余談として、群馬と気仙沼の関係の話もあった。気仙沼の語源は、アイヌ語の「地のはて」という意味との事。古代の気仙沼は金と馬の生産地だったとの事。これが、奥州藤原文化を後ろから支えたとの事だ。群馬県の前橋は古くは厩橋と呼ばれ、馬の産地であった。その昔、奥州藤原文化が栄えた頃、群馬から気仙馬に馬が供給された云々という話もあった。

メモには義経の愛馬の名前もあったが、読めない。WEBで調べると源義経の愛馬の名前が「太夫黒」で、名馬だったらしい。更に調べると、「「太夫黒」生誕の地(源義経公の愛馬:所在地=一関市東山町松川字卯入道平地内)(http://www.hiraizumi-yukari.com/select_genre/more.php?c=3&p=16)」という記事を発見。当地・伊勢崎には義経伝説が多い。忘れられないのが、旧赤堀町の五目牛地区にある、「牛石」。ここを、奥州に向かう義経が通ったという伝説がある。更に、近くに「一ノ関古墳」という古墳がある。奥州一関と当地の「一ノ関古墳」とは何か関係があるのか。近くの粕川にある堰が「一の堰」。「一ノ関」と「一の堰」を混同しかけていた。閑話休題。

大きな被害を受けて、地域の絆である自治会も維持できない状況もあるようだ。「絆」という言葉は意味が深い。切っても切れない因縁も絆の一つかもしれない。人と人のつき合いも多種多様。また、このような大災害で新しい絆が生まれるのも事実だろう。「震災で被害を受けた人の心は容易に開けるものではない。そのような人々に寄り添うような接し方が大切だ」と話された。改めて、昨年の講演を振り返った。


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2012年12月 2日 (日)

東北の海よ:浄土ヶ浜のウミネコは元気か

2012年12月2日日曜日
昨日は曇り後晴れ。一時軽く降雨。風が強かった。ざっそう句:指くわえ 高嶺の柿を 見る阿呆。宅内閑居。部屋や資料の整理。いよいよ衆議院選挙の公示日が近づいてきた。政界はまさに離合集散のどたばた喜劇の渦中にある。憲法改正、脱原発、社会保障、東北の復興、TPP等々日本の将来を決める懸案事項が山積みだ。それを叫ぶ政治家の言葉が余りにも軽すぎる。書棚の小さなアルバムから在職中の東北旅行の写真が出てきた。

2012年12月1日の天気(AMEDAS)

TAVE= 4.4
TMAX= 8.9 最高気温(℃) 8.9 14:09 
TMIN= 0.5 最低気温(℃) 0.2 07:15 
DIFF= 8.4
WMAX= 8.8 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 16.1(北西) 12:31 
SUNS= 5.1
RAIN= 1

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東北の海よ:浄土ヶ浜のウミネコは元気か

2011年3.11に発生した東北地方の地震、津波、原発事故の三大被害から既に1年8ヶ月余が過ぎた。関連ニュースも少なくなり世間の関心も薄れて行く。三大被害発生時は未だ寒さが厳しい時であったが春に向かっていた。現在は寒さに向かう時であり、地域の人々の苦労を思わざるを得ない。忘れ去られると言うことは人間として寂しいことだ。忘れないという事も支援なのだと東北地方で災害支援をした僧侶が講演で述べていたのを思い出した。そんなことを思いつつアルバムの写真を見た。浄土ヶ浜が写っていた。振り返ると、以下の記事を書いていた。

東北の海よ:浄土ヶ浜(2011/6/29。
http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2011/06/post-c80a.html

かみつけ女流歌人 雅(身辺雑記:リフレシュ休暇の東北旅行):陶の鉢(2011/3/23。
http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2011/03/post-970a.html

WEB上で、浄土ヶ浜の情報を調べると、あの奇岩は健在らしい。津波で海水を浴びた松は枯れた物があるようだ。観光施設も再建が進んでいるらし。自然災害ならば、何とか受容・克服できるが、全能でない人間が起こす自然を越える人災は許し難いというのが大方の実感ではないか。写真を見ると、ウミネコが手が届くほど近くで飛んでいた。巨岩、奇岩も改めて見直した。現代人は、この世がすでに楽園になっているので、「浄土」等は何のことか想像できないのかもしれない。「浄土」という言葉から、石牟礼道子の「苦海浄土」を思い出す。この人生は苦海だ。その背中合わせが浄土だ。自分で自分の背中は見えない。巨岩、奇岩もそこに生える松も自然がなせるワザだ。長い時をかけて作られたのだろう。浄土ヶ浜は自分探しの場所でもあるだろう。デジカメ画像は当時の銀鉛プリントを撮影。十数年前はまだ銀鉛カメラが主流であった。
Jyoudogahama_umineko_kigan_3pix
jyoudogahama_umineko_kigan_3pix.jpg

2012年4月 6日 (金)

老人の寝言(東北の海よ):海の放射能汚染をくり返す東京電力の失態はいつまで続くか

2012/4/6(金)
昨日は晴れ。春の嵐から初夏のような天気になった。苗移植。ツバメが飛来しているようだ。数日前に鳴き声を聞いた。昨日は一瞬姿も見た。記録があるのが、2008年4月2日、2009年4月12日。大体4月初旬のようだ。昔の人家は藁屋根で、家の中にもツバメが巣を作っていた。スモモの木ハリウットドが満開であった。スモモの他品種は開花していない。授粉がすれ違いになりそうだ。夕方5時のNHKラジオニュースだったか、東京電力福島第一原子力発電所から高濃度の放射能汚染水が海に流出したと言うニュースが流れた。何とその長さが一息で読み終わる長さで、耳を疑った。それは空耳だったのか。

2012/4/5(木)の天気

TAVE= 9.5
TMAX= 17.8 最高気温(℃)  18.5  12:43
TMIN= 1.4 最低気温(℃)  0.9  05:12
DIFF= 16.4
WMAX= 8.1 最大瞬間風速(m/s)  16.7(西北西)  12:06
SUNS= 10.4
RAIN= 0

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老人の寝言(東北の海よ):海の放射能汚染をくり返す東京電力の失態はいつまで続くか

東京電力は「事故の収束に向けた道筋(STEP2完了)(平成24年1月27日改訂)http://www.tepco.co.jp/nu/fukushima-np/f1/images/f12np-gaiyou_2.pdf」で「原子炉以外の課題についても以下に示すとおり目標を達成し、「放射性物質の放出が管理され、放射線量が大幅に抑えられている」というステップ2の目標達成と完了を確認しました。」と述べている。

今回の、東京電力福島原発からの高濃度の放射能汚染水の海洋流出をWEB検索したら報道各社がそのニュースを流していた。Googleニュースで「東京電力福島第一原子力発電所から高濃度の放射能汚染水が海に流出」を検索すると「関連記事 81 件 」とあった。NHKが流したニュースは空耳ではなかった。それにしても一息だけのニュースは出し惜しみと言うのか、国民を愚弄しているのか。自分の耳でなくでなくNHKを疑いたくなる。受信料を返せと言いたいくらいだ。というより、報道倫理・報道論理という日本の知性の劣化に深い失望感を抱くのだ。

東京新聞は、「汚染水12トン海へ流出か 福島第一原発 ストロンチウム含む;url=http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2012040590135654.html(2012年4月5日 13時58分)」というタイトルで、「東京電力は五日、福島第一原発の汚染水処理システムの配管から高濃度のストロンチウムなどを含む汚染水十二トンが流出したと発表した。配管のホースがつなぎ目から抜けたのが原因。汚染水は排水溝を通って、ほとんどが海に流れ出た可能性がある。 東電によると、汚染水が漏れたのは、放射性セシウムの大半を除去した後、淡水化装置で濃縮された塩水。ストロンチウムは取り除かれていない。 周辺では昨年十二月に〇・一五トン、今年三月に〇・〇八トンの汚染水が漏れて海に流出。三月の汚染水のストロンチウムなどの濃度は一立方センチ当たり一四万ベクレルで、今回も同程度とみられる。周辺の海水の調査では、放射性セシウムは検出されず、ストロンチウムはまだ測定結果が出ていない。 装置は五日午前零時十分ごろからの一時間で四回、水量増加の異常を感知して自動停止した。ところが、最初の三回はそのたびに作業員が遠隔操作で再起動。午前一時十分、四回目の自動停止で初めて水漏れの可能性に気がつき、現場を確認したという。汚染水の流出は、午前二時二十分まで続いた。 ホースのつなぎ目が劣化したか、つなぎ方が緩かったとみられる。東電の松本純一原子力・立地本部長代理は「自動停止の時に、現場の確認をするべきだった」と話した。」と報じた。

東京新聞の記事には、汚染水処理システムと排水溝の関係を示す図面が載っており、理解しやすい記事になっている。また、東京電力が発表したニュースの垂れ流しではなく、東京電力に取材しているようだ。確認のため、東京電力の発表内容を調べた。

以下は東京電力発表全文である(添付資料が三点ある)。

東京電力は、「プレスリリース 2012年 福島第一原子力発電所の淡水化装置(逆浸透膜式)から濃縮水貯槽への移送配管における漏水による放射性物質を含む水の海への流出の可能性について;url=http://www.tepco.co.jp/cc/press/2012/1201697_1834.html(平成24年4月5日 東京電力株式会社)」というタイトルで、「平成24年4月5日午前1時5分頃、福島第一原子力発電所の淡水化装置(逆浸透膜式)において、淡水化装置から濃縮水を濃縮水貯槽に送る流量が上昇したことから、水の漏えいの可能性があるため、午前1時10分頃同装置を停止いたしました。 水の漏えいを防ぐために、午前1時45分頃、淡水化装置(逆浸透膜式)から濃縮水貯槽に送る配管(耐圧ホース)の前後弁を閉操作しました。 その後、当社社員が現場を確認したところ、午前1時50分頃、淡水化装置(逆浸透膜式)から濃縮水貯槽に送る配管の一部で漏えいを確認しましたが、前後弁を閉めたことから午前2時20分頃に漏えいは停止いたしました。 これまでの調査において、同日午前0時6分から午前0時13分の7分間にかけて濃縮水を濃縮水貯槽への移送流量が増加していたこと、また午前0時50分から午前1時10分にかけて短時間の起動停止操作を3回実施したことがわかりました。 これらの状況から、約12m3の濃縮水が、U字溝および排水溝を経由して、海へ流出した可能性があるものと推定しております。 また、耐圧ホース保温材より漏えいしていたことを確認したことから、保温材を外したところ、接続フランジ部から耐圧ホースが外れていることを確認しました。 漏えいした水については、付近の一般排水用の排水溝に流れ込んでいる可能性があることから、漏れた水、排水溝内の水および福島第一原子力発電所1~4号機側放水口から南側に約300m離れた排水溝出口付近の海水について、サンプリングを実施いたしました。 サンプリングした水の分析を行った結果、漏れた水、排水溝内の水からガンマ線核種が検出されましたが、排水溝出口付近の海水は検出限界未満でした。
 今後、サンプリングした水の全ベータ放射能の分析を行う予定です。 立地地域の皆さまをはじめ、広く社会の皆さまに大変なご心配とご迷惑をおかけしておりますことに対し、改めて心よりお詫び申し上げます。 なお、現在、淡水化装置(逆浸透膜式および蒸発濃縮装置)は運転を停止しておりますが、淡水化処理した水は十分にあることから、原子炉注水への影響はありません。以上」と報じた。

この発表で、不可解な事は「これらの状況から、約12m3の濃縮水が、U字溝および排水溝を経由して、海へ流出した可能性があるものと推定しております。」と「海へ流出」の事実は、可能性と判断して、流出の影響を小さく印象づけようとする口実を連ねている事だ。その結論が、「立地地域の皆さまをはじめ、広く社会の皆さまに大変なご心配とご迷惑をおかけしておりますことに対し、改めて心よりお詫び申し上げます。 なお、現在、淡水化装置(逆浸透膜式および蒸発濃縮装置)は運転を停止しておりますが、淡水化処理した水は十分にあることから、原子炉注水への影響はありません。」というお題目である。可能性は推定するが、事実は認めず、それなのに「お詫び申し上げます」という神経はどうなっているのか。

東京新聞が、『東電の松本純一原子力・立地本部長代理は「自動停止の時に、現場の確認をするべきだった」と話した。』と取材して裏付けを取った意味は大きいだろう。しかし、東京電力福島第一原子力発電所サイトの現場へは報道陣は入れない。辻褄合わせの作文は幾らでもできる。「約12m3の濃縮水」が装置のホースから漏れだして、表面がコンクリート舗装されていれていて、装置の近くに排水溝があるという配置関係なら、排水溝への流出の可能性は限りなく大きいだろう。

河北新報は、「福島原発、汚染水流出で厳重注意 相次ぐトラブルに保安院;url=http://www.kahoku.co.jp/news/2012/04/2012040501002061.htm(2012年04月05日木曜日)」というタイトルで、「東京電力福島第1原発で汚染水の淡水化装置と仮設タンクを結ぶ配管が抜け、高濃度の放射性ストロンチウムを含む汚染水約12トンが漏れた問題で、経済産業省原子力安全・保安院は5日、同じ装置で短期間に水漏れトラブルが相次いだとして東電を厳重注意すると発表した。 一部が海に流出したとみられるとして、再発防止のため、周辺の配管の接合部を点検するよう指示する。漏れた水を可能な限り回収することや、配管をより強度の高いポリエチレン製に交換するよう求める。 東電によると、周辺海域では、ストロンチウムなどベータ線を出す物質は検出限界値未満だった。」と報じた。

河北新報の記事は、東北地方の報道機関がどのように報道したか知る参考になるだろう。経済産業省原子力安全・保安院が「同じ装置で短期間に水漏れトラブルが相次いだとして東電を厳重注意する」という事は、高濃度の放射能汚染水の海洋流出を事実と認定しているから行われたのだろう。そうすると、東京電力の発表はいかにも誠意のないもと感じざるを得ない。問題は、予想も付かない程大量の高濃度放射能汚染水が保管されていることである。海の放射能汚染が今後もくり返すされてはならないだろう。

2012年3月13日 (火)

東北の海よ:ニューヨークタイムズが伝えた3.11東北三大災害

2012/3/13(火)
昨日は晴れ。風が強く寒い日だった。午前は資材加工。午後は仲間二人で修理作業。更に二人応援が来た。ともかく、寒風の中の作業だったが、人数が多いと元気が出てくる。寒くともスギ花粉は飛ぶとの事でマスク着用。昨年は花粉の飛散が特に多い年とされていたが、東京電力福島原発事故で、放射能の危険が増大した。その予防でマスク着用が多かったのか、花粉症はほとんど感じなかった。昨年の3.13のブログでは原発事故の事を書いているが。まだ、その深刻さを意識していなかったようだ。「環境雑録:巨大地震による原子力発電所の事故。http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2011/03/2011.html。」

2012/3/12(月)の天気

TAVE= 3.9
TMAX= 9.1 最高気温(℃)   9.5  12:47
TMIN= -0.2 最低気温(℃)   -0.6  06:11
DIFF= 9.3
WMAX= 8.5 最大瞬間風速(m/s)   17.3(西北西)  12:15
SUNS= 9.3
RAIN= 0

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東北の海よ:ニューヨークタイムズが伝えた3.11東北三大災害

3.11から一年を迎えて、世界はこれをどのように報じているのか。たまたま覗いたNY TIMESに次の記事があった。By HIROKO TABUCHIという署名記事である。かなりの長文で読むのが大変。細切れにして、Googleで翻訳した。機械翻訳なで「超訳」的な部分もあるが、英文記事が伝えようとする内容は、これを手がかりに解読する以外にない。

「Effects of Japan’s Disaster(追記:An Anniversary of ‘Heartbreaking Grief’ in Japanに変更/2012/3/13)」というタイトルだが、3.11の地震、津波、原発事故という巨大な災害三重奏の及ぼす影響についての記事。翻訳では、それが「まだアンフォールディングしています」とちょと意味がとりにくい。「日本の巨大災害の影響ががぞくぞく明らかになる」という意味だろう。被災から一年経ち、ようやく被災直後の様子が分かってきた事が多いだろう。

この記事は、浪江町の被災者と被災者が死亡に到った原因について報告している。浪江町では、避難者は津波からの避難と原発からの避難の両方を考える必要があった。もし、原発が無かったら、助かっていた人もいたはずだ。福島原発事故で、放射能被害を怖れて、捜索や立入が禁止・断念され、遺体収容が遅れた。その後の捜索で、収容した遺体の調査をすると、津波による死亡と異なり、餓死や衰弱死が死亡の原因と判断された例があることを伝えている。

先日聞いた講演で、気仙沼市の観音寺住職は、地震・津波の時は「てんでんこ」が、被災を避けるのに重要だと話された。「てんでんこ」とは、各々自分自身でという意味。一度、自分自身は逃げることができても、親のことを思い、親の救出に向かって、被災した人が多いと話した。親よりも若い人が多数被災していると聞いて、改めて絆とは何かと思う。親子、親族という絆ほど強いものはないだろう。災害の時は、逃げるのは「てんでんこ」にして、家族が集まる場所を決めておいて、そこで再会して下さいと話す。お互いに探し合う事で、二次災害の心配もある。

NY TIMESの記事はかなり詳細に、3.11三大災害発生後の一年を伝えていると思う。放射性物質の飛散状況を当局が直ちに公表しなかったため、放射能が高い方に向かって避難した例も述べられている。また、以下の記事は、放射能が具体的にどの程度の強度かが分かっていれば、救援隊が救援に向かい、被災者は助かっていたかも知れないことを伝えている。

「Last week, the police in the Futaba-gun region of Fukushima, which includes the damaged Fukushima Daiichi Nuclear Power Station and the town of Namie, confirmed that a handful of tsunami survivors trapped in the rubble probably starved to death as rescuers fled the scene for fear of radiation. 先週、破損した福島第一原子力発電所と安室奈美恵の町が含まれています福島の双葉郡地域の警察は、救助者が使用するシーンを逃れたとして、瓦礫に閉じ込められた津波の生存者の一握りのは、おそらく餓死していることが確認放射線への恐怖。(先週、破損した福島第一原子力発電所と浪江町を含む福島県の双葉郡地域を管轄する警察は、瓦礫に閉じ込められた津波の生存者中には、救援隊が放射能の恐怖から現場を退散したので、取り残された何人かが、多分餓死したと思われる事を確認した。)」

多分、この著名なNY TIMESの記事は英語なので、世界中多数の読者がいると思う。3.11の三大災害を機会に、世界は日本に注目している。日本は世界に向けても情報発信をしてゆく責任があるのではないか。政府は3.11の三大災害対応の会議議事録の作成をしていなかったと報道されている。しかし、日本の官僚は魂を悪魔に売る程堕落はしていないと信じたい。何年か後に、その議事録の存在が明らかになれば、まさに巨大な官製隠蔽談合があった事になる。日本の3.11の三大災害対応の議事録は、世界の災害対策のバイブルにもなるのである。しっかりせよ、日本のジャーナリスト。これからが正念場ではないか。

以下は参照したNY TIMES記事とそのGoogle翻訳。機械翻訳の実力・現状を知るためにも参考になる。
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Effects of Japan’s Disaster Are Still Unfolding(Google翻訳:日本の災害の影響がまだアンフォールディングしています)
By HIROKO TABUCHI
Published: March 11, 2012
http://www.nytimes.com/2012/03/12/world/asia/a-year-later-effects-of-japans-disaster-are-still-unfolding.html

NIHONMATSU, Japan ― Nobody knows whether Hiroshi Yokoyama’s elderly parents tried to outrun the tsunami waves that engulfed their home in Namie on the Fukushima coast a year ago. But Mr. Yokoyama does know that he would have searched for them high and low, if not for a second disaster that unfolded at the nuclear power plant just a few miles away, forcing him to abandon his search.

Google翻訳(以下同様):「二本松市、日本 - 誰も横山宏の高齢者の両親が年前に福島県の海岸に安室奈美恵に彼らの家を巻き込んだ津波の波を逃れることを試みたかどうか知りません。しかし、横山氏は、彼が彼の捜索を断念することを強制、ハイとロー、そうでない場合、わずか数マイル離れた所原子力発電所で繰り広げられる二次災害のためにそれらで検索しましたことを知っています。」

As grieving families across the nation gathered Sunday to mark the one-year anniversary of Japan’s 3/11 disasters ― an earthquake and tsunami that ravaged the northeastern coast, killed almost 20,000 people and caused a huge nuclear radiation leak ― some communities are still coming to terms with the calamity’s scale, complexity and lasting effects, and painful new revelations have shed light on how some of the victims died.

北東部の沿岸を荒らし、ほぼ20,000人が死亡し、巨大な核の放射能漏れを引き起こした地震と津波 - - 全国家族を悲嘆としての日本の3月11日の災害の1周年をマークするために日曜日に集まっいくつかのコミュニティは、まだに来ている災害の規模、複雑さと持続的な効果、痛みを伴う新たな啓示との用語は、犠牲者の何人かが死亡した方法に光を当てるしています。

Last week, the police in the Futaba-gun region of Fukushima, which includes the damaged Fukushima Daiichi Nuclear Power Station and the town of Namie, confirmed that a handful of tsunami survivors trapped in the rubble probably starved to death as rescuers fled the scene for fear of radiation.

先週、破損した福島第一原子力発電所と安室奈美恵の町が含まれています福島の双葉郡地域の警察は、救助者が使用するシーンを逃れたとして、瓦礫に閉じ込められた津波の生存者の一握りのは、おそらく餓死していることが確認放射線への恐怖。(先週、破損した福島第一原子力発電所と浪江町を含む福島県の双葉郡地域の警察は、瓦礫に閉じ込められた津波の生存者中には、放射能の恐怖から救援隊が退散したので、取り残された何人かが多分餓死したと思われる事を確認した。)

A month passed before rescuers started to  venture back into the 12-mile-radius exclusion zone set up around the nuclear plant; the bodies of Mr. Yokoyama’s parents were not discovered until the summer.

救助者が原子力発電所の周囲に設置されている12マイルの半径の除外ゾーンに戻って冒険を開始する前に、月が渡され、横山氏の両親の遺体は夏まで発見されていませんでした。

“If only there was no nuclear power station, lives could have been saved,” Mr. Yokoyama said. He thinks, and hopes, that his parents were quickly overpowered by the waves, and avoided the drawn-out deaths that some around them may have suffered.

"は原子力発電所がなかっただけの場合、命が救われたかもしれない"と横山氏は述べています。彼が考え、希望、彼の両親がすぐに波に圧倒され、彼らの周りの一部が苦しんでいるかもしれない長引く死亡を回避したこと。

A year later, Mr. Yokoyama, his wife, and two young children are still unable to return to their home on the shore. They observed the anniversary in Nihonmatsu, a city about 35 miles away, where a group of Namie townspeople now live.

一年後、横山氏、彼の妻、そして2人の幼い子供は、まだ岸に自宅に戻ってすることはできません。彼らは安室奈美恵の町民のグループが今住んでいる二本松市、離れて35マイル約市で記念日を観察した

“If only there was no nuclear power station, we could all go home,” Mr. Yokoyama said.

"は原子力発電所がなかっただけならば、我々はすべての家に帰る可能性がある"と横山氏は述べています。

Across the country on Sunday, there were hundreds of memorial services like the one in Nihonmatsu. Prime Minister Yoshihiko Noda, in a nationally televised address, pledged to work for a faster recovery.

日曜日に全国で、追悼式の何百もの二本松市のものと同様であった。内閣総理大臣野田佳彦は、全国的にテレビ演説で、迅速な復旧のために働くことを誓った。

“We shall not let our memory of the disasters fade, pay attention to disaster prevention and continue our effort to make this land an even safer place to live,” he said.

"我々は、災害フェードの私たちのメモリは、防災に注意を払うと、この土地に生きるにも安全な場所にする努力を継続させることができない"と彼は言った。

Japan’s reconstruction has accomplished much in the past year. Virtually 100 percent of the tsunami zone’s roads have been fixed, and landscapes once strewn with debris now are lined with tidy plots and a growing number of restored buildings. Severed supply chains have been re-established, and many of the region’s devastated fishing ports are back in service.

日本の復興はこの一年間で多くを達成した。実質的に津波ゾーンの道路の100%が固定されている、一度破片が散らばって風景は今きちんとプロットと復元建物の増加が並んでいます。切断されたサプライチェーンを再確立し、地域の荒廃した漁港の多くは、バックサービスであるされています。

But the still-evolving story of the towns like Namie is a painful reminder that the three-pronged onslaught of earth, sea and radiation that hammered the country a year ago was no ordinary disaster.

しかし、安室奈美恵のような町の、まだ進化の物語は地球の3方面からの猛攻撃は、年前に国を打ち出し、海や放射線は普通の災害なかったという痛い思い出させてくれます。

The tsunami waves that crashed into Namie not long after the 9.0 offshore earthquake at 2:46 p.m. that day swept entire houses out to sea, witnesses said.

ない長い一日が海に出て全体の家を掃除したことが14:46で9.0沖地震後の安室奈美恵に墜落した津波は、目撃者は述べています。

By nightfall, rescuers reached some of the worst damage in the town’s Ukedo District. In the pitch blackness ― the town’s power supply had been knocked out ― they heard taps and voices, possibly survivors under the mangled debris.

日暮れによって、救助者は、町のUkedo地区の最悪の被害の一部に達した。ピッチ暗闇で - 町の電源がノックアウトされていた - 彼らはマングルされた残骸の下でタップ、おそらく声、生存者を聞いた。

But as darkness enveloped them, the rescuers decided to suspend their search until dawn.

しかし、闇に包まれ、それらのように、救助者は夜明けまで、検索を中断することを決めた。

“We told them we would be back,” Kimihisa Takano, a neighborhood firefighter. “But we never did.”

"我々は戻ってであろう彼らに言われた。"公久高野、近所の消防士。 "しかし、我々は行ったことはありません。"

Mr. Takano instead found himself helping evacuate the town, after reports of a radiation leak from the nearby nuclear plant. But the town owned only a handful of microbuses and other vehicles to get residents out. As news spread of the unfolding nuclear crisis, commercial bus companies refused to travel to Namie, slowing the evacuation.

高野ではなく、近くに原子力発電所からの放射能漏れの報告の後、自身が町を避難させる助けた。しかし、町にはマイクロバスや住民を得るために他の車両のほんの一握りを所有していた。ニュースは展開の核危機の広がりとして、商用のバス会社が避難を遅らせ、安室奈美恵に行くことを拒否した。

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With no guidance from Tokyo Electric Power Company, the nuclear plant’s owner, or the central government, town officials led evacuees north, believing winds were blowing the radiation south. They would later learn they had fled right into the path of the radiation plume, despite the existence of government simulations that could have pointed them to safety instead.

東京電力、原子力発電所の所有者、あるいは中央政府からの指導のもと、町職員が信じている風が放射線の南を吹いていた、北避難を導いた。彼らは後に、彼らが代わりに安全にそれらを指摘していることが政府のシミュレーションが存在するにもかかわらず、放射線プルームのパスを右に逃げた学びました。

All the while, residents pushed for rescuers to return to Namie to resume their search for missing loved ones. “They were telling us, ‘What are the police for?’ ” said Takashi Sato, a police officer for the Futaba-gun region and a native of Namie, who fielded some of those calls. “But there was no way we could have carried out full-blown searches with radiation so high and the plant so volatile.”

その間、住民は行方不明の愛する人のために検索を再開するには、安室奈美恵に戻るには、救助のためにプッシュされます。 "彼らは'のために警察は何ですか?"、私達に言った "佐藤隆、双葉郡地域の警察官と、それらの呼び出しのいくつかを擁立安室のネイティブは言った。 "しかし、我々は非常に高い放射線など揮発性の植物で本格的な検索を行ったかもしれない方法はありませんでした。"

When Mr. Sato and his colleagues finally entered the 12-mile exclusion zone for a search mission in April, there were no survivors. Four bodies were discovered at a still-intact hospital in Okuma, next to Namie; an elderly man was found dead on the undamaged second floor of his house, according to Mr. Sato.

佐藤氏と彼の同僚は、最終的に4月の検索ミッションのために12マイルの排他ゾーンに入ったとき、生存者はありませんでした。四体は、安室奈美恵の隣に、大隈にまだ無傷の病院で発見された、老人は、佐藤氏によると、彼の家の無傷の二階で死んで発見されました。

They are all presumed to have died of causes other than the tsunami, probably starvation, Mr. Sato said.

彼らはすべての津波は、おそらく飢餓以外の原因で死亡したものと推定され、佐藤氏は述べています。

There are signs that victims in other towns and cities around the Daiichi plant, 160 miles north of Tokyo, suffered a similar fate. Ryuzaburo Shineha, a doctor based in Minamisoma who helped examine bodies pulled from the tsunami wreckage there, deemed that five out of 34 bodies he handled had died from debilitation.

第一工場、東京の160マイル北、周りに他の町や都市で被害者が同じような運命に見舞われている兆候があります。三郎Shineha、そこに津波の残骸から引き出された遺体を調べました南相馬市に本拠を置く医師は、彼が扱わ34体のうち5人は衰弱で死亡したものとみなす。

“Their bodies were unnaturally thin, suggesting that they likely had nothing to eat or drink for a long time,” Dr. Shineha said. “We concluded that they survived for some time after the tsunami, but became debilitated.

"彼らの遺体は、彼らがそう食べるか、または長い時間何も飲まなかったことを示唆し、不自然に薄いた"と博士はShinehaは言った。 "我々は、彼らが津波後しばらくの間生き延びたことが、衰弱した。

“Radiation doesn’t kill you straight away, but these people were literally dying. The authorities should have gone in to rescue them.”

"放射線はすぐにあなたを殺しませんが、これらの人々は文字通り死んでいった。当局は彼らを救うために行っているべきです。 "

In all, 1,605 people have been confirmed dead in Fukushima, and 214 remain missing and are presumed dead.

すべてでは、1605人が福島県で死亡が確認され、214は行方不明のままで死んだと推定されてきた。

Even as the area’s evacuees awaited news of their relatives, towns and cities there splintered. The 20,000 former residents of Namie are now scattered across 620 towns and cities in Japan, according to town officials. Five other jurisdictions around the Fukusima Daiichi plant remain evacuated.

地域の避難者がが分裂し、親戚、町や都市のニュースを待っていたとしても。安室奈美恵の20,000元の住民は、現在の町の当局者によれば、620の町や日本の都市に散らばっています。福島第一発電所周辺の5つの他の管轄区域では避難のままです。

The government has acknowledged that some areas near the plant may be uninhabitable for decades.

政府が工場の近くにいくつかの地域は何十年も住めないかもしれないことを認識しています。

More recently, some residents have been allowed on several visits to their tsunami-ravaged homes. When Kazuhiro Shiba, 48, returned to his home in Namie in June, he found a ship blocking his front door.

最近では、一部の住民は、その津波で荒廃した家庭には、いくつかの訪問で許可されています。和弘芝、48年6月に安室の自宅に戻ったとき、彼はフロントドアをブロックして船を発見しました。

Mr. Shiba has no illusions about ever moving back. “We’re just lucky to be alive,” he said.

氏芝はこれまで戻っての移動に関する幻想を持っていません。 "我々は生きているだけでも幸運"と彼は言った。

At the Namie memorial service in Nihonmatsu, bereaved families lined up to lay white chrysanthemums at an elaborate altar. Two Buddhist priests chanted funeral rites.

二本松市の安室奈美恵の追悼式で、遺族は、精巧な祭壇に白い菊を築くために並んでいた。二つの仏教の僧侶は、葬儀を唱えた。

“Our search for survivors was delayed by a full month,” said Eiko Yoshida, a Namie native and a member of Fukushima’s prefectural assembly. “When I think of the suffering endured by the victims and their families, I am overcome by a heartbreaking grief.

"生存のために我々の検索は、完全な月の遅れで表示されました"と英子吉田奈美恵ネイティブと福島の県議会のメンバーは述べています。 "私は被害者やその家族が耐え苦しみを考えるとき、私は悲痛な悲しみによって克服しています。

“We experienced three disasters all at once. Never has this happened in the world.”

"我々は、一度に3災害を経験しました。これは世界で起こったことがない。"

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追記(2014/3/13):
『東北の海よ:ニューヨークタイムズが伝えた3.11東北三大災害』が当サイトのランキングに入ったのでメモしておく。この記事が読まれたのは、先日、「東北三大災害」災害発生以来3年目を迎えて、検索エンジン経由でこの記事を探したものと推測する。その日は、外出して他市の見知らぬ通りを歩いていた。東北地方太平洋沖地震が発生した時刻が近づくにつれ、黙祷のサイレンが聞こえてくるかもしれないと思った。その前に、屋外スピーカーから、「一分間の黙祷」をお願いしますという声が聞こえた来てきた。丁度、川の辺で、風も強く、スピーカの音は雑音に埋もれながら、山びこのように聞響きわたった。それをICレコーダーで録音。更に駅に向かって歩くと、何やら消防署らしい建物があった。消防車もあり、屋上には無線アンテナが立っていた。そこでICレコーダーを突き出して黙祷の時刻をまった。偶然にも、消防署の前に来ていたのだった。道路を挟んで対岸にいたので時々自動車が通っていた。フリーの音声処理ソフトで二本のファイルを加工して、最後的に一本に連結した。ICレコーダーで録音しながら黙祷した。

音の風景:
http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/0a1_SOUNDS_FUUKEI.html

(3)東日本大震災、東北三大災害犠牲者追悼の黙祷2014年
SOB_GISEISYA_MOKUTOU_2014311_SIBUKAWA_2M41S.mp3をダウンロード
ファイルサイズ:1.84 MB (1,933,312 バイト)
時間:約2分41秒。
採録:2014年3月11日(東北地方太平洋沖地震発生時刻)。
場所:群馬県渋川市消防署前(前半:黙祷を呼びかける放送+後半:消防職員の黙祷)

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2012年3月 7日 (水)

東北の海よ:道中で出合った芭蕉句碑、句碑が叫ぶ先人達のメッセージ

2012/3/7(水)
昨日は晴れ。好天で気温も上がった。3/6は二十四節気の啓蟄で、虫が這いだして活動を始める日とされる。人間の方も何となく浮き浮きしてくる。老人モードで外出したので、帰りは一人弥次喜多道中。自分が弥次さんなら、喜多さんという連れ合いは自分の影というところだろうか。温泉街から下の駅までぶらりと歩いた。バスが通る道路なので、歩けなくなったらいつでもバスに乗れるという安心感が何よりも一人道中の支えになった。

2012/3/6(火)の天気

TAVE= 10.7
TMAX= 17.9 最高気温(℃)   18.2  14:48
TMIN= 4.4 最低気温(℃)   4.0  03:42
DIFF= 13.5
WMAX= 3.5 最大瞬間風速(m/s)   6.3(東南東)  15:57
SUNS= 6.8
RAIN= 0.5

Q
Q

東北の海よ:道中で出合った芭蕉句碑、句碑が叫ぶ先人達のメッセージ

一昨日は、縁あって、「大震災のもたらしたもの 気仙沼からの報告」という、気仙沼市の観音寺住職の講演を聞かせて頂いた。あの大震災、大津波からやがて一年になり、現地で大震災への対応をされてきた僧侶による、大きな被害を受けた気仙沼からの報告は、マスコミを通じて知る事のできない切実さを感じた。そうして、震災直後と現在では支援活動のニーズも変わってきていると話された。希望と未来が描ける心の支援が今一番必要なのですと話された。

そんな、講演の事など思い出しながら、一人で県道を下った所で、「八九間 空で雨ふる 柳かな」という芭蕉の句碑に出合った。既にこの句碑に関しては、WEB上に情報がある(url=http://homepage1.nifty.com/tsoutaro/basyou/07.htm)。この記事によると、荻原井泉水の碑の再建記が碑の別面に彫られているようだ。元の碑は文化十四年(一八一七)の建立。その別面に新しい句碑が彫られているようで珍しい碑であった。そうして、句碑の中から、荻原井泉水は「其の石は存して其句亡ぶといふ理あらんや」と問いかけている。石碑は残ってもその句の精神が亡んでしまっては道理がないではないかという自省を込めているのだろう。

そんな、俳人の気持を汲んで、この句を味わってみると、「八九間」に視点がありそうだ。季節は柳が芽を吹く春。無窮の大空から雨が降っても何の風情もない。柳の若芽の薄い緑を目で辿ると柳の木の先端あたりの空から雨が降ってきたように見えるところを描写しているのだろう。大自然の摂理とともに、小さな人間の営為を捉えよと諭しているが如くである。

芭蕉が奥の細道への旅に出たとき、同行したのが、河合 曾良(かわい そら 慶安2年(1649年) - 宝永7年5月22日(1710年6月18日):WIKIPEDIA)との事だ。観音寺住職は講演で、震災の伝承も、親から子へという風に、次代の親しい者へ、口伝えのようにして伝える事の大切さを語っていた。碑は「いしぶみ」とも読まれる。まさに、建碑当時の人々が、後世のために石に書き残してくれたメッセージなのだが、そこから何を読みとるべきかは、後世の人々のありかたが決めるのだろう。また、芭蕉が奥の細道への旅に出かけられたのも、同行者という、バックアップ(支援)があったから可能になったのかも知れない。やはり、万が一の時、支援が受けられるというほど心強いことはないのではないか。駅に着いてようやく長靴の重さから解放された。

2012年3月 3日 (土)

東北の海よ:仙台仕込みの高崎の牛タン店でリッチな一時

2012/3/3(土)
昨日は雨。気温は上がらず終日寒い一日。宅内で過ごした。当地の屋台の彫り物を作ったという伝承が残る弥勒寺音次郎父子についてWEBで調査。群馬県文書館の「インターネット古文書講座」で「佐位郡渕名村の宮大工弥勒寺音次郎あて免許状」という古文書を解読していたのにであった(http://www.archives.pref.gunma.jp/inter-koza-1804kara/inter-koza-1804-2.htm)。
以下はその解読文。
Mirokuji_otojirou_menkyo_interkoza1
この文書によれば、弥勒寺音次郎が宮大工として免許皆伝となったのが天保14年3月である。宮大工になるのも実力を認められ、然るべき儀式を行い神祇官から免許状をもらう必要があったようだ。今から169年前である。我が家の祖先もその屋台の造営に関わったと聞いているので、ひょっとすると弥勒寺音次郎・音八と会ったことがあるのかも知れないと思うと郷土の歴史に興味を覚える。

2012/3/2(金)の天気

TAVE= 4.8
TMAX= 6.1 最高気温(℃)  13.5  14:32
TMIN= 3.3 最低気温(℃) 1.4  03:55
DIFF= 2.8
WMAX= 2.4 最大瞬間風速(m/s)  4.9(東南東)  13:29
SUNS= 0
RAIN= 10.5
Q
Q

東北の海よ:仙台仕込みの高崎の牛タン店でリッチな一時

先月、用事で高崎駅口にオープンしている某家電量販店に出かけた。初めての訪問だったのでそのデカサに驚いた。時間にユトリがあったので、先ず店内ウォッチング。1~4階までが電気、5階がレストラン、更に地下一階があり、食品から貴金属まで並んでいた。現代の竜宮城で、ここに来れば一日快適に過ごす事ができそうだ。余り羽を伸ばすと浦島太郎の玉手箱から何が出てくるか分からない。このような引力に逆らい、一緒に来たかみさんと外で昼飯を食べることにした。ところが、駅前をふらついても、食事をできそうな店がみつからない。ようやく、緑提灯が下がった店を見つけたが、戸締まりしていた。緑提灯については、高校時代の同級生が上毛新聞に記事を出していたので、いつか訪問してみたいと思っていた。その記事が以下のWEBで読めた;視点 オピニオン21
「緑提灯 食料自給率を上げよう(2010.10.20)丸山 清明。(http://raijin.com/news/kikaku/opinion2010/opinion20101020.html)」。

更に探すと、そばやらしい店があった。他も探して品定めをしようと、第三の店を探したがみつからない。何とかカメラという駅前店近くまで来たので、店内を覗いた。所狭しという印象でそれなりの活気を感じた。仕方なく、戻って先の開店していた店に入った。一階が牛タンで二階が蕎麦とのこと。かみさんは牛タン、自分は蕎麦がいいなというと、牛タンは二階までお持ちしますとの事。二階は和室であった。店の名は「仙台伝承の味 梅の花」とテーブルのお品書きにあった。蕎麦は東北流か、汁に大根を使う。蕎麦は何と食べ放題だったので、3杯頂いた。牛タンも食べたいのでかみさんの皿に越境。聞くところによると、牛タンは仙台仕込みとの事。開店一年程度。その後半年ほど後から二階で蕎麦も始めたとの事。蕎麦も東北をイメージしているようだ。東北と言えば椀子蕎麦を思い出す。

半導体代理店から出張のお声が掛かり、東北地方の顧客を廻った。その会社のHPで沿革を見ると北陸営業所開設S.56年。当時、北陸地方の拡販にも呼ばれた。その担当者が東北担当になったのが、本場の椀子蕎麦を体験できた理由かもしれない。従って東北訪問はS56年以降だろう。ともかく、当時東北地方の電子産業は、関東関西から見ればまだまだ発展途上であった。しかし、社名はうろ覚えだが、アルプスモトローラとかいう半導体工場があり、その工場も訪問した。半導体の生産拠点には豊富な水が確保できる場所が選ばれる。今から思うと、一回限りのHAPPY CALLではあったが懐かしい思い出だ。その仕事が済んで、椀子蕎麦を頂いた。広辞苑によると椀子蕎麦は客をもてなす岩手県郷土料理との事だ。腹一杯、次から次と満腹になるまで蕎麦を食べさせると言う風習は、それが最高のもてなしである事を教えてくれた。極度の空腹を体験しなければその本当の意味が分からないだろう。

帰り際、一階の牛タン店を覗くと、独りの女性が椅子に掛けて本を読んでいた。遠目で見たので、何となく淑やかな美人に見えてしまった。蕎麦も東北に関係がありますかと聞くと、店員は食べ放題という背景には椀子蕎麦があるとの事だ。しかし、今時、椀子蕎麦を標榜しては持たないですよと笑った。そういう意味で、食べ放題も最高のもてなしと解釈したい。値段的にはリーズナブルでリッチな一時を過ごさせてもらった。それにしても駅周辺が、巨大店の一極集中で、生活の香りが少なく寂れてしまったような街にならないで貰いたい。自由な空間のみに、本当の人と人のコミュニケーションが生まれるのではないか。東北もこの店も元気になって貰いたい。この記事も東北関東大震災の事を思いつつ、東北地方の記憶を甦らせて書いている。後一週間ほどであの大災害から一年になる。

2012年1月11日 (水)

東北の海よ:3・11東北地方同時発生三大災害より10ヶ月

2012/1/11
昨日は晴れ。恒例の行事は欠席して用事外出。出かけたついでに建物高階で両毛三山や浅間山、男体山等の山々を見た。空が晴れ、空気が澄んでいるので素晴らしい見晴らしだった。デジカメでその風景を写したが、カメラアングルはほぼ水平かやや上向きだったと思い出している。ついつい、カメラのファインダーからあの風景を覗いていたのだが、自分の眼にしっかり焼き付けておいた方がよかったのではなかったのかと思った。風景が心の中にスーット入って来て、ふと思い出すのは、カメラという借り物の眼を通してではなさそうだ。しかし、遠方の山々と自分の眼の位置を重ねて見た風景はそれなりに懐かしい思いがする。数年前そこに呆然として佇んだ事があった。点滴を下げた青年が言った。生きて帰れればいいんだ。だれをもやさしくつつんでくれる故郷の懐かしい風景の有り難さを感じた。

2012/1/10の天気

TAVE= 4.9
TMAX= 10.4 最高気温(℃)  11.1  13:52
TMIN= 0.6 最低気温(℃)  -0.4  06:26
DIFF= 9.8
WMAX= 4.2 最大瞬間風速(m/s)
SUNS= 7.1
RAIN= 0

東北の海よ:3・11東北地方同時発生三大災害より10ヶ月

2011年3月11日に東北地方太平洋沖地震と津波、それに起因する東京電力福島原発事故と三つの過酷な災害が起きてから10ヶ月になる。2011年3月11日以来、人生や生活が一変してしまった人が多いだろう。その衝撃は日本だけでなく世界にも及んだ。自分の生活パターンにも影響が出ている。そうして自分なりに、このような歴史を見つめて行きたいと思った。しかし、復旧・復興というかけ声と共に自分の意識も変化を始めているようにも感じる。そうして、2012年の新年を迎えて改めて自分の記憶を振り返っている。その記憶のポケットとして「東北の海よ」というカテゴリーを作った。自分の東北地方のイメージとして海が漠然と浮かんできた。そうして、東京電力福島原発事故を通して、原子力発電所が原子炉の冷却水を取り入れ、冷却した温排水を流すために、海に面して立地している事を知った。大学時代までは電気工学とい強電の世界を主に学んだが、卒研はエサキダイオードの応用に関するもので、就職後はエアコン・冷蔵庫等モーターがらみの仕事になるのかと思ったが、半導体部門に配属され、数mAという弱電の世界で仕事をしてきた。残念ながら技術者としては強電(電力)の世界を冷静にみる事が出来なかった。復旧・復興も金を投入してかけ声を掛けただけでは進まない。やはり、その地域にしっかり根をおろした根元的な何かが不可欠だ。その根元的な何かを探求してきたのが哲学者の梅原猛氏だったのかも知れない。東北の海よ:哲学者・梅原猛さんの思い;http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2011/04/post-6834.htmlに関連記事を書いた。「海」は生命の起源でもあり、母なる胎内でもある。そうして、海に出れば世界はつながっているのだ。あの過酷な3・11東北地方同時発生三大災害も海につながるのだが、海が東北地方復旧・復興のキーワードとして常に思い出されることを願いたい。

平成24年1月10日付けの警察庁緊急災害警備本部の発表「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震の被害状況と警察措置;http://www.npa.go.jp/archive/keibi/biki/higaijokyo.pdf」によれば、人的被害では、死者=15844人、行方不明=3450人、負傷者=5891人、建物被害では、全壊=127212戸、半壊=232458戸、全半焼=281戸、床上浸水=12918戸、床下浸水=13964戸となっている。

地震、津波関係ではこのように、被害状況が数字で把握できるが、この地震、津波と同時に起きた東京電力福島原発事故に関しては、被害状況を数値的に把握できるデータがどこにあるのか分からない。自分なりに「3・11東北地方同時発生三大災害」と名付けたが、それは地震、津波、原発の災害・災過を一体的に把握する必要が必要であると痛感しているためである。原子力災害対策特別措置法;http://www.bousai.go.jp/jishin/law/002-1.htmlはあるが、東京電力福島原発事故は災害としてではなく、交通事故と同じような事故と矮小化して捉えられているような印象を受けている。原子力損害賠償法;http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S36/S36HO147.htmlという法律があるが、驚くべき事にこの法律の中で、「事故」という語を検索しても見つからなかった。事故はなくとも損害だけはありうるというのだろうか。立法者の貧困なる精神を疑わざるを得ない。

事故に相当する英語はACCIDENT。WIKIPEDIAでは福島第一原子力発電所事故を「Fukushima Daiichi nuclear disaster」と表現している。

http://dictionary.reference.com/browse/disasterによると「dis?as?ter
   [dih-zas-ter, -zah-ster] Show IPA
noun
1. a calamitous event, especially one occurring suddenly and causing great loss of life, damage, or hardship, as a flood, airplane crash, or business failure. 」と出る。

http://dictionary.reference.com/browse/ACCIDENTによると「ac?ci?dent
   [ak-si-duhnt] Show IPA
noun
1. an undesirable or unfortunate happening that occurs unintentionally and usually results in harm, injury, damage, or loss; casualty; mishap: automobile accidents.
2. Law . such a happening resulting in injury that is in no way the fault of the injured person for which compensation or indemnity is legally sought.
3. any event that happens unexpectedly, without a deliberate plan or cause. 」と出る。

英語ではdisasterとACCIDENTを使い分けているのが分かる。その視点は事態の大きさ・規模のようだ。日本語の場合、「日本航空123便墜落事故(WIKIPEDIA):運輸省航空事故調査委員会による事故調査報告書[1]によると、乗員乗客524名のうち死亡者数は520名、生存者(負傷者)は4名であった。死者数は日本国内で発生した航空機事故では2012年1月の時点で最多であり、単独機の航空事故でも世界最多である[※ 2][※ 3]。」とある。

福島第一原子力発電所事故発生から10ヶ月を迎えて、これを単なる事故と捉えるべきか未だに違和感がある。事故の範囲の広さ、事故に巻き込まれた人数の多さ、与えた被害・損害の大きさ、そのどれをとっても単なる事故と大きく性格が異なるのは確かだ。これを単に福島原発事故と言ってしまうと事態を矮小化してしまうように感じるのだ。福島原発事故の被害者から見れば災過としか言いようがないのではないか。しかし、その衝撃は今も多数の人々の生活に及んでいる。地震、津波、原発も家財や生命に及ぶ経済的・精神的危機の原因になっている事は共通している。その危機を避けるための家屋・防潮堤・格納容器等の構造物の強度設計やマージの取り方も考え方としては共通している。物事も共通・一体的に捉えることにより、より広い視点に立ち、事態の解決も総合的に対応できるようになるのではないか。あらゆる方面に波及している専門化・縦割りの弊害を3・11東北地方同時発生三大災害は警告してくれているのではないか。

東北地方太平洋沖地震に起因する災害は、最初は東北関東大震災と呼ばれたが、政府が東日本大震災と命名した事により、東日本大震災という語が多く使われるようになった。2012/1/9時点でのGoogleキーワード検索ヒット数は、東日本大震災:約 197,000,000 件。東北関東大震災:約 17,200,000 件。かなり接近している。一つの単語としたときのヒット数(”KW”で検索)は、”東日本大震災”:約 140,000,000 件。”東北関東大震災”:約 77,100,000 件。

被害としては、東北地方が圧倒的に大きいのだから、その実態と歴史的意義を含めて東北関東大震災と呼んだ方が良いと思う。そのためには東北関東大震災を使い続ければよいのだ。歴史を作ることの前提には歴史を忘れてはならない。官製の”東日本大震災”が1億4000万ヒット数に対して、東北関東大震災はその半分以上のヒット数を維持している事に注目したい。

この3・11東北地方同時発生三大災害より10ヶ月、「ことば」に関しても色々考えさせられた。人間、言葉という刺激で物事を思い出すことしかできない哀れな機械にすきないようにも思われた。言葉はデジタルなのだ。一つの言葉を選ぶことにより、それ以外の言葉を捨てなければ言語表現は出来ない。従って、言葉と言葉の中間を読みとらなければその言葉の意味さえ掴めない。「直ちに健康に影響を及ぼすものではない」というような言葉を何回聞かされた事か。しかし、ふと漏らされた言葉のなかににきらりと輝くことばもある。そのような言葉に耳を傾けたい。

2011年12月 8日 (木)

東北の海よ:東北地方太平洋沖地震発生から9ヶ月:厳しい冬がやってくる

2011/12/8
昨日は晴れ。朝方は定例の仕事。咳、鼻水がでて風邪の症状。天気の不順に身体が追従しなかったようだ。12/1~7までの気温のグラフを作成。過去1週間の前半は寒く、中程暖かくなり、後半は寒暖が繰り返し。

2011/12/7の天気

TAVE= 6.0
TMAX= 11.7
TMIN= 0.7
DIFF= 11
WMAX= 2.2
SUNS= 7.3
RAIN= 0

最低気温(℃)  0.6  06:05
最高気温(℃)  12.0  14:49

Ta111201_to_07

東北の海よ:東北地方太平洋沖地震発生から9ヶ月:厳しい冬がやってくる

東北地方太平洋沖地震発生からもうじき9ヶ月となる。たまたま、Google検索で標記のキーワードのヒット件数を調べてきた。思い付くままのキーワードだが、その推移をまとめてみた。WEB情報は質・量とも捉えがたい。それでも、人々の関心がどこへ向かっているのか関心がある。ともかく、災害・事故発生から9ヶ月が経て、人々の関心は目先の物資やインフラ以外に向かい始めているようだ。被災者、放射能とかいうキーワードは直ぐには減少する気配はない。今後も増加を続ける可能性もある。ふいに人間の上に降りかかってきた災難だが、その影響はあらゆる面にじわりじわりと広がり、収束する先が見えない。今後とも注目し続けるべき事かもしれない。東京電力の福島原発事故の損害賠償の受付や給付が始まっているが、支払われたのはまだ一部のようだ。ふと思うのだが、一度でも、損害賠償を貰ってしまうと、その後さらに大きな損害が発生しても、打ち切り補償だと言われて、その後の補償が困難にならないかといういう事。福島原発事故の影響がいつまで続くのか分からないだけ不安はいつまでたっても解消しない。東北地方はこれから厳しい冬を迎えるが、心配だ。自然災害ならば復旧・復興という努力の甲斐があるが、原発事故はいつまでたっても先の見えない不安がつきまとう。福島県が脱原発の方針を決定した意義は大きい。 
Googleによる「東日本大震災」の検索=約 197,000,000 件 (0.11 秒)。(2011/12/8)
Googleによる「東北関東大震災」の検索=約 17,600,000 件 (0.27 秒)。
人間、物事を想起するとき言葉の果たす役割が大きい。
将来、「東日本大震災」と言う時、東北地方が忘れ去られてしまっては、その災害の教訓も生きない。
Google検索では東日本大震災と東北関東大震災の比は11倍。
東北関東大震災という言葉の復活が東北の復活なるのではないか。
        
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2011年11月 8日 (火)

東北の海よ:ダライ・ラマさんありがとう

2011/11/8
昨日は晴れ。11月としては暖かい天気だ。チューリップの球根を植えた。品種はオックスフォードとラベルにあった。色は赤。タマリュウと混植した。これは植え場に足を踏み入れないようにするためでもある。球根ならば何年も持つだろうという省電力化が頭にある。球根サイズも管理しないと年々
小さくなってしまうかもしれない。高校の歴史だったか、先生がイギリスの名門校がオックスフォードとケンブリッジ。ケンブリッジは剣橋と書くと教えてくれたがオックスフォードは忘れている。調べてみると牛津(オックスフォード)剣橋(ケンブリッジ)らしい。オックス:牛;フォード:津では漢字の意味を当てたようだが、ケンブリッジは音+意味のようだ。ニラをもらった。さっそくおすそわけ。

2011/11/7の天気

TAVE= 17.7
TMAX= 22.8
TMIN= 14.6
DIFF= 8.2
WMAX= 5.9
SUNS= 5.5
RAIN= 1

東北の海よ:ダライ・ラマさんありがとう

ダライ・ラマについては断片的にしか知らない。しかし、チベットという遠い西域の国というイメージの中で関心があった。仏教が日本にもたらされたルートの中でもチベットは重要な位置を占めている。日本へは色々なルートで仏教が伝えれたと思うが、本当に仏教を学ぼうとした人達は海を渡ってそのルーツを追った。先日の講演会の講師のF先生も最澄や空海の姿を留学生として、自分の留学時代を語っていた。ダライ・ラマの著書は日本語訳があり、ツンドクしている。探検家の矢島保治郎は同郷の人であり、関心があったがほとんど知らない。最近母の友人と散歩中に会い、雑談した。矢島保治郎の話を聞いたら、なんと本人に会った事があるとの事だった。前橋で事業をしたこともあったとの事だ。風貌はあか抜けて芸術家のようであったとの事だ。最近、写真家 小松健一氏がチベット探検家の矢島保治郎関係の記事を上毛新聞に書いており、矢島保治郎生誕130年記念イベントの開催を呼びかけていたのが記憶に残っていた。そんなことが頭にある中で以下の記事を目にした。

河北新報は、「ダライ・ラマ、石巻で慰霊法要 「心の痛み分かち合う」;url=http://www.kahoku.co.jp/news/2011/11/20111106t15004.htm(2011年11月06日日曜日)」というタイトルで、「東日本大震災の復興を祈願するため東北入りしているチベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世(76)は5日、震災で大きな被害を受けた宮城県石巻市門脇町にある西光寺を訪れ、慰霊法要を行った。
 ダライ・ラマは本堂に入って礼拝し、般若心経を唱えた。出席者約1000人に「心の痛みを同じ人間として分かち合いたい」と語り掛けた。太平洋戦争末期の原爆投下による広島と長崎の惨状にも触れ「焼け野原から立ち直ったときと同じように、勤勉な国民性と協調性で力強く立ち上がってほしい」と励ました。」と報じた。

「ダライ・ラマ。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%9E。(最終更新 2011年9月7日 (水) 05:06 )」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に「ダライ・ラマ(Dalai Lama, ????????????,taa-la’i bla-ma)は、チベット仏教において最上位に位置する化身ラマの名跡。また17世紀(1642年)に発足したチベット政府の長として、チベットの元首としての地位も保有。チベット動乱の結果、1959年に発足した「チベット臨時政府(のちチベット亡命政府)」においても引き続き元首としての位置づけを受けている。」とある。

「ダライ・ラマ14世。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%9E14%E4%B8%96。(最終更新 2011年11月6日 (日) 04:41 )」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に「ダライ・ラマ14世(1935年7月6日(チベット暦5月6日) - 、在位1940年 - )は、第14代のダライ・ラマ[1]。インドのダラムシャーラーに拠点を置くチベット亡命政府ガンデンポタンの長である[2]。法名はテンジン・ギャツォ(チベット文字:??????????????????; ワイリー方式:Bstan-'dzin Rgya-mtsho)。 またチベット民族のあいだで尊敬されているチベット仏教を代表する最高指導者であり、宗派を超えて大きな影響力を持つ[3]。また、チベット仏教のゲルク派の最高位の仏教博士号(ゲシェ・ラランパ)を持つ僧侶でもある。チベット仏教の全宗派の伝統の教えを継承し研鑚を積んでおり、教え・実践両面のすべての領域における最高の権威者(チューキ・ギャルポ;法王)として広く認められている。また世俗的な称号としては、フランスパリ名誉市民、名誉博士(ニューヨーク州立大学バッファロー校)などがある。」とある。

「矢島保治郎。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E5%B3%B6%E4%BF%9D%E6%B2%BB%E9%83%8E。(最終更新 2010年7月4日 (日) 01:17)」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に「矢島 保治郎(やじま やすじろう、1882年(明治15年)8月23日 - 1963年(昭和38年)2月13日)は日本の探検家、軍人。四川省からのルートで初めてチベット入りした人物であり、ダライ・ラマ13世の厚遇を受けてチベットの軍事顧問に就任した。 文献によっては名前が「保次郎」となっているものもあるが、矢島が使っていた名刺や親族からの手紙などには「保治郎」が使われている。」とある。

「チベット自治区。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88%E8%87%AA%E6%B2%BB%E5%8C%BA。(最終更新 2011年10月26日 (水) 08:12)」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に「チベット自治区(チベットじちく、西蔵、チベット語: プー・ランキョン・ジョン[1], チベット文字:???????????????????; ワイリー方式:bod rang skyong ljongs)は、中華人民共和国(以下、「中国」)の西南部を占める区域自治区である。」とある。

ダライ・ラマ法王日本代表部ホームページ:url=http://www.tibethouse.jp/home.html

ダライ・ラマ14世はチベット仏教の最高指導者であるとともにチベットの元首でもある。しかし、中華人民共和国はチベットをチベット自治区として、独立を認めていない。日本国も中華人民共和国との関係でダライ・ラマ14世のチベットの元首としての入国を認めていないようだ。チベットもダライ・ラマ14世も大きな歴史の流れの中にある。ダライ・ラマ14世は、1989年にノーベル平和賞を受賞している。ダライ・ラマ14世は何度も日本を訪れている。日本が仏教国でダライ・ラマ14世に親近感を覚えるが、ダライ・ラマ14世の活動は世界的である。そんななか、矢島保治郎は当時は未知の国であったチベットへ向かい、ダライ・ラマ13世と親交があった。これも日本とチベットの関係で重要な歴史であったに違いない。河北新報の記事を読むとダライ・ラマ14世が、平和の実践者であることを改めて感じる。

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    刃物という視点で多くの事例が取り上げられている。刃のある道具の理解にも役立つ。類書が少なく貴重な一冊。「すべり変形が切断の原理」という考え方で説明している。
  • 沼田 真   : 植物たちの生( 1972年 岩波新書(青版 833))
    「ご要望にお応えしてアンコール復刊(1988年岩波新書50年記念復刊) 地球生態系の中で自然を見直す」(腰巻きのフレーズ)。植物の知恵と戦略に人類は勝てるのか。
  • 出町 誠: 14_NHK趣味の園芸:よく分かる栽培12ヶ月  カキ(NHK出版2007年)
    初心者向け柿栽培参考書(新版)。旧版と比較すると楽しい。
  • 中村三夫: 13_NHK趣味の園芸:作業12ヶ月  カキ(NHK出版1996年)
    初心者向け柿栽培参考書(旧版)。新版と比較すると楽しい。
  • 山科正平: 12_細胞を読む   電子顕微鏡で見る生命の姿
    細胞はどんな部品からできているのか。そんな疑問に答えてくれる一冊。何事も形を見るのが第一歩。μからÅオーダーの世界で、細胞をメスで解剖するように、電子顕微鏡というメスで解剖して見せてくれるので興味が尽きない。
  • 柳田充弘: 11_細胞から生命が見える
    著者の専門は分子生物学、細胞生物学。普段生物を考えても細胞レベルで止まってしまう。その細胞の中で色々な分子が働いている。細胞こそ生命の基礎だが、その細胞の中の動きを知るのに最適な一冊。疑問の発端はなぜ発根剤が効くのかということ。薬剤が細胞膜を通過して細胞内で分子と分子が作用するイメージができた。本書でできた細胞のイメージは小さな無数の穴が空いた水分が充満したヨーヨーのようなもの。そのヨーヨーの中に分子部品が詰まっている。細胞自体もタライの中のヨーヨーのように浮かんでいる。細胞図面の空白部は真空でなく水分だ。細胞の内外に水がないと細胞は生きられない。水が生命のゆりかごだ!
  • 野口悠紀雄: 10_ホームページにオフィスを作る(2001年 光文社)
    ITが輝いた時代の作品。HPの活用法は参考になる。参考:url=http://www.noguchi.co.jp/(野口悠紀雄 ONLINE)
  • 小池洋男 編著: 09_果樹の接ぎ木・さし木・とり木(農文協:2007/3/31第1刷)
    やや専門的であるが、実務専門化が分担執筆しており、その場で役に立つ一冊。
  • ノーバート・ウィーナー(鎮目恭夫訳): 08_サイバネティックスはいかにして生まれたか(みすず書房1956)
    情報と通信という現代社会に不可欠の基礎的な学問を作った著者の自伝とそれを通した科学史
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